・・・・・・・ということで、天才と気違いは紙一重といわれます。
ちなみに、現代では気違いは差別用語だそうですので、狂人といえばいいのでしょうか。
ぼくの勝手な解釈では、普通の人に見えないものが見え、あるいは普通の人が考えていないものが考えられる人を天才というのではないでしょうか。
そういう人を普通の人が見れば、狂人に見えることでしょう。
天才の代表格であるモーツァルトは、かなり変わった人物だったはずです。
そういう人は極一握りの数しか生まれません。
しかし、ぼくの定義に沿えば、子供はみな天才だということになりませんか。
大人が見えないものを見、考えられないことを考えているからです。
子供のときは、大人に比べ情報量が圧倒的に少ない。
その少ない情報を補うために想像力を目いっぱい働かせると思いませんか?
NHKのドラマじゃないけれど、子供は想像の翼を思いっきり広げることができるのです。
ところが大人になるにつれ、天才だった子供は凡人になってしまうものです。
子供の頃、「末は博士か大臣か」なんていわれていた子供に限って、平凡なサラリーマンになってしまうのです。
どうしてでしょうか?・・・と考えてみます。
それは見えないものはやっぱり見えなくなって、他人が考えていないことは考えられなくなるからです。
そういう自分の独自性は、社会では奇人や狂人だと見られかねないことを知るからです。
成長するにしたがって、常識に染まってしまうのです。
結局他人の作ったもの、他人の考えたものに自分を合わせて生きる術を身に付けていくのです。
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いまの子供たちはぼくらが子供だったときより、ずっと多くの情報に囲まれて育ちます。
それらの情報を自分で咀嚼し、なにが大事か不要かを選ぶ能力が求められているのです。
だけれども、それらは他人が作った情報で、その一つ一つの情報は十分に洗練されていない中途半端な情報ばかりです。
だからこれから有能な人物か否かは、その選別能力の高さで判断されるかも知れません。
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ここで、ぼくらが子供のときの遊びを思い出してください。
釘一つ、石ころ一つ、空き缶一つ、縄一つで無限の遊びを考え出して、一日中遊ぶことができた。
流れる雲を眺めながら、動物の姿を連想したり、田んぼの道で見つけた草花、おたまじゃくし、バッタ、ザリガニを一日中眺めて過ごすことができた。
ところがいまの子供たちは、ゲームで遊ぶ。
そのゲームは自分の想像が入る余地がまったくない。
ゲームのプログラマーが考えた以上のことは絶対にできない。
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今回ぼくが言わんとすることは分かっていただけたと思います。
これから天才が出現する可能性が激減するんじゃないかと危惧しているのです。
その代わり、大量の狂人を生み出すのじゃないかと・・・・・・・。