・・・・・・っということで、親父が入所している養老院から電話がかかってきて、すぐ出たいからタクシーを呼べと暴れているとのこと。
寂しくて仕方ないのだ。
可愛そうだから、様子を見に行った。
会うとケロッとしていて、本人から出たいなんて話は一切出てこなかった。
だいぶボケが入っていて、正気な時間の割合が日に日に減少してきている。
偶然、会っていた時は稀有な「正気の時間」だったのだろう。(ーー;)
2時間ほど付き合って、久しぶりにじっくり話をした。
・・・・・・
その中で、戦時中の話になった。
親父は陸軍士官学校に入っていて、ぎりぎり戦地には向かわずに内地で終戦を迎えた。
アンタ戦場に行っていたら、間違いなく戦死していたよとからかった。
・・・っというのは、親父はやたら神経質で、ちょっとした傷でもばい菌が入るといって消毒しまくるのだ。
そして、足が偏平足気味でとても陸軍など勤まるはずがないのである。
そんな話をしていると、実は乗っていた船が沈められて漂流したことがあると言い出したのである。
そんな話、聞いてねぇぞと言うと、いや話したはずだという。
そもそも、戦時中の話はあまりはなしたがらないので、聞いたら忘れるはずはない。
その話とはこうだ:
・・・・・・
終戦の年というから、1945年。
サクラを見ずに死ぬのかなぁと思ったことを覚えているから、4月だったとのこと。
制空権は米軍に奪われてしまったので、満州に行って飛行場を建設することになったらしい。
陸軍士官学校の仲間と一緒に舞鶴(京都)から輸送船に乗って、大連に向かったという。
絶対極秘ということだったが、日本海に出た途端グラマン(当時の米軍戦闘機)が機銃で攻撃してきたそうである。
アメリカ軍てぇのはすごいね、ちゃんと知っていたのだと思ったそうだ。
あえなく船は沈没、着のみ着のまま日本海の荒海に飛び込んだそうである。
そこで1時間漂流の後、友軍機の音を聞いたときは本当に嬉しかったそうだ。
飛行機はゴムボートを落して行ったそうである。
そのゴムボートに乗って、さらに1時間漂流したところで日本の駆逐艦に救助され、日本に戻ってきたそうである。
・・・・・・
ホンマかいな?
というのが正直なぼくの印象だった。
なぜなら、4月とはいえ日本海は強烈に冷たいはずだ。
そりゃぁ冷たかった、もう少し発見が遅れていたら死んだだろうなというのが親父の答え。
波が高かっただろうと聞くと、そりゃぁ荒れていたという答え。
よく見つかったなと聞くと、皆がロープで繋がっていたという。
飛行機からゴムボートを落したというのが腑に落ちなかったので、沈没時に海に飛び込んだのかと聞くと、出来るだけ船に残って、最後に飛び込めと指示されたという。
そのときに、ゴムボートなどが浮遊していたので、皆で掴まったという。
あれっ?先ほどと話が違う。
だいぶ死んだだろうと聞くと、陸士仲間が1/3ほど亡くなったという。
あんときゃ、もうこれで死ぬんだと覚悟したと、遠くを見るようにつぶやいた。
そして、オレにとって唯一の生死体験で、本当にツイていたとしみじみと言った。
そりゃそうだろう、もし満州に無事着いていたとしても、ソ連軍にシベリアに強制労働に送られ、陸軍士官学校生であった彼は、先ず生きて帰る見込みはなかっただろう。
・・・・・・
それでも、なにかスンナリと信じる気になれない。
あとで、ネットで「日本海、1945年4月、輸送船、沈没」で検索をかけてみたけれど、それらしき事件はヒットしなかった。
ところどころつじつまが合わないけれど、作り話と片付けるにはもったいない話である。
親父86歳。
ボケが始まる前に、もっとこういう話を聞いておけば良かったと後悔しきりである。
ささやかな歴史ではあるけれど、埋もれてしまう前に出来るだけ発掘したいと思った次第であります。