・・・・・・っということで、ヨーロッパを観光することは、必然的にキリスト教の残した文化の観光とならざるを得ない。
どこへ行ってもキリスト教抜きには語れない。
そして、現在もキリスト教はヨーロッパじゅうに影響を与え続けている。
まあ、食べ物とか自然の景色だけで観光できなくもないが。
それでもキリスト教を避けては通れないのである。
・・・っとなると、どうしてもキリスト教の果たした役割について考えざるを得なくなる。
ぼくら日本人は無宗教でいてもへ一チャラだけれど、こちらで無宗教で生きることは考えられない。
キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、イスラム教にしても、どこかの宗教に属していなければ、仲間外れにされてしまうからである。
今は多少仲間はずれでも生きていく手段はいくらでもあるけれど、例えば中世においてそれは不可能だっただろう。
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ぼくらはキリスト教を宗教として捉えがちだ。
宗教には違いないが、それは一面でしか見ていないことになる。
何か宗教というと、精神的、内面的、個人的な印象を持ってしまいがちだけれど、もっと社会的側面が大きいと考えるべきだろう。もちろん政治的な側面も。
先ほど無宗教でいると、仲間外れにされてしまうと書いたけれど、そんな生易しい問題ではない。
生き残るための手段であるのだ。
いろいろな街を巡ってきたが、どの街も城壁で囲まれている。
当時(今もそうだが)一番怖いのは人間であったことが分かる。
要するに敵ですね。
侵略者といってもいい。
侵略されるということは、命を落とすことであり、土地を含めて財産を失うことであり、奴隷になることを意味している。
これは怖い。
現代人はこの怖さをあまり実感を持って想像できていないのじゃないかと思う。
そうでなければ、これほどの城壁を作る理由が立たない。
そう、生き残るためには団結せねばならない。
結束力が強いほど、敵に負けない。
そして、相手を打ち負かすことができる。
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この先は想像つくと思いますが、今回は、ここまで。