・・・・・・・っということで、昨日は「基本ソフト」という題で、
人間とコンピュータの違いについて書いた。
今日のお題は「人間と動物の違い」。
小学校のとき、先生から人間と動物の違いを質問された。
ぼくは直ぐ手を挙げて「二本足で立つことです」と答えた。
先生からは「ウゥ~~ン、もうチョイ」といわれた。
ぼくはピンと来て、「直立歩行」と正解を言って褒められ、
得意な気持ちになったのを今でも覚えている。
当時はそれが正解だった。
だが、今の教科書にまさかそれが正解だとは書いていないだろう。
犬だって、レッサーパンダだって、サルだって器用に二本足で立ち上がり、歩くことが出来る
じゃないか。
まあ、いろいろな考え方があると思うが、ぼくなりにその違いの本質を考えてみた。
・・・・・・
「人間は一人で生きていけないこと。」
これが今のところ、ぼくの中での人間の定義だ。
基本的に人間は裸だ。
裸であるということは環境の変化に弱い。
腕力だって歯だって、嗅覚だって貧弱だ。
武器(道具)がなければ獲物をとることもできない。
だが、動物は違う。
母親から獲物の獲り方を教えられれば、後は一人で生きて生けるだけの身体的能力を備えている。
ところが人間は複数で「共同作業」をしなければ生きていけない。
それが出来なければ、とっくの昔に人間という種は滅びていただろう。
共同作業をするためには意思の疎通が出来なければ成り立たない。
意思の疎通は動物でも出来るではないか?
敵が近くに来たぞ、お腹空いた、交尾したいぜ、ここはオレの縄張りだ。
せいぜいそんなものである。
(ホワイト家族の白い犬は、喋ることによって逆に不幸じゃないかと心配しているのだが。)
動物にも声帯があるが、それほどたくさん情報を交換しなくても、生きていくうえで不自由しない。
ところが、人間は意思の疎通を図らなければならないことは沢山ある。
そのためには言語が発達しなければならない。
人間の声帯がいろいろな音=言葉を話せるように進化したのは当然である。
そう、「言葉」なのである。
第一の定義「人間は一人で生きていけない」を再定義すれば、
【人間は社会的な生き物である】となる。
社会的な生き物である以上、【言葉】の獲得は必須である。
言葉の持つ重要性をもう一度良く考えてみる必要がある。
あまり使いたくない例だが、言葉を理解できないと人間社会の中では生きていけないだろう。
昔、狼に育てられたという子供がいたが、それを人間と呼んでいいのだろうか?
・・・・・・
言葉というものは「他と区別する」働きを持っている。
例を出すまでもないだろう。
人間は言葉によって物事を区別し、その区別にしたがって分類し、頭の中で理解する。
動物でも区別するだろうと言われるかも知れないが、匂いで親や敵味方を識別したり、
見た目で識別したりするだけで、言葉で分類することはない。
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さて、ここで言いたいのは自分と他人という区別である。
他と違う自分というものの存在を、初めて人間は気づくのである。
言葉によって気づくのである。
そこで【自我】というものが出現するのである。
実は、この【自我】というものは非常に厄介なものである。
これが生じたために、「自分の幸せ」、「自分の損得」、「他人を愛する」、
「憎しみ」、「妬み」そして「死への恐れ」・・・
などという感情が生じるのである。
どうです?
どれもこれも厄介な感情でしょう?
もし、【自分】というものを自覚しなければ、そういった悩みは生じないのです。
動物は、絶対自分というものを持っていないはずです。
なぜなら、自分という【言葉】を持っていないからです。
どうです?
面白いでしょ?
えっ?全然面白くないって?
そうかな?
みんな幸せになりたいと思っているでしょ?
それは、自分が幸せになりたいのであって、自分というものを自覚していなければ、
幸せなんてどうでもいいことなんです。
死だって怖いですよね。
でも、死というものはこの世から【自分】が消え去ってしまうことでしょ?
自分がなければ、死なんて全然怖くないはずです。
・・・・・・
言葉の力ってそういうことなんです。
言葉があるために、自分が存在するのです。
無ければ、自分は存在しないのです。
それが人間というものなのです。
以上、【無我】というものをぼくなりに理解した内容です。
何故、仏教が瞑想をすることによって、全ての煩悩を離れ、
【無我】の境地に達することを目指すのか、なんとなく分かった気になりません?