続/ルネッサンスの真の意味~6回目です。
ルネッサンスの真の意味の過去記事1~30 は こちらから
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今日の話題は前回の (2)「 ロレンツォ・デ・メディチ暗殺」の続きです。


今回は本文の 暗殺までの細かい経緯とその後それに関わった人達の話、
著者のマルチェッロ・シモネッタが500年前の暗号文の解読に成功して、
今まで知られていなかった人物
(ロレンツォと交流があり、表向きは友人であるはずだったフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ
が暗殺事件に裏で加担していた事を5世紀も後にわかった経緯などが細かく書かれている
本文第一部 「1476年~1478年春」
本文第二部 「1476年春~1482年夏」
がありますが、私のブログ内では特には触れず、
(興味のある方は是非本を購入することをお勧めしますドキドキ
ロレンツォ・デ・メディチ暗殺―中世イタリア史を覆す「モンテフェルトロの陰謀」/早川書房

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第三部の 「システィーナ礼拝堂とボッティチェッリの春」の文章を紹介します。
この第三章の部分を読んで、作者の方との言葉の表現は違っても
私の「こうではないか?ひらめき電球」と思っていることとリンクするものを感じましたキラキラ


(1)「ロレンツォ・デ・メディチ暗殺」はこちらから
(2)「ロレンツォ・デ・メディチ暗殺」 はこちらから

*************(第三部「システィーナ礼拝堂とボッティチェッリの春」より)*************
(基本、本文どうりに書き起しですが、ごく一部だけブログ記事用に変えている部分あり。)

                    不吉な終焉
                   ボッティチェッリの暗号

15世紀後期のフィレンツェで繰り広げられた出来事の重要な証人は、アレッサンドロ・フィリペーピ ――― かの有名なサンドロ・ボッティチェッリである。1445年に生まれ、フィリッポ・リッピ修道士とアントニオ・ポッライウオーロの下で絵画を学び、1470年代に自分の工房を開く。
そしてすぐに、フィレンツェで最も賞賛される芸術家の一人となった。1478年7月25日、ボッティチェッリはパッツィ一族の死者およびフィレンツェ共和国に対する反逆者全員の絵をフィレンツェのヴェッキオ宮殿の壁に描き、報酬として政庁(シニョリーア)から五十フロリンを受け取った。彼らの恥辱を不朽のものとするため、ボッティチェッリは上部の窓からぶら下がったままの死体のスケッチを描き、等身大のフレスコ画に再現した。そうすれば、シニョリーア広場を通り過ぎる人は誰でも、この不吉な光景を見落とすはずがなかったからだ。
 ボッティチェッリは長年にわたりメディチ家に仕えてきた。パッツィ家の陰謀によるジュリアーノの死後、彼の肖像画も描いている。その絵の親しみのこもった性質―――個人のために描かれた作品だった―――には、芸術家とその題材との間の親密な絆が表れている。だが、死んだ首謀者たちを描いた公開用のフレスコ画は、どぎついまでに真に迫っていたため、教皇はそれを破棄するよう繰り返し命じていた。聖職者(この場合はピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティ)の絞首刑の肖像を描くことは、異端的な行為とみなされたのだ。実のところ、1481年春に教皇の罪の赦しが与えられる1年前に、大司教の姿は陰謀者たちのフレスコ画から削り取られた(それでもこのフレスコ画は1494年にメディチ家が街から追放されるまでそのまま残されていた)。
 シクストゥス四世が厳粛に許しを与えてからわずか数ヵ月後、ボッティチェッリは当時同じように有名だったフィレンツェの画家ドメーニコ・ギルランダイオとコージモ・ロッセッリとともにローマに呼び出され、システィーナ礼拝堂の内部の壁を装飾するようにとの依頼を受けた。 この礼拝堂は1477年に教皇がヴァチカンで建設を開始した。ボッティチェッリのような繊細な芸術家がこのような使命を与えられたときにどのような心理的障害に直面するかは、想像するしかない。彼のパトロンのジュリアーノが殺された血なまぐさい陰謀の後ろ盾となっていた教皇その人、二年もの長い間にわたって彼の故郷フィレンツェの街を破門し、市民に対して壊滅的な宗教的および軍事的戦争を仕掛けた張本人―――その教皇が今、彼をローマに呼び出し、自分の名に由来する名を持つ遺産となる礼拝堂に絵を描けというのだ。
 この名誉ある仕事のために画家が選ばれた経緯を記録した証拠文書は見つかっていない。ボッティチェッリを選ぶのにロレンツォが関わっていた可能性はある。 これは教皇に対する善意の意思表示にすぎなかったのかもしれない。 しかしながら、ボッティチェッリが自発的にローマに赴いた可能性もある。なぜなら、無理やり和平が結ばれてからのフィレンツェの経済状態は悲惨で、これほど著名的な芸術家でも、手がける価値のある製作依頼を見つけるのに苦労していたのだ。
 文書の裏付けがあるのは、ボッティチェッリが1481年十月から1482年四月までの少なくとも六ヵ月間はローマに滞在していたということだ。 この期間に彼は、礼拝堂の壁に十六枚あるフレスコ画のうち三枚も描いた。フレスコ画はテーマ別に二つの左右対照となった連作に分かれている。南の壁はモーセの生涯、北の壁はキリストの生涯だ。もともとあったラテン語の 銘(テイトゥーリ) は1990年代後期に修復された際に復元されており、モーセ伝では成文法(旧約聖書)が、キリスト伝では福音法(福音書)が繰り返し引用されている。
 聖書から選ばれた場面はモーセと燃え尽きない柴やシナイ山上のモーセなどのよく知られたエピソードとあまり知られていない話が組み合わせられていて、それに対する教皇の神学上の博識がおそらく思いつきを生んだのだ。最初の現存するフレスコ画は《モーセの息子の割礼》で、ペルジーノの作品とされている(また、絵の周囲の優雅な帯状装飾も彼の作とされ、教皇の生家デッラ・ローヴェレ家の紋章である金色のオークの装飾になっている)。二番目の《モーセの試練》はボッティチェッリの作とされ、五番目の《コラの懲罰》もそうである。これはモーセの歴史の中でも最もぞっとするほど権威主義的なエピソードの一つだ。歴史家の一部は《コラ》のフレスコ画は、異端者のカルニオラ大司教アンドレアス・ザモメティック指していると考えている。この大司教は公会議で教皇の大意を要請しているが―――この要請をロレンツォ密かに支援していた―――それは実のところ、この連作が完成した直後の1482年夏の出来事だったのだ。だが、そのときにはもう、ボッティチェッリはフィレンツェの家に帰っていた。
コラの懲罰
コラの懲罰 サンドロ・ボッティチェッリ
Punizione dei ribelli Sandro Botticelli 1480-1482 affresco Cappella Sistina  


それよりも説得力のある仮説は、この古代の出来事の描写はフィレンツェとの最近の激しい戦争をあからさまに指しているのでは、というものだった。メディチ家に最も深く関わっていた画家がこのような議論を呼ぶテーマを描く為に選ばれたのは、単なる偶然の一致だったのだろうか?
システィーナ礼拝堂のフレスコ画は何世紀にもわたって賞賛され研究の対象となってきたが、驚いた事に、その製作に先立つ同時代の痛ましい歴史を考慮して注目してみた者は、今までほとんどいなかったのだ。
《コラの懲罰》の背景はコンスタンティヌスの凱旋門で占められていて、そこには神聖な権威に反抗する者に向けられた警告が記されている。「名誉を我が物にするのは、アロンのように神に呼ばれし者のみなり」
 モーセとアロンは政治と宗教の領域においてユダヤ人を支配していた兄弟だが、髭を生やした彼らの横顔は、第四章で説明して86ページですでに載せた、メロッツォ・ダ・フォルリ作の有名な家族肖像画に描かれた髭のないシクストゥス四世の横顔(*私の注釈 肖像画は過去記事からご覧ください。  こちら ) と、まさに一致している。聖書における反逆者に対する神の怒りの復讐者として自分を描いてもらいたい、と教皇が望んでいたことは、ほぼ疑いようがない。聖なる炎に焼き尽くされたコラと彼の信奉者たちの運命は、ボッティチェッリにより度を超した激しさで描写されている。そして、至高の権威に対するこの反逆者たちとはいったい誰なのか? そのヒントは、背景の門の隣に描かれた停泊中の船のマストにはためくフィレンツェの長旗だ。極めて小さな細部で、下からはほとんど見えないが、画家からの視点で見れば間違いようがない。
 この絵のラテン語の題名《コントゥルバティオ》、つまり《聖書の革命または動乱》は、福音書の中のコントゥルバティオに面した壁画と一致している。それは《聖ペテロへの天国の鍵の授与》で、教会の成立そのものに関する内容なので、すべてのエピソードの中で最も論議を呼びそうなものだ。
perugino
聖ペテロへの天国の鍵の授与 ピエトロ・ペルジーノ(と助手達)
Consegna delle chiavi Pietro Perugino e aiuti 1481-1482


 この絵を描いたのはペルジーノで、唯一のフィレンツェ人以外の巨匠(マエストロ)であり、システィーナ礼拝堂の作業において議論の余地のないリーダーである。彼は《キリストの洗礼》と、主題的(テーマ)にキリスト伝の中で最も意味深長な前述のフレスコ画をかいたのだ。《コラの懲罰》の真向かいにある《授与》には、コンスタンティヌスの凱旋門をモデルとしたアーチ形の門が二つあり、礼拝堂の建造者であるシクストゥスを記念して建てられている。片方の門からもう片方の門へと続けて刻まれた銘文は大胆な内容で自らをほめたたえる教皇にふさわしいものだった。

ソロモンはシクストゥスよりも賢くはない

いかに賢いと主張しようとも、シクトゥスはボッティチェッリに絵の支払いを拒んだ。ボッティチェッリは1482年の四月より前にローマを発ったようで、フェッラーラの戦争の勃発によりこの不親切な街で足止めを食らわずに済んだ。しかし、のちに彼は、傲慢でけちな教皇に報酬の要求を申し立てるため、親戚を一人送り込まざるを得ない状況に陥った。

**************(書き起こし終わり・次は「ジュリアーノの復活」へ続く)****************

うーん、皆さん、どう思いましたか?

簡単に言うと、ボッティチェッリは殺されたジュリアーノ・デ・メディチやメディチ家、

そして攻撃を受けたフィレンツェ共和国自体に対する行為の、

その復讐すべき人物から依頼された

彼の功績を後世にも残す為の絵に、

見る距離と、見る人によってはわかるように

「称える絵に見せかけて、実はその反対を意味した絵を残すといういたずらで報復した」、という感じでしょうか?

この依頼された仕事でのリーダー的な存在のペルジーノも意味ありげな絵を残したとわたしは思っていますし、
くわしくは、私の過去記事をご覧ください。
ダウン   ダウン  ダウン
過去記事 ⑮ルネッサンスの真の意味~ルネッサンスの始まり



ボッティチェッリの《コラの懲罰》の真向かいにある、ペルジーノの《聖ペテロへの天国の鍵の授与》、

この配置も偶然ではなく、はっきりはわかりませんが何かの意味があるのでしょう。


真向かいに配置された、といえば、カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂も、

聖書にまつわるストーリー「楽園追放」 「原罪」 

「聖ペテロ(ピエトロ)についてのストーリー」の、

マザッチョとマゾリーノが対になって描いたフレスコ画があります。
(のちにフィリッピーノ・リッピが約50年後に完成)

これらのフレスコ画もよ~く見るとところどころに意味ありげなんですが、
(詳しくはこちらをご覧ください。 ①カルミネ教会~ブランカッチ礼拝堂
              

ルネサンス芸術の先駆者と呼ばれるマザッチョの描いたこのフレスコ画を、

後のルネッサンス時代の巨匠と呼ばれた人達、フィレンツェの全ての画家達がここに来て、

研究、学びにきたのだそうです。


今までには無かった素晴らしい躍動的な絵を学ぶ、という名目だけではなく、


恐らく、計算しつくされた配置や、見る人が見れば伝わる隠れたメッセージがあるという意味でも、


後にフィレンツェの巨匠と呼ばれる画家達が

マザッチョたちの作品を・技法を参考にした可能性も十分ありうるかな、と思いました。






宝石ブルー宝石緑宝石紫おまけ宝石紫宝石赤宝石白


システィーナ礼拝堂の中の様子がこちらのサイトから
巨匠たちが残したフレスコ画を沢山見ることが出来ます。

・ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂~モーセの生涯・システィナ礼拝堂のフレスコ画
・ミケランジェロとシスティーナ礼拝堂~キリストの生涯・システィナ礼拝堂のフレスコ画

「ロレンツォ・デ・メディチ暗殺」は(4)に続きます

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