・・・・・・・っということで、愛という言葉は昔の日本語にはなかったことは、以前ここで触れた。
だからといって、その言葉を定義し直そうなんて大それたことは考えていない。
ただ、実にあやふやな言葉であることだけは指摘したいという衝動に駆られる。
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あなたが他人を愛しているというとき、その人の何を愛しているのだろう?
実は、「自分が作り上げたものを愛しているのだ」というのが今日のお題である。
・・・っというと、ピンとくるだろうか?
他人のことは分からない。
他人が発するいくつかの情報の積み重ねを通して、その人の像を心に結ぶ以外、他人を分かるということは出来ないはずである。
人間は他人と完全に同化することは不可能だからだ。
手がかりになる情報とは、その人の言動が圧倒的に多いだろう。
遠くから眺めたり、直接会話したり、あるいは接触を通じて、その人が好ましいかどうか判断するわけだ。
そして、好ましい要素が増えてある一定の水準を超えると、その人を愛するということになる。
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こう考えていけば、至極単純だ。
ところが、そう簡単にはいかない。
まず、好ましいとの第一印象を持ってしまうのである。
そうすると、対象となる相手の好ましい情報ばかりを収集し、それを元に判断しようとしがちなのである。
さらに、なんでもない言動を、好ましいものに捻じ曲げて蓄積してしまうのである。
そうなんです、まず相手が好ましいというフィルターをかけてしまうのである。
そして、対象が愛すべき人間であるとの判断にはめ込んでしまうのだ。
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だが、もっと事情は複雑だ。
相手が、好ましい印象を与えるよう、演技をすることがあり得るからだ。
要するに情報操作ですね。
もちろん演技の上手い下手はあるが、だましたくてうずうずしている連中の存在はご存知のとおり。
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ここまで書けば、分かっていただけたと思う。
愛すべき人物=本当の人物ではないということだ。
愛すべき人物=自分が作り上げた虚像という方がより近いであろう。
最初に提示した「自分が作り上げたものを愛しているのだ」というのはそういう意味である。
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では、愛すべき相手と、恋仲になるにしろ、結婚に至るにしろ、自分の作り上げた虚像との対決になる。
大体は、創造したものと現実のギャップに悩まされることになる。
それにどこまで耐えられるか、
あるいは、新しく好ましい面を発見できるかに、
その愛が続くか否かがかかっている。