いざ鎌倉(7.巨福呂坂切通編) | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・っということで、次の古戦場は【巨福呂坂切通】。

最初に書いたとおり、鎌倉は周囲を険しい山でぴっちりと囲まれている。

唯一開けているのは南の由比ガ浜だけである。

難攻不落の自然の要塞である。

鎌倉に入るには数箇所設けられた「切通」を通る以外にない。

巨福呂坂切通は鶴岡八幡宮のすぐ北に通じる切り通しである。



1333年に新田義貞が鎌倉攻めのとき、当然ながら各切通は激戦地になった。

この巨福呂坂もその一つ。

多摩川の分倍河原の勝利で勢いに乗った新田軍も流石に攻めあぐねた。

渋滞の名所である今の切通とはほんの少しだけ離れた人道である。

結局新田軍はここを抜けずに別の経路を探らざるを得なかった。

石碑が建っていたが、戦いとの関係は不明。



今は行き止まりの細い道になっている。



行き止まりには民家が建っていて、今は人間も通り抜けられないようになっていた。

実際に訪れてみると、如何に攻めにくく、守りやすいかが判る。

だが、いくら難攻であっても不落であるはずがない。

こういう地形だからこそ、ひとたび敵が侵入した時は悲劇的な状況に陥る。

ヨーロッパの多くの城塞都市がそうだったように、敵を防御してくれていた壁が、逃げ道をふさぐ壁に切り替わってしまうのである。

682年前の鎌倉で繰り広げられた悲劇はとてつもない規模だっただろう。

狭い盆地状の鎌倉は、逃げ惑う市民たちの阿鼻叫喚で満ち、まるで地獄絵のようだったことだろう。

鎌倉には堀や、城壁などの二次三次の防衛線は築かれていなかった。

細い「滑川」が流れているだけである。

最初に訪れた東勝寺跡も切り立った崖が迫っている。

北条の人々はこの崖の下まで追い詰められ、自害していったのである。

鎌倉という地形が持つ、必然といえば必然の結末である。

ぼくは思う。

それは、ここに首都を築いた源頼朝の責任ではないかと。

彼は、首都が将来発展することを考えていなかった。

この狭い地を選んだとき、防衛することだけを考えていたのだ。

それだけの人間でしかなかったとぼくは彼を評価する。

京都に憧れ、京都と同じ盆地状の地形に都を築いたけれど、スケールは京都のそれよりずっと小さく、「小京都」でしかないのだ。

同じ東の国に首都を建設するなら、小田原とか横浜をなんで選ばなかったのだろうか。

やはり、彼はケツの穴の小さい小心者であったとぼくは断定してしまう。

・・・・・・つづく。