完璧なチャーハンなどといったものは存在しない。
完璧な餃子が存在しないように。
生前、父が漏らした言葉を思い出した。
仕事から帰り、リビングのテーブルに肩肘をついていた父は手に持った缶ビールを見ていたが、その視線はもっと遠くの何かを見つめているようだった。
毎日チャーハンを食べるという生き方、“毎日チャーハン”を始めて1週間が過ぎた。
なぜこれを始めたのか特に理由などは無かったが、いざ始めるとチャーハンの奥深さに驚嘆した。
店によってこんなにも味が違うのかと驚かされるのだ。
米と卵、そしてわずかな具材のみで形作られるというのに、まるで別の料理かと疑うほどにその個性とおいしさを全面に押し出すその鋭い槍は、僕のチャーハンに対する稚拙な考えを串刺しにした。
もっとも、これはほんの序の口に過ぎない。
僕がまだ学生で実家にいた頃、父はチャーハン会という組織に居た。
チャーハンが美味しい店の情報を収集共有し、そしてそれをメンバーで確かめるというのだ。
「今夜はチャーハン会ゆえ夕飯はいらん。帰りも遅くなる。」
朝、会社に出かける前に母にそう告げる父の姿があった。
母はその組織についてどれだけ知っているか僕には見当もつかなかったが、ご武運を祈りますとだけ言い会社に向かう父を見送るのだった。
僕には理解できなかった。
チャーハンは土曜のお昼に母も好んで作っていた。
僕はそのチャーハンが好きだったし、母のチャーハンはパラパラというよりはしっとり系で、外食産業にありがちなラード感とガッツリ感はまるでなく、優しい味付けで無限に食べれるそれは家族で過ごす休日の安心感そのものだった。
それの一体何が不満なのか。
口数も少なく絵にかいたような厳しい父だったが。戸外のチャーハンに身を滅ぼしていたようにも見えていた。
母は母で一度ハマったものに延々と没頭し続けるという一面があった。
ナタデココ、茎わかめ、ネギトロ、ごぼうサラダ、カスピ海ヨーグルト、ココナッツオイル、ベーグルと上げたらきりが無い。
冷蔵庫を開けたらそれがところ狭しと居座っているのだ。
そして、いつしか別のものに切り替わり、またハマってはまた次へと繰り返すのだった。
血は争えない。
この男と女から生まれた3人の兄も、僕が知るだけでもこれに似た症状は多くあった。
最後に生を受けた僕もこうして遺伝子に抗えない日々を送っている。
「まるで合わせ技だな。」
姿なき者が言う。
「熱しやすく冷めやすい面も、底の無い沼に飛び込む一面も今のお前を形づくるには十分過ぎる。」
姿なき者は僕をよく知っているし、僕は聞き流す以外の選択肢を持ち合わせていない。
「そしてそれを言い訳にする一面も忘れるな。」
その通りだと思っている。
完璧な卓球用具も、完璧な生活スタイルも、完璧なチャーハンもおそらくありはしないのだろう。
誰もが認めていた完璧な父と、そして完璧という概念が存在しないチャーハン。
相反するふたつの物体はどう決着をつけたのだろうか。
あの日、父の目には何が映っていたのか。
そしてその時見せた僅かな笑みはなんだったのだろうか。
“笑うことと泣くことは似ている”
これは僕が三十数年生きてみて学んだことの一つだ。
今思えばこの毎日チャーハンという行為に至っては父に対しての一種の反抗なのかもしれない。
地方や海外に出張していた父は最低でも3年は家を空けていた。
その期間には僕の反抗期も含まれていて、僕にはどうすることも出来なかった。
パラパラに炒めたにも関わらず安易にとろみを加えられた、あんかけチャーハンのように。
あれから多くのことを経験した僕は、東京でひとりぱらぱらとした生活を送っている。
「ぱらぱら、ぱらぱら。」
姿なきものは、時折鳴き声のようにつぶやくことがある。
会社で仕事をしている時も、電車で移動しているときも、家で本を読んでいる時も。
ぱらぱら。
僕はそれについて考える。
沢山のお米が集まって、そしてそれぞれが独立している状態。
たった一粒ではぱらぱらすることも、ましてやしっとりすることも出来ない。
独立しなくてはいけないのに、ひとりではチャーハンとして成り立たないというパラドックス。
それについて、はっきり考えて見極めようとすればするほど、ビー玉でいっぱいになったバケツをひっくり返してしまったような、諦めに近い感情を抱く。
そしてそれをひとごとのように眺める自分がいる。
あるいは、東京の満員電車もぱらぱらチャーハンなのだろうか。
鉄の上で絶え間なく移動するぼくらは、チャーハンの一粒一粒なのかもしれない
他人という絶対的な被膜に覆われた僕らはそこでは常に独立を保持している。
だとすると、チャーハンはある種のメタファーなのだろうか。
この世界がまるでチャーハンであるかのような。
戦争、飢え、天災、汚職、人種差別、政治とカネ。
多くの虚構に支配され、資本主義社会というゲージの中で生まれてしまった僕たちは、そのゲージの中で、さらなるゲージを作ってはかりそめの自由を追い求め、そして死んでいく。
父がいたチャーハン会は、こうした真理に近づくため、あるいはこうした社会に反抗するための組織だったのだろうか。
だとすると、完璧なチャーハンが存在しないということも納得がいく。
たとえいくら美味しかったとしても、この世界が完璧などとは程遠い存在であるからだ。
この平行線は未来永劫続くだろう。
誰かの勝利が誰かの敗北であるように、どこかの黄昏がどこかの夜明けであるように。
過去の成り行きに過ぎない現在に特別な意味は無い。
チャーハンから学ぶことは大きい。
僕は今日もチャーハンを食べた。
チャーハンを食べるという行為が、ごく限られた人間にだけ与えられた特権であると、その一粒一粒を噛みしめながら。