長雨が続いて嫌ですねぇ。諸事情で城跡行く金もないけど、行っても写真撮れないので実に難儀です。

 

 さて、東京都に城なんてあるの? 江戸城だけでしょ? なんて言う人も多いけど、いくらでもございます。“いくらでも”は言い過ぎですが(笑)

 

  【石浜城】  訪問日:2015年6月23日(初)

(跡として有力視されている石浜神社)

武蔵国豊島郡
築城年:不明
廃城年:天正18年(1590)ヵ
主な城主:石浜氏、千葉実胤ほか
規模:不明
<オススメ度>
歴史:★★★☆☆
遺構:☆☆☆☆☆
登り易さ:★★★★★

 秩父平氏・江戸氏庶流の石浜氏が居城としていた。鎌倉期から江戸氏が豊島郡東部へ勢力を広げ、1352年に新田義興(義貞次男)に追われた足利尊氏がここに逃れ、武蔵平一揆の一角として尊氏を庇護し、名を挙げた。やがて観応の擾乱を経て鎌倉府が体質を変貌させると、武蔵平一揆も中枢から外され、1368年に乱を起こして没落した。

 


東京都荒川区南千住

 

 戦国時代に先駆けて享徳の乱が起こると、太田道灌が頭角を現し、豊島郡を席巻。江戸氏は排除され、蒲田氏や喜多見氏が南の荏原郡に残るのみとなったようだ。豊島郡西部に蟠踞していた豊島氏も長尾景春に与したことで駆逐され、道灌が同郡の支配を固めた。

 

 そんな頃、下総の名族・千葉氏に内紛が勃発。幕府方である宗家筋の千葉実胤・自胤(よりたね)兄弟が武蔵に逃れた際、彼らの母が扇谷上杉顕房の娘だった縁もあって、彼らを庇護したのが道灌だった。石浜を本拠として千葉介(千葉氏宗家を意味する)を名乗り、道灌の千葉氏攻撃の旗頭となった。

 実胤の跡を継いだ自胤が一時的に下総臼井城に入ったものの、定着はできず。やがて武蔵千葉氏と呼ばれるようになった。

 

 その後、武蔵千葉氏は石浜や赤塚を拠点として勢力を保ち、後北条氏に与してからも『殿』と尊称された。北条氏綱が付近の浅草寺を建て直した際の当主は、自胤の養子である守胤だった(実胤の実子)

 『小田原衆所領役帳』では遠山綱景率いる江戸衆の一員として記録されており、与力となっていたのだろう。守胤の跡を継いだ胤宗は、遠山氏に従って1574年の関宿城攻めに参加し、戦死している。

 

 

(左)本殿。改修したようで目新しい/(右)神社周囲は東京ガスの敷地。どこからでも見えるガスタンク

 

 直胤には男子がおらず、娘婿として北条氏繁の子・直胤が入って家督を継いだ。

 10年ほどして、佐倉の千葉氏で内紛が起きて当主・邦胤が刺殺されると、北条氏政の子・直重が養子に入っている。氏繁の正妻は氏政の姉妹なので、直胤が嫡出であれば直重は従兄弟にあたる。

 そういえば、北条氏繁の父・綱成の父と推定されている伊勢九郎が戦死した白子原(埼玉県和光市白子)は、千葉自胤が当初入部した赤塚とほど近い。これも一つの縁かもしれない。

 

 

 大きな戦火にまみれた様子はない城ではあるけれども、関東の大戦乱のキャスティングボードの一端を担う存在にもなっていた。

 千葉自胤は対岸の北千住付近にあった三俣で逝去したという。三俣という地名から分かるように街道が交わる地であり、石浜神社が橋場鎮守とされたように付近は荒川辺の宿場としても機能していたのだろう。

 

 江戸時代に利根川東遷事業が進み、大河の流れも大きく変わった。当時とはまるで違う隅田川の川辺を歩いてみるのも面白い。

 

  

千葉自胤が石浜の橋場村で開基した普門院。元和2年(1616年)に亀戸(江東区)へ移された

 敗者の歴史から学ぶ。なんて言葉もあるけれど、最近、平山優氏や丸島和洋氏が武田勝頼本を立て続けに刊行していて面白い。

 NHK大河ドラマ『真田丸』の残り香のようなものでもあるのかな。運命に翻弄されながらも必死に抗い、時に恥辱を耐え忍んで武田氏復興を図った姿に共感を覚えるんだろうか。

 

 その勝頼が遠江奪取に向けた橋頭堡の一つとして築いたのがこの城だ。築城の名手である馬場信春が縄張りした、ということで堅固な要害として知られている。

 

  【諏訪原城】  訪問日:2015年12月29日(初)

(右写真はGoogle Mapsより。諏訪原城跡を東南方向から望む)

遠江国榛原郡
別名 :牧野城、牧野原城、金谷城?
築城年:天正元年(1573)
廃城年:天正18年(1590)
築城者:馬場信春、武田信豊
主な城主:今福浄閑斎、室賀氏、小泉氏ら?
規模:半径200mほどの扇形(1/4円)
[国指定史跡]
[続日本100名城]

<オススメ度>
歴史:★★★☆☆
遺構:★★★★★
登り易さ:★★★★★

 

 東海道脇に築かれたこの城で有名なのは、なんといっても丸馬出し。二の曲輪の西方に大きなものが2つ、さらに南側に小規模な馬出しが3つ連なっている(上左の写真は北側にある大きな丸馬出し)。

 大坂の陣でつくられた真田丸はこの丸馬出しを模倣したものとされていて、防御もさることながら反撃をスムーズに行なう意味合いが強い。

 


静岡県島田市金谷

 

 冒頭のGoogle Mapsによる俯瞰写真から見るとよく分かるけれど、突き出た台地を削って作った城であり、曲輪間や外部との高低差はほとんどない。丘城ではあるが、丘城の利点はあまり持っていない城と言っていいだろう。端的に言ってしまうと、防御施設を作らない限りは、攻めづらくはない。

 このタイプの利点は、何より築きやすいところに尽きる。突き出た台地を隔離するだけでいいからだ。急造の城であることがよく分かる。現地案内板に「陣城として築かれた」とあるのは、そういうことだろう。

 

 似たような城に長篠城や名胡桃城がある。あちらはすぐ麓を日本の川に囲まれており、戦術的に堅固さを増している。こちらは東方2kmほどにある大井川と、500mほど西にある菊川があり、戦略的に守りやすくなっているはずと踏んだのだろう。

 ただ、疑問なのはその攻め口となるのが西側であること。つまり、徳川方の支配する側になる。攻めてください、と言わんばかりではないか。城方の援軍が到着しても、高台に位置する寄せ手を攻撃することになり、あまり形勢が良くない。

 

 

周囲を取り囲む人工的な堀(左)と、大手曲輪にある茶畑

 

 長篠で圧勝した(織田方の)徳川軍が余勢を駆って攻め寄せると、1ヶ月ほど持ちこたえたものの落城した。駿東郡司を任され付近を担当していた今福浄閑斎も、甲州からの援軍がないこともあって為す術なし。反撃らしい反撃はできなかった。

 

 教科書にも書かれているように、牧の原一帯はお茶の一大産地となっている。どこを見ても台地ばかりで、さらに水はけが良いために、稲作はあまり向かないらしい。付近を歩くと、この諏訪原城跡も例に漏れず、大手曲輪が茶畑になっている。これも人間の歩んできた歴史というもの。

 当時もおそらくは大きな集落や農村を作ることはできなかったのだろう。東海道の途上にある台地に城を築くことで、東側に広がる平野部の支配を固めたかったのではないか。

 

 しかし、落城してしまえば、むしろその利点は相手方に移る。

 しかも、奪還しようとするなら、断崖が広がる東側から攻めなくてはならない。

 

 諏訪原城が徳川方に奪われたあと、孤立無援となった高天神城や小山城は真綿で首を絞められるかのように包囲され、岡部元信らは玉砕を遂げた。諏訪原城が陥落した時点で、趨勢は決まっていたのだろう。

 

 

大手曲輪の武家屋敷跡(左)と、現地案内板の推定縄張り図