開きなおりの文化(その4) | so what(だから何なんだ)

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人生のバックパッカーのブログです。
暇はあるけど体力と金と気力がない。
そんなお年頃。
68カ国で止まったまま先に進みません。(;^_^A

・・・・・・・っということで、まだこのシリーズ続いています。


ぼくが子供の頃は、学校のクラスには頭のいい子と悪い子が同居していた。


高校生になって、大体いい学校とそれほどでもない学校に分かれて、


ようやくクラスの中には極端に頭の悪い子は居なくなった。

(ぼくはいいほうの学校に行ったという、嫌味な書き方ですが。)


今もそうなのかもしれないし、そうじゃないかも知れない。


ぼくの二人の娘は、小学生の頃に既にふるいにかけられて、


頭のいい悪いの差は極端ではない学校だったから、現実は分からない。


ぼくがこれから言いたいのは、今の学校はふるいにかけられるのが早すぎるんじゃないかということ。


この前提が間違っていたら、これからの話は意味を成さない。


もし前提が正しければ、これは正さなければならないと思う。


小中学校では、物凄く頭のいい生徒と、物凄く悪い生徒は同居すべきである。


そして、物凄く貧乏な家庭の子供と物凄く金持ちの家庭の子供も、同居すべきである。


同じく乱暴な子供と大人しい子供、美人の子とブスな子、チビとデカ、


運動神経のいい子とドンクサイ子・・・。


簡単に言ってしまえば、ちびまる子ちゃんのクラスのようでなければならない。


子供たちはこういう環境で学ぶのである。


社会というものを。


それを、早い段階でふるい分けしてはいけない。


絶対にいけない。


勉強の出来る子は、学級委員長になるべきである。


勉強できる子は、クラスの尊敬を集めなければならない。


選ばれた子は、それに相応しい風格を身につけようと、ごく自然に努力するものだ。


勉強が出来ない子でも、卑屈になる必要はない。


喧嘩に強い子は、尊敬(恐れ?)を勝ち取ることが出来る。


いつも成績は最低でも、美術の時間になったらとてつもなくいい絵を描く子もいる。


家庭が貧乏でも、いつも皆を笑わせる才能を持った子もいる。


・・・・・・


ぼくの小中学生時代を思い返せば、こういう子供たちはいくらでも思い浮かべることができる。


子供たちはこういう環境において、人間社会というものを学び、


社会における自分の「居場所」を見つけるものだ。


そして、他人に対する思いやりというものも学ぶのである。


だが、もし、同じようなレベルの子を集めたらどうなるのであろう?


お互いに、差がないのだ。


明らかな差が付かない中で自分の個性を発揮しようとすれば、


足の引っ張り合いが起きるのは自明の理だろう。


いじめが起きるのは、ひとつはこれが原因ではないだろうか?


・・・・・・・


いじめ問題は、今回のテーマ【開きなおりの文化】ではないので、話を元に戻す。


つづく。