今回は超有名スポット(のはず)。

日産スタジアムや日産フィールド小机に行ったら、帰りにでも寄ってみていただきたいところですよね。

 

  【小机城】  訪問日:2016年10月2日(5回目ぐらい?)

 

(左:日産スタジアム側から臨む/右:城跡石碑)

武蔵国橘樹郡小机郷
別名:飯田城、根古屋城
築城年:不明(永享年間か)
廃城年:文明10年(1478年)、天正18年(1590年)
主な城主:豊島氏?、北条為昌、北条氏尭、北条氏光ら
規模:東西250m、南北200mほど
<オススメ度>
歴史:★★★★★
遺構:★★★☆☆
登り易さ:★★★★★

 

 後北条氏が治めてからは為昌(氏綱弟)、氏尭(氏康弟)、氏光(同)と近親が城主となって小机衆を率いており、その重要度のほどが窺える。玉縄城(鎌倉市)や河越城(川越市)、滝山城(八王子市)などと並ぶ後北条氏の構成する支城群の一つだった。

 城代となったのも北条幻庵や笠原信為など、錚々たる面々。笠原氏は備中井原の出身で、伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)に随って備中から入って重臣となった。宗瑞の片腕ともいうべき存在だ。

 

左:南側にある小机城址市民の森入り口/右:城跡を東西に分断する第三京浜


  さて、そんな小机は日産スタジアムの向かいに遊水地があるように、近代まで湿地帯だったところで、大きく蛇行する鶴見川がたびたび氾濫しては農地を荒らし、流路を変え、また恵みをもたらした。そこにそびえる丘に築かれていることから攻めるに難しい難所だったのは言うまでもないだろう。
 太田道灌によって没落させられた豊島氏が拠点としたように、ゲリラ戦を行なうにはもってこいの土地柄。追撃するように押し寄せた道灌も苦慮したという。結局道灌によって陥落させられ、破却されたものの、後北条氏が玉縄から江戸に進出するに従って再興され、小田原合戦まで後北条氏の要衝として続いた。

 


神奈川県横浜市港北区小机町。すぐ東に横浜国際総合競技場(日産スタジアム)があり、城跡を分断するように第三京浜が南北に通る

 

 第三京浜の港北ICを降りて県道13号を東に入って新矢之根交差点で南下し、横浜線手前で右折すると、すぐ小机城址市民の森の入り口となる。車で案内しておいてなんだが、駐車場などはないので新矢之根交差点付近のデイリーヤマザキでお買い物をするといいかもしれない。

 

 

左:堀から曲輪を臨む/右:想定図

 

 想定図(上右)をご覧いただくと分かるが、主郭(本丸)と二の郭(北東部)、および出城(南西部)の3つで構成される連郭式で、それぞれを掘で分けている。やや古い作りではあるが、戦国時代の基本的な平山城だ。

 出城は第三京浜の開通によって破壊され、大きく分断される格好になってしまったが、比較的良好に残されており、富士仙元大菩薩の石碑が立てられている。富士見の丘として、富士山信仰の象徴となっていたのだろう。

 

まずまずの高低差

 

 後北条氏が再興してからは大きな戦火にまみれることはなく、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めでも強硬に攻められるようなことにはならなかった。抗争の歴史はさほど目立つところではないが、戦国時代の重要拠点として是非とも見ていただきたいところの一つだと思う。

出張の続きで。
こちらも伺ってみました。

ふもとにポカリスエットスタジアムを持つ撫養城。
むやと読むんですよね。十河なども読みづらいけど、こちらもなかなかの難読。

 

 主郭跡には妙見神社および展望台『トリーデなると』が建っており、妙見山公園として整備されている。一段低い低地には鳴門ガレの森美術館と、公園の駐車場があり、城跡に訪れるには非常に楽。鳴門駅から歩ける距離(700mほど)でもあるので、手ぶらで来ても充分楽しめる。

 

  【撫養城】  訪問日:2017年10月27日(初)

(主郭跡付近に建つ展望台『トリーデなると』。右奥が公園駐車場)

阿波国板野郡
別名:岡崎城、林崎城
築城年:不明
廃城年:寛永15年(1638年)
主な城主:四宮氏、真下飛騨守、益田正忠
規模:不明
<オススメ度>
歴史:★★★☆☆
遺構:★☆☆☆☆
登り易さ:★★★★★

 古くは鎌倉期に阿波守護となった小笠原氏庶流が入部し、ここを居城としたとも伝わるが、詳しいことは不明。また、小笠原氏の居城については、岩倉城や大西城といった内陸地域でも同様につたわっており、不明点が多く、どちらも鵜呑みにはできない。
 蜂須賀氏時代の阿波九城には、大西城や脇城(岩倉近辺)とともに撫養城も名を連ねており、いずれも古くは小笠原氏一族が治めていたところであるので、正しくは 「宗家ではない小笠原氏の支流が居城としていた」 といったところだろう。全国的によくある話ではある。

 

 順当に居城のあった地域を推定するとすれば、阿波府中(現・徳島市西部)付近だろう。鎌倉時代は府中付近に拠点を築くことが多い。また、畿内への窓口になりつつも、ある程度阿波全土を統治しやすい内陸のほうが向いている。府中付近には一宮小笠原氏もいたため、後に細川氏や三好氏が拠点とする勝瑞あたりにいた可能性も高いかもしれない。

 ともあれ、その三好氏のもとでは撫養城は四宮氏が守っていたという。

 


徳島県鳴門市撫養町林崎北殿町


 現在、撫養城のある鳴門市撫養町林崎付近は、北を小鳴門海峡に、南を旧吉野川に、そして西を撫養川に阻まれ、今ではほぼ島である。なぜか島名はついていないけども。
 撫養川については「沿岸は本来は低湿地で、北半の多くは藩政期に塩田として開発され、撫養塩田の一部を形成していた」というので、江戸以前は塩分濃度の高い湿地だったんですかね。

 さて、小鳴門海峡の向こうにそびえる土佐泊城とは一対(下右)になっているものの、運命を分けたこともあった。
 

 

左:北岸の土佐泊城を含めた地勢/右:撫養城跡から土佐泊城跡を臨む

 

 天正10年(1582年)に勝瑞城の十河存保をはじめとする三好勢が長宗我部元親に相次いで敗れると、阿波の諸城は相次いで長宗我部方に転じた。撫養城も例に漏れなかったが、土佐泊城の森氏は秀吉方の四国入りまで呼応せず。わずか150mほどの小鳴門海峡に守られ、長宗我部氏の四国完全平定を阻む存在となった。

 対岸の撫養城に入った長宗我部家臣・真下飛騨守は何を思っていたのだろうか。

 

 

 主郭は妙見神社側にそびえていたというが、今となっては面影はほぼない。裏側に蜂須賀氏時代のものとみられる石垣が残されている。妙見神社は四宮氏の末裔らが1830年に建立したというが、四宮氏は妙見信仰があったのか、それとも千葉氏の血を引いていたのだろうか。

 南側のトリーデなるとにせよ、妙見神社にせよ、駐車場や美術館にせよ、人類の歩んできた歴史の一つの形とはいえ、遺構がまったく消えてしまうのも寂しいものではある。17世紀前半の破却でほぼすべて破壊されたのかもしれないが。

 

左:北岸の土佐泊城を含めた地勢/右:撫養城跡から土佐泊城跡を臨む

 

徳島ヴォルティスの本拠地・鳴門大塚スポーツパーク・ポカリスエットスタジアムごしに

わずかに見える撫養城(左端)

 

 それにしても、確かにポカスタは徳島中心部から遠い… というか、徳島中心部の渋滞がひどすぎる(笑

 出張で窺ったばかりなのですが。

 

  【雑賀城】  訪問日:2017年10月25日(初)

(跡である中野天満宮)

讃岐国香川郡
築城年、廃城年:不明
主な城主:不明
規模:不明
<オススメ度>
歴史:★☆☆☆☆
遺構:☆☆☆☆☆
登り易さ:★★★★★

 香西氏の家臣・雑賀勘兵衛の城だったというが、詳しいことは不明。遺構はまったくない。付近にはいくつも城郭があったようなので、館程度のものであったのだろう。
 紀州雑賀の衆は傭兵として瀬戸内海や土佐を転戦していたというので、その縁で家臣や与力として働いていたのだろうか。

 


香川県高松市番町5丁目

 

 中野天満宮は中野天満神社とも。元々、香川郡中ノ村(現・高松市中野町付近)にあったものを慶長6年(1601年)に現在地に遷されたとも、1638年(寛永15年)に生駒高俊が遷したともいう…のかな。

 高松藩初代・松平頼重(水戸光圀の同母兄)が崇敬し、大きく寄進したらしい。

 

 城跡にある神社はほとんどが城郭内にあった鎮守様であることが多いが、中野天満宮はちょっと趣向が違うらしい。城跡を利用した天満様だったのでしょうね。