・・・・・・っということで、先に紹介した映画の話や北陸の話は、親の責任と義務について考えさせられる。
見知らぬ赤ん坊をアンタの子だと差し出された父親、そのことを本人に隠し続けたまま育てようと決意した母親、そんな連れ子をも自分の子として育てようとする黒人男性、レイプ犯の子供だけれども離婚して育てようとする母親。
どれも特殊な状況だけれども、子供を置き去りにするわけにはいかない。
育てる責任と義務は一義的に親にあるのであって、親はそれから逃れられないのです。
考えてみれば、子供を持つことは恐ろしいことなんですね。
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また変なことを言いますが、ぼくは子供が生まれたとき、この子に「生を与えたと同時に死を与えてしまった」と感じた変な父親なのです。
意味することは説明の余地はないでしょう。
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世の中には、子供が欲しくても出来ない人たちがいる。
世の中には、子供が出来るのに作らない人たちがいる。
前にも言ったとおり、その人達を気の毒に思わないし、非難もするつもりもありません。
なぜなら、ぼくら夫婦が子供を作ったことが正しいことだったかは、未だに分からないからです。
負わなくても良かった責任と義務を負ってしまったからです。
自分たちがそれらを負う資格があったかどうかも自信がないからです。
ただ一つ言えることは、たすきを渡したという達成感だけです。
子供を作り育てるということは、駅伝のようなものです。
親からたすきを渡され、何人かは抜き、何人かに抜かされたでしょう。
でも、途中棄権もしなかったし、次の子供にたすきを渡すことが出来た。
そのたすきを渡す行為がどんなものなのか、自問自答はしているけれど、なんかホッとした感じはするのです。
ぼくが受け取ったたすきは、人類が発生したとき以来、ずっと途絶えることもなく、偶然ぼくに渡ってきたものなのです。
もちろん多くのたすきが渡されずに途絶えた。
でも、奇跡的にぼくには回ってきた。
渡さずにそのままにしたら、ぼくのところでストップしてしまう。
ホッとした感じとはそういうことなのでしょう。
たすきを渡した子供がその後どうするか、もう関係のないことなのです。
だから、子供が欲しくても出来ない人や、意図的に作らない人がいるのも、それが人生だとしかいえないのです。
以上でこのシリーズ終わり。