・・・・・・・っということで、【老子】は何度も読んだはずなのに、
その教えが何も身に付いていない事実に愕然とする。
何度読んでも新しい発見があるという納得の仕方もあるが、簡単に忘れてしまう自分が悲しい。
また、老子を読み始めた。
冒頭に万物には最初は名前が付いていなかったと書いてある。
名前は表層的なもので、本質を表していないと。
ツイこの間、「自分」とはというテーマでこねくり返したばかりだ。
なんてことはない、老子を読めば明快に書いてあるのだ。
・・・・・・
そしてまた、名前について考えた。
例えば林檎。
林檎という名前を付けたばかりに、その説明をしなければならなくなる。
林檎についてこと細かく説明したとしても、林檎を完全に定義しきったわけではない。
そう、名前は不完全なのだ。
林檎そのものは存在するのに、その概念は人によって様々だ。
簡単な林檎でさえそうなのだから、自分とはなんていうことを考え出したらきりがない。
そうはいっても他と区別するために、人間は片っ端から名前を付ける。
でも、全部に名前を付けた気になっているが、名前を付けられないものも沢山あるはずだ。
実はそのほうが圧倒的に多いはずなのに、名前を付けたことによって人間は分かったような気になっている。
「ホントーに大事なものは名前が付けられないものかもしれない」
・・・と考えてみることは大事じゃないだろうか?
そして、名前とは仮のものであると、ときどき思い出すことも必要だろう。