自分というもの | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
暇はあるけど体力と金と気力がない。
そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、昨日は「基本ソフト」という題で、

人間とコンピュータの違いについて書いた。

今日のお題は「人間と動物の違い」。

小学校のとき、先生から人間と動物の違いを質問された。

ぼくは直ぐ手を挙げて「二本足で立つことです」と答えた。

先生からは「ウゥ~~ン、もうチョイ」といわれた。

ぼくはピンと来て、「直立歩行」と正解を言って褒められ、

得意な気持ちになったのを今でも覚えている。

当時はそれが正解だった。

だが、今の教科書にまさかそれが正解だとは書いていないだろう。

犬だって、レッサーパンダだって、サルだって器用に二本足で立ち上がり、歩くことが出来る

じゃないか。

まあ、いろいろな考え方があると思うが、ぼくなりにその違いの本質を考えてみた。

・・・・・・

「人間は一人で生きていけないこと。」

これが今のところ、ぼくの中での人間の定義だ。

基本的に人間は裸だ。

裸であるということは環境の変化に弱い。

腕力だって歯だって、嗅覚だって貧弱だ。

武器(道具)がなければ獲物をとることもできない。

だが、動物は違う。

母親から獲物の獲り方を教えられれば、後は一人で生きて生けるだけの身体的能力を備えている。

ところが人間は複数で「共同作業」をしなければ生きていけない。

それが出来なければ、とっくの昔に人間という種は滅びていただろう。

共同作業をするためには意思の疎通が出来なければ成り立たない。

意思の疎通は動物でも出来るではないか?

敵が近くに来たぞ、お腹空いた、交尾したいぜ、ここはオレの縄張りだ。

せいぜいそんなものである。

(ホワイト家族の白い犬は、喋ることによって逆に不幸じゃないかと心配しているのだが。)

動物にも声帯があるが、それほどたくさん情報を交換しなくても、生きていくうえで不自由しない。

ところが、人間は意思の疎通を図らなければならないことは沢山ある。

そのためには言語が発達しなければならない。

人間の声帯がいろいろな音=言葉を話せるように進化したのは当然である。

そう、「言葉」なのである。

第一の定義「人間は一人で生きていけない」を再定義すれば、

【人間は社会的な生き物である】となる。

社会的な生き物である以上、【言葉】の獲得は必須である。

言葉の持つ重要性をもう一度良く考えてみる必要がある。

あまり使いたくない例だが、言葉を理解できないと人間社会の中では生きていけないだろう。

昔、狼に育てられたという子供がいたが、それを人間と呼んでいいのだろうか?

・・・・・・

言葉というものは「他と区別する」働きを持っている。

例を出すまでもないだろう。

人間は言葉によって物事を区別し、その区別にしたがって分類し、頭の中で理解する。

動物でも区別するだろうと言われるかも知れないが、匂いで親や敵味方を識別したり、

見た目で識別したりするだけで、言葉で分類することはない。

・・・・・・

さて、ここで言いたいのは自分と他人という区別である。

他と違う自分というものの存在を、初めて人間は気づくのである。

言葉によって気づくのである。

そこで【自我】というものが出現するのである。

実は、この【自我】というものは非常に厄介なものである。

これが生じたために、「自分の幸せ」、「自分の損得」、「他人を愛する」、

「憎しみ」、「妬み」そして「死への恐れ」・・・

などという感情が生じるのである。

どうです?

どれもこれも厄介な感情でしょう?

もし、【自分】というものを自覚しなければ、そういった悩みは生じないのです。

動物は、絶対自分というものを持っていないはずです。

なぜなら、自分という【言葉】を持っていないからです。

どうです?

面白いでしょ?

えっ?全然面白くないって?

そうかな?

みんな幸せになりたいと思っているでしょ?

それは、自分が幸せになりたいのであって、自分というものを自覚していなければ、

幸せなんてどうでもいいことなんです。

死だって怖いですよね。

でも、死というものはこの世から【自分】が消え去ってしまうことでしょ?

自分がなければ、死なんて全然怖くないはずです。

・・・・・・

言葉の力ってそういうことなんです。

言葉があるために、自分が存在するのです。

無ければ、自分は存在しないのです。

それが人間というものなのです。



以上、【無我】というものをぼくなりに理解した内容です。

何故、仏教が瞑想をすることによって、全ての煩悩を離れ、

【無我】の境地に達することを目指すのか、なんとなく分かった気になりません?