・・・・・・・っということで、遊んでいますので、あまり真剣に取らないで下さい。
「自分とは言葉にすぎない」について何度か書いているけれど、イマイチわからない。
書いている自分でさえも分からない。
その原因は何かというと、自分というものを理解しようとすると、自然と「哲学的思考」という手段を用いざるを得ないと考えてしまうことにあるんじゃなかろうか。
じゃあ、徹底的に「物理的思考」を用いて自分を説明してみようと試みてみる。
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ここに、りんごが一つあるとする。
私が「このリンゴとあなたは同一である」と言ったとしよう。
誰だって、「そんなバカな、リンゴと自分が同一であるはずがない」と答えるだろう。
だって、リンゴと自分は別々の実態であるから。
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じゃあ、自分という実態と他者の境界線はどう認識すればいいのか。
「簡単じゃないか、自分を覆う皮膚(体毛も入れて)の内側だ」というのがフツゥーの物理的自分の認識だろう。
だが、あなたがそのリンゴを食べたとしよう。
リンゴは消化吸収され、あなたの体の一部を構成することになる。
ホラ!リンゴとあなたは同一じゃないか。
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「いや違う。リンゴはエネルギー源として細胞に栄養を与え、消化されない部分はクソ(オット失礼)として対外に輩出されるから、短時間でしか体内に残らない」
と反論を試みるだろう。
だが、リンゴではなくそれが焼き豚(でなくてもいいが)だったらどうだろう。
そのカルシウムやたんぱく質は、あなたの骨や肉を構成する材料になるのだから、焼き豚はあなたと同一であると言えるのではないか。
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これらの理屈により、自分を覆う皮膚の内側という定義では、自分というものを正しく定義していないことが分かるだろう。
髪の毛は、間違いなく自分を構成する要素の一つだが、抜けていった毛はもはや自分を構成していない。(これは自分で書いていて辛い例えだ。)
爪だってそうだ。
先ほど出たクソの例でも、体内にあるうちは自分だが、排便されたあとは触るのもいやな物体に変貌する。
じゃあ、自分とは今現在自分に役立っている組織が自分であって、役立たなくなった途端に自分とは言えないと定義してもいいかもしれない。
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ついでに、物理的な定義をもう少し進めてみることにしよう。
ついでと言ってしまって後悔しているのだが、女性はこの定義はもっと複雑になってくる。
それは妊娠するからだ。
女性が妊娠しているとき、おなかの中の子供は誰だろうか?自分だろうか?
男性がほんのちょっと(実にほんのちょっとなのだが)きっかけを与えて、女性の卵子(これはもともと女性のものだ)が細胞分裂を始める。
赤ん坊というのは全て女性からの栄養補給を受け、女性のお腹の中で成長していく。
どう見たって、赤ちゃんは女性の体の一部であるはずだ。
でも、赤ちゃんは別の生命体(他者)とみなされる。
自分の細胞を元に、自分が与える栄養で育っているにもかかわらず、他者というのは納得できない。
その証拠に、母親が死んでしまったら、赤ちゃんも死ぬじゃないか。
そして、出産して、へその緒を切られることによって、名実ともに赤ちゃんは他者となる。
そのくせ、その他者は母親の母乳が無ければ生きていけない存在なのだ。
でも、それは母親とは別のDNAを持つ他者なのだ。
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男性はこの感覚が全く分からない。
分からない者が女性の自己を物理的に定義しようとするのは不可能だ。
何を言いたいかというと、自分というものを物理的に定義するのは不可能だということだ。
少なくとも、非常な困難を伴うということだ。
・・・・・・とすると、自分とは言葉に過ぎないとは言えないだろうか?
だって、物理的な定義に失敗したのであるから、言葉という非常に曖昧な、
別の言い方をすれば、哲学的な定義をせざるを得なくなるのではないだろうか?