出張の続きで。
こちらも伺ってみました。

ふもとにポカリスエットスタジアムを持つ撫養城。
むやと読むんですよね。十河なども読みづらいけど、こちらもなかなかの難読。

 

 主郭跡には妙見神社および展望台『トリーデなると』が建っており、妙見山公園として整備されている。一段低い低地には鳴門ガレの森美術館と、公園の駐車場があり、城跡に訪れるには非常に楽。鳴門駅から歩ける距離(700mほど)でもあるので、手ぶらで来ても充分楽しめる。

 

  【撫養城】  訪問日:2017年10月27日(初)

(主郭跡付近に建つ展望台『トリーデなると』。右奥が公園駐車場)

阿波国板野郡
別名:岡崎城、林崎城
築城年:不明
廃城年:寛永15年(1638年)
主な城主:四宮氏、真下飛騨守、益田正忠
規模:不明
<オススメ度>
歴史:★★★☆☆
遺構:★☆☆☆☆
登り易さ:★★★★★

 古くは鎌倉期に阿波守護となった小笠原氏庶流が入部し、ここを居城としたとも伝わるが、詳しいことは不明。また、小笠原氏の居城については、岩倉城や大西城といった内陸地域でも同様につたわっており、不明点が多く、どちらも鵜呑みにはできない。
 蜂須賀氏時代の阿波九城には、大西城や脇城(岩倉近辺)とともに撫養城も名を連ねており、いずれも古くは小笠原氏一族が治めていたところであるので、正しくは 「宗家ではない小笠原氏の支流が居城としていた」 といったところだろう。全国的によくある話ではある。

 

 順当に居城のあった地域を推定するとすれば、阿波府中(現・徳島市西部)付近だろう。鎌倉時代は府中付近に拠点を築くことが多い。また、畿内への窓口になりつつも、ある程度阿波全土を統治しやすい内陸のほうが向いている。府中付近には一宮小笠原氏もいたため、後に細川氏や三好氏が拠点とする勝瑞あたりにいた可能性も高いかもしれない。

 ともあれ、その三好氏のもとでは撫養城は四宮氏が守っていたという。

 


徳島県鳴門市撫養町林崎北殿町


 現在、撫養城のある鳴門市撫養町林崎付近は、北を小鳴門海峡に、南を旧吉野川に、そして西を撫養川に阻まれ、今ではほぼ島である。なぜか島名はついていないけども。
 撫養川については「沿岸は本来は低湿地で、北半の多くは藩政期に塩田として開発され、撫養塩田の一部を形成していた」というので、江戸以前は塩分濃度の高い湿地だったんですかね。

 さて、小鳴門海峡の向こうにそびえる土佐泊城とは一対(下右)になっているものの、運命を分けたこともあった。
 

 

左:北岸の土佐泊城を含めた地勢/右:撫養城跡から土佐泊城跡を臨む

 

 天正10年(1582年)に勝瑞城の十河存保をはじめとする三好勢が長宗我部元親に相次いで敗れると、阿波の諸城は相次いで長宗我部方に転じた。撫養城も例に漏れなかったが、土佐泊城の森氏は秀吉方の四国入りまで呼応せず。わずか150mほどの小鳴門海峡に守られ、長宗我部氏の四国完全平定を阻む存在となった。

 対岸の撫養城に入った長宗我部家臣・真下飛騨守は何を思っていたのだろうか。

 

 

 主郭は妙見神社側にそびえていたというが、今となっては面影はほぼない。裏側に蜂須賀氏時代のものとみられる石垣が残されている。妙見神社は四宮氏の末裔らが1830年に建立したというが、四宮氏は妙見信仰があったのか、それとも千葉氏の血を引いていたのだろうか。

 南側のトリーデなるとにせよ、妙見神社にせよ、駐車場や美術館にせよ、人類の歩んできた歴史の一つの形とはいえ、遺構がまったく消えてしまうのも寂しいものではある。17世紀前半の破却でほぼすべて破壊されたのかもしれないが。

 

左:北岸の土佐泊城を含めた地勢/右:撫養城跡から土佐泊城跡を臨む

 

徳島ヴォルティスの本拠地・鳴門大塚スポーツパーク・ポカリスエットスタジアムごしに

わずかに見える撫養城(左端)

 

 それにしても、確かにポカスタは徳島中心部から遠い… というか、徳島中心部の渋滞がひどすぎる(笑