体育の授業の時、息をあげて一生懸命にやるのはなんとなくかっこ悪く、"気だるそうに余力を残しつつ結果を出す"というのがなんとなくのお決まりになっていたあの頃。

 

無知で残酷で、ある意味生物的で、若草色といってもいい。

 

少女漫画に出てくる魅力的な男性キャラは、大抵のことをスマートになんでもこなしてしまう。

 

それを知ってか知らずか、僕らはそれぞれが、それぞれ思うスマートな自分を演出していた。

 

少なくとも当時の僕には何の意味も、一切の成果も無かったことは言うまでもないが。

 

あれから数十年の時を経た今の僕は、それがかっこ悪いと思っている。

 

むしろ一生懸命さや、不器用さ、それに向き合う考え方など、自分の中身を出した方が後々より良い人間関係が築けると考えるようになった。

―僕自身、きらびやかな人よりも、人間臭い人の方が好きというバイアスが掛かっているのもあるが。

 

それが大人になるということの内の一つでもあるし、見え透いた虚栄心はその狙いとは裏腹に自分の価値を下げてしまうケースの方が多い。

だからといって、自分のダメなところばかりさらけ出しても、同じことが起きてしまうので、僕は時々人間の中身と見え方について悩むことがある。

 

見えているものの真実と解釈が同一とは限らない。

 

卓球の大会に出てみると、若草色の景色やセリフが時々見え隠れして、懐かしい気持ちになることがある。

 

 

開会式が終わり、試合が始まった途端、急に気だるそうな、いかにもやる気のなさそうな冷めたプレーを目にするのだ。

 

朝の練習ではワンミス交代を申し出てまで台を確保し、意気揚々と三球目ドライブや引き合いをしていた彼らが。

 

おそらくは、チームのグループラインに「シングル出ます!」といった内容のコメントを残して、前日はどのユニフォームを持っていくか頭を悩ませ、日曜日の朝にも関わらず普段より早起きしてきたであろうというのに。

 

プレーの合間に、関係の無い隣の試合をチラ見したり、奇跡のファインプレーで得点しても“別にオレにとっては今の全然普通だし感”を全面に押し出している。

―これに関しては今回の議題に限ったことではないがー

 

もちろん、トーナメントを勝ち進む上で、体力の温存は必須事項である。

僕自身、試合の途中で体力が尽き、満足にプレー出来ずに敗北に喫したこともあるし、特に身体に不安を抱えていたり、サーティ以上の選手は体調管理や省エネ卓球という意識は当然あることと思う。

ある程度のリラックスも必要だ。

 

しかし、中には明らかに余力を残した態度のまま、敗北まで突き進む選手もいる。

 

 

ここで勘違いしてほしくないのは、これは特定の人物を挙げているわけではないということである。

 

僕の中で「誰」といった人物がいるわけでもない。

 

だが、時々いるのだ。

確実に。

 

いや、「いる」というより、「発生」という言葉の方が近いのかもしれない。

 

おそらくは、統計学的に数百人規模の大会が行われた場合、何回かに一回数人こうした事象が発生するのかもしれない。

働きアリの2割はサボり、その2割を実験対象から排除した場合、サボっていなかった別の2割のアリがサボり始める。

というように、その数人が居なかった場合、別の数人がその事象を起こす、といった具合に。

 

 

彼は今日、何のために休日を返上し、何を原動力に早起きをしてきたのか。

 

相手選手が格上で、成す術も無く戦意を喪失しているそれとは違う。

 

圧倒的な余裕を残しての敗北。からの敗者審判。

審判の際はさらにふてぶてしさまで演出しているケースもある。

 

“今日の俺は本気出してないだけ。本当は勝てた。”ということなのだろうか。

―“テナジーなら勝てた。”に近いが今回はこれについては無視する―

 

“お前、運が良いな。今日は年に一度の本気出さないデーなんだ。神に感謝しろよ。”

 

“いっけねー!ワールドツアーだと4セット先取だからこれから取り返そうと思ってたのにー!クッソー!オープン戦あるあるだわー!”

 

“新しい時代に賭けてきた。(どんっ!)”

 

“敗北こそ勝利である。(哲学)”

 

“勝利とは、敗北から最も遠い結果だよ。”

 

といった具合なのだろうか。

 

ここであるベテラン選手から聞いた話を紹介しよう。

 

「過去に実績のある選手ほど、プライドが高く、本気を出して負けた時のダメージが大きい。」

 

全てはメンタルだ。

こうしたメンタルをコントロールするというのは、競技者として永遠のテーマであろう。

 

今回の議題とは少しそれてしまうが、僕自身過去に一度酷い態度で試合をしてしまったことをここに懺悔したい。

―なぜそうなってしまったのかはここでは控える。―

 

セット間のインターバルでどうにか心を落ち着かせ、どうにか、どうにか後半持ち直すことはできたが。

試合後に相手選手には謝罪をしたが、今でも後悔しているし、今後の試合においてもあのようなことはあってはならないと深く反省している。

 

この件は、思い出したくない、記憶からも削除したいほどであるが、人生の教訓として生かさなければならない出来事でもある。

 

話を戻そう。

 

 

この「明らかな余力を残した態度のまま、敗北まで突き進む選手」について。

 

ただここで一番重要なのは、これまで述べた内容は全て僕一人の勝手な主観と解釈でしかなく、本人にそんなつもりは一切無い可能性もあるということだ。

 

さらに、同じ事象でも観察する人物が異なった場合、僕とは異なる解釈をするケースも考えられる。

 

見えているものの真実と解釈が同一とは限らない。

 

そんなの当たり前だろう、とあなたは胸を張って言えるだろうか。

 

ついつい見たまま、感じたまま決めつけてしまうことは無いだろうか。

 

僕は世の中の99.9%は勘違いと願望だと思っている。

「錯覚」といってもいい。

 

「一生ズッ友」だとか「私は彼を信じている」だとか「あいつはとんでもないペテン師だ」だとか。

 

そんな事は誰にも分からない。

あなたが勝手にそう解釈しているだけで。

 

自分以外の何かをどう捉えるかによって、自分を正当化したり、自己嫌悪したり、夢をみたり、そして絶望したりする。

 

正しいか間違っているかなんて、自分以外の何かについて、100%正しい解釈などといったものは果たして存在するのだろうか。

 

同じ青い空を見ても、僕の見ている空の色とあなたの見ている空の色が完全に同じだと、断言できるだろうか。

 

だから僕らは自分の考えや解釈を他人と共有し、その最小公倍数によって境界線を導きだし、それぞれが自立し、尊重しあい、自己のアイディンティとコミュニティを永続的に更新し続けていくのではないのではなかろうか。

 

親兄弟との他愛のない会話であったり、友人と夢を語る時間であったり、上司との飲み会であったり、恋人との朝のまどろみであったり、卓球の試合で敗北を喫したり、といった具合に。

 

それが友情になったり、愛情になったり、時に喧嘩に発展したり。

 

そして時々、明らかな余力を残したまま。

 

 

僕らが知りうる情報などたかが知れていて、それを無意識に、自分の知る数少ない限られた言葉で思考し、大きいとも小さいともいえないキャンパスに都合よく描き、それを世界だと錯覚している。

 

それが僕の世界で、あなたの世界でもある。

 

そして、この絵画を誰かと共有する時に1番重要なのは、"この作者は一体誰なのか"だ。

 

間違ってもここに、他人の名前を書くべきではない。

 

せっかく描いた絵画なのだから、見えるところに胸を張ってサインをしておこう。

 

誰のでもない自分の名前を。