体育の授業の時、
無知で残酷で、ある意味生物的で、若草色といってもいい。
少女漫画に出てくる魅力的な男性キャラは、
それを知ってか知らずか、僕らはそれぞれが、
少なくとも当時の僕には何の意味も、
あれから数十年の時を経た今の僕は、
むしろ一生懸命さや、不器用さ、それに向き合う考え方など、
―僕自身、きらびやかな人よりも、
それが大人になるということの内の一つでもあるし、
だからといって、自分のダメなところばかりさらけ出しても、
見えているものの真実と解釈が同一とは限らない。
卓球の大会に出てみると、
開会式が終わり、試合が始まった途端、急に気だるそうな、
朝の練習ではワンミス交代を申し出てまで台を確保し、
おそらくは、チームのグループラインに「シングル出ます!」
プレーの合間に、関係の無い隣の試合をチラ見したり、
―これに関しては今回の議題に限ったことではないがー
もちろん、トーナメントを勝ち進む上で、
僕自身、試合の途中で体力が尽き、
ある程度のリラックスも必要だ。
しかし、中には明らかに余力を残した態度のまま、
ここで勘違いしてほしくないのは、
僕の中で「誰」といった人物がいるわけでもない。
だが、時々いるのだ。
確実に。
いや、「いる」というより、「発生」
おそらくは、統計学的に数百人規模の大会が行われた場合、
働きアリの2割はサボり、その2割を実験対象から排除した場合、
というように、その数人が居なかった場合、
彼は今日、何のために休日を返上し、
相手選手が格上で、
圧倒的な余裕を残しての敗北。からの敗者審判。
審判の際はさらにふてぶてしさまで演出しているケースもある。
“今日の俺は本気出してないだけ。本当は勝てた。”
―“テナジーなら勝てた。”
“お前、運が良いな。今日は年に一度の本気出さないデーなんだ。
“いっけねー!
“新しい時代に賭けてきた。(どんっ!)”
“敗北こそ勝利である。(哲学)”
“勝利とは、敗北から最も遠い結果だよ。”
といった具合なのだろうか。
ここであるベテラン選手から聞いた話を紹介しよう。
「過去に実績のある選手ほど、プライドが高く、
全てはメンタルだ。
こうしたメンタルをコントロールするというのは、
今回の議題とは少しそれてしまうが、
―なぜそうなってしまったのかはここでは控える。―
セット間のインターバルでどうにか心を落ち着かせ、どうにか、
試合後に相手選手には謝罪をしたが、今でも後悔しているし、
この件は、思い出したくない、
話を戻そう。
この「明らかな余力を残した態度のまま、敗北まで突き進む選手」
ただここで一番重要なのは、
さらに、同じ事象でも観察する人物が異なった場合、
見えているものの真実と解釈が同一とは限らない。
そんなの当たり前だろう、とあなたは胸を張って言えるだろうか。
ついつい見たまま、
僕は世の中の99.9%は勘違いと願望だと思っている。
「錯覚」といってもいい。
「一生ズッ友」だとか「私は彼を信じている」だとか「
そんな事は誰にも分からない。
あなたが勝手にそう解釈しているだけで。
自分以外の何かをどう捉えるかによって、自分を正当化したり、
正しいか間違っているかなんて、自分以外の何かについて、100
同じ青い空を見ても、
だから僕らは自分の考えや解釈を他人と共有し、
親兄弟との他愛のない会話であったり、
それが友情になったり、愛情になったり、時に喧嘩に発展したり。
そして時々、明らかな余力を残したまま。
僕らが知りうる情報などたかが知れていて、それを無意識に、
それが僕の世界で、あなたの世界でもある。
そして、この絵画を誰かと共有する時に1番重要なのは、"
間違ってもここに、他人の名前を書くべきではない。
せっかく描いた絵画なのだから、
誰のでもない自分の名前を。