・・・・・・っということで、日本の金持ちなんて海外の金持ちに比べたら、スケールが小さい。
何故だろう?・・・っと考える。
人間誰でも大金持ちになりたい。
何故なりたいか、それは金持ちになって何かを得たいからだ。
何が欲しいのだろう?
この欲しいものが、日本人と外国人と違うのではないか?・・・と考える。
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NHK朝ドラマの花子とアンでは、公爵家の娘と福岡の成金が結婚してその違いが比較されていて面白い。
成金は大きな家に住んで、お手伝いさんを沢山雇って、いい着物を着て、美味いものを飲み食いし、若くて綺麗な奥さんを娶ったうえ、大っぴらに妾を囲っている。
日本海外を問わず、金持ちになって得たいなんてものはこのくらいだろう。
海外の金持ちはさらに、ヨットや自家用機を持っている。
持っていても使う機会はほとんど無いだろうなんて問題じゃない。
持っていなければ金持ちと認められないだけなのである。
なにか、外国人は金持ちのイメージを日本人より明確に持っているような気がする。
このあいだ観たギャツビーという映画も面白かった。
主人公は毎晩のように多くの人々を招いて、パーティーを繰り返すのだ。
どうしてだろう?
ケチだと思われたくないのだ。
さらに、慈善事業に金を使っているというポーズを取ろうとする。
この辺も海外と日本の差じゃないだろうか。
日本はあまり自分が金持ちであることを知られたくないように振舞う。
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外国の金持ちのスケールが大きいのは、外国の方が金持ちというイメージを明確に持っているのがその理由だろう。
そして、重要なことは、金持ちの夢を実現した人物が自国にいることである。
目標とする人物がいるということは、目標を立てやすいのだ。
日本にはそういう人物がいない。
居ても隠れて、見えないのである。
これでは大金持ちの日本人が生まれるチャンスが少ないのはアタリマエであろう。
では、今まで居なかったかというと、居たのである。
明治以後、莫大な財を成した人物は多数居た。
財閥もそうだろうし、大地主もそうだろう。
今の日本には、当時と比較すべき財閥の頭領とか大地主なんて存在しない。
それでもたまぁ~に、小粒の金持ちが世間に出てくることがある。
だが、その品格たるや、お粗末そのものである。
敢えて具体例は出さないけれど。
違法行為スレスレで金を儲けた連中ばかりで、すぐに舞台から引き摺り下ろされてしまう。
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そう、品格なのである。
究極のところ大金持ちは何を得たいかというと、品格なのではないだろうか。
ギャツビーも福岡の石炭王も、結局は品格という壁は乗り越えられなかった。
名誉とか、権力は金で買えるだろう。
だけれども、いくら金を積んでも品格は買えない。
それでも金持ちは欲しがる。
どうするか。
貴族と結婚するのである。
貴族というものは、金と権力と名誉、そして品格を備えているとされる人物なのだ。
海外にはまだまだ貴族が存在する。
だが日本はどうだろう?
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金持ちを目指すことは悪くは無い。
悪くないどころか、どんどん目指すべきである。
現代の日本の不幸は、目標とする具体例が存在していないことじゃないだろうか。
ならば、せいぜい精神的な貴族を目指そうではないか。