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三浦綾子さんの書いた『氷点』上下巻を一気読みしました。
キリスト教の原罪について書かれた素晴らしい内容でした。
感想について、忘れないうちに書きたいと思い、こちらも一気に考えていることを書きました。
主人公は医師で病院経営者。妻は美人で病院経営も順調で男女二人の子供に恵まれ、何不自由しない暮らしを送っていた。
そんなある日に妻の不貞中にまだ3歳の長女がタコ部屋出身の男に絞殺される。
その男には赤ちゃんがおり、妻は赤ちゃん出産時に死亡。また男も逮捕後留置場内で自殺。
自分の不貞中に殺されたことを知って激しい後悔の念に駆られた妻は亡くなった3歳の長女だと思って育てるので、赤ちゃんが欲しいと夫に願う。
妻は病気のため不妊手術をしていた。そして夫は3歳の長女を殺した犯人の子供が孤児となり乳児院にいることを知った。
このため、妻の不貞中に放置された長女が殺されたことを知った夫は妻への復讐のため、3歳の長女を殺した犯人の子供を引き取り、妻には何も知らせずに自分の子供として育てさせ、いつの日か真実を話して妻を激しく後悔させることによって自分の復讐とするのであった。
人間の憎しみとはこのように深く、激しいものなのかと思わずにはいられません。
夫から妻への憎しみだけではありません。
人の間にうごめく憎悪の感情がこの小説にはたくさん出てきます。
もっと素直に話し合ったら、もっと感情を表に出したらと思うことがたくさんあります。
しかし、沈黙が美徳とされる日本においては、話しすぎること、感情をあらわにすることは美徳とはされないのですね。
いろいろ引用したい文がありましたが、その中でも気になった文章が二つあります。
「なにを考えているのかわからない、というのは思慮深いということである。」
「秘密を持つということは大人になったということである。」
2つ目の「秘密を持つということは大人になったということである。」
この文章はこの小説における一番重要なことではないかと思うのです。
この小説における一貫したテーマはキリスト教における人間の原罪。
原罪とはエデンの園で神との約束を破ってイブが禁断の木の実を食べて、アダムにも食べさせてしまったことです。
その結果、裸でいることが恥ずかしくなってしまったことです。
裸でいることが恥ずかしい。
それは心が裸になることも恥ずかしいと思うことにもつながります。
そしてその姿を隠すことになるのです。
裸の姿を隠し、神に対してもうそをついた罪を隠し、そしてついには自分の感情さえも隠すことによってお互いがお互いを疑い合って生きていってしまうことになるのです。
こういうプロセスを考えると、これは子供が大人になっていくプロセスと同じではないかと思うのです。
純真無垢であった子供がいろいろ教えられ、大人と子供は違うことを知っていきます。
いつしか大人の世界は思慮深く、子供の世界は浅はかだと思うようになります。
ついには自分の感情を抑え、思慮深くなります。
思慮深くなる。言い得て妙です。
病院長夫妻に引き取られ、大事に育てられた犯人の娘はとてもいい子供に育ちます。
しかし、この娘もある事件を境に思慮を持ち始めます。
そして人を疑い始めるのです。
純真無垢な心とはなにか。
そしてエデンの園で禁断の木の実を食べる前のアダムとイブが持っていた心で、その約束を破って純真無垢な心をなくしたことが原罪ではないのかと考えてしまいました。
さらにこの小説にはもう一つのテーマがあります。
聖書にもある、「汝の敵を愛せよ」ができるのか。
主人公である夫は、自分の娘を殺した犯人の血が流れている犯人の子供を愛情をもって育てられるのか。
「汝の敵を愛せよ」を実践できるのか。
キリスト教においては、人は神の子であり、人類は兄弟。
同じくこの日本においても子供は授かりもので、天からいただいたもの。
そのように考えると、子供とは自分の所有物ではないのです。
一つの独立した存在で、その心は誰にも侵害できない。
血を受け継ぐと言っても、元はと言えば、出所はすべて同じなのです。
さらに言えば、身体も借り物であり、精神が宿り、その存在を知らしめるためだけの道具。
それは言葉も同じで、言葉は発した瞬間に精神から離れ独立に存在するようになる。
だからいろいろな言葉を使って表現しなければ、その言葉を発した人の本当の意味を知ることはできない。
この犯人の娘も同じことだと思います。
犯人の血を受け継いだのは、単にそれを借りただけ。精神やその存在は天から授かったものなのです。
そのように考えると、たとえ、殺人犯であったとしても、それを犯した人の心は誰もが持っている純真無垢な心をなくし、憎悪や人を疑う心、つまり原罪を持った心なのだということがわかります。
そしてその原罪の意味を知り、純真無垢な心を取り戻すことがキリスト教の役目なのではないのかと思ってしまうのです。
そして「汝の敵を愛せよ」とは原罪を持った人の心を純真無垢な心に戻すことなのではないのかと思ってしまうのです。