↑の続き
これを読んでいるあなたも経験がないだろうか。
目が覚めた瞬間、寝坊を確信することが。
この時の僕はまさにそれだった。
ホテルのロビーで待ち合わせる時間を過ぎていたわけではなかったが、準備する時間を考えると残り時間はわずかだった。
今でも覚えている。
昨夜、目覚ましのセットをせずに寝てしまったのだ。
それがどんな結果をもたらすのか、これまでの人生で嫌というほど経験したわけだが、人は忘れる生き物である。
忘れて得るものもあるし、忘れることで眠れる夜もある。
しかし、この失念という事象をコントロールする術を持ち合わせていないのもまた事実だ。
過ちを正すどころか、過ちそのものを忘れてしまう愚かな生き物でもある。
歳を重ねていくうちに、もう二度と思い出せない忘却へと散った感情もあるだろう。
あの日の夜、僕はシャワーを浴びて翌朝の準備をしてオフトゥンに入るはずが、部屋に帰った瞬間にオフトゥンに吸い込まれてしまったのだ。
早朝からの移動、きんぷくでの練習、そして深夜のカラオケにまで付き合わされていた僕の疲労は極限に達していたのだと思う。
目の前にたたずむオフトゥンに抗えるほど、僕は強い人間ではなかった。
愛と憎しみは似ている。
僕にとってのオフトゥンがそうであるように。
ホテルのロビーに5分ほど遅れた訳だが、これを突かないミヤケン‘sパイナポーではなかった。
彼は僕が到着するなりソファから立ち上がり、僕の元へ足を進めた。
「オマエ オソイ ネボウ ヨクナイ ナンデ オクレタ 」
明らかな敵意がそこにはあった。
僕は数秒彼と目を合わせた後、フロントまで向い部屋のキーを返した。
振り返ると彼は何も言わず、ただこちらを見ていた。
「本当にすまないと思っています。ただ、世界は今日も戦争をして、飢餓に苦しんで、それでも平和ボケした映像がTVに流れているこの世の中で、僕が寝坊したところで、一体誰がそんな事を気にするんですか?」
「オデ アト ミンナ」
彼の言う通りだった。
彼は僕のペアマッチのパートナーであるし、彼にとっての僕もまた同様である。
それにそこには今日のメンバーが揃っていたし、おそらくは皆待ち合わせの5分前にはついていたのだと思う。
彼らはそういう意味では大人だったし、目に見えない秩序というものがそこにはあった。
ミヤケン氏はそのままホテルを後にし、他のメンバーも続いていった。
僕と目を合わせる者はいなかった。
ロビーはとても静かだった。
僕はそこに立ったまま、丁寧に磨かれた足元の床を眺めていた。
うっすらと反射する床に、かつての僕がいた。
ーあの日。
確かに僕はラジコンが欲しかった。
それも自動車ではなくホバークラフトの。
時折やってくるおもちゃ屋のチラシに、王者のように君臨するタイヨー社のタイフーンホバークラフト。
庭には池があるし、水遊びが出来る公園も近くにある。
なんならお風呂で遊ぶのだって構わない。
それだけの覚悟があった僕は、母親から帰宅を促されても断固としてこの場を離れるわけにはいかなかった。
当時の僕は、プレゼン能力などといったものは一切無く、ただごねるか下を向いてじっと立ちすくむほかなかった。
そして、この訴えが届くことはなかった。
子どもとは無力だ。
この時僕は小学生で、おそらく多くの小学生がそうであるように、絶望していた。
ニチイ狭山店の2階の玩具店で。
ならば、この手で作るしかない。
とあるメーカーでいくつもの特許を取得していた父は、制作に必要な部品代に関しては惜しむことは無かった。
いくつもの試行錯誤の末、確かにそれは完成した。
しかし、こうして夢と覚悟が形となったホバークラフトはもうどこにも無い。
この世で一番残酷なものが時間であるのには理由がある。
あれから20数年経ったという事実を前にして、僕はなにも変わってなどいない。
しかし、あの時作ったホバークラフトも庭の池ももう存在しない。
あの日のニチイはサティになり、そしてサティからイオンに姿を変えた今、想い出に甘えることすら許されない。
いつか誰の記憶からも無くなってしまう時がくる。
銀色のケースの中で静かに朽ちていくフィルムテープのように。ー
ふと気が付くと、僕はルナさんの車に揺られ試合会場へと向かっていた。
車内には昨日と同じようにでぇやまさんもいた。
ふたりは、性格が曲がっている男性はち○ちんも曲がっているという説を提唱し、それについて熱く議論していたが、僕は他人のちん○んなどといったものはどうでもよかったし、そういう意味ではふたりのちんちんも曲がっているとも思っていた。
当然だがミヤケン氏のも。
会場についてから、僕はその曲がっているとされるミヤケン氏と練習を始めた。
フォアを09Cから05に変えて間もないこともあり、フォアドライブの感覚があまり良くなかった。
途中で僕のオーバーミスでボールを拾いに行ったミヤケン氏が、若い女性と並んでこちらに手を振ってきた。
“オデノッ オンナッ!!”
とでも言っていたのだろうか。
彼の瞳はとてもまっすぐで、そして純粋だった。
マスク姿の見知らぬ女性に僕は台についたまま軽く会釈をしただけで済ませたが、その人が人肉つみれ氏であると気づいたのはそれからすぐのことだった。
練習の時間が終わり、荷物を置いていた壁際に戻ると人肉氏がいた。
「はい、これ。」
唐突に、柄の入った紙袋を渡された。
何かと思い紙袋をのぞき込むと、見覚えのあるラケットと四角い箱とお菓子のようなものが入っていた。
人肉氏は言った。
「この前借りたラケットよ。」
「あっ・・・あ、ドフッ・・・。アッ、デュフッ?」
(訳:ああ、あの時の。でもこれは一体。あとお菓子も?)
受け取って僕は答えた。
「あなた用具とか好きなくせに計りは持ってないって言ってたから。安物だけど買っといたから使えば?あとお菓子はおまけね。男の人ってプロテインが好きなんでしょ?ミックスのパートナーが確かそんなこと言ってたからプロテインバーにしてみたの。適当に選んだやつだから味はどうか知らないけど。」
ラケットは以前練習した時に貸していたキョウヒョウ龍5で、四角い箱は新品のキッチンスケールだった。
プロテインバーは食べたことないやつだったけど、金色だったのでたぶん美味しいのだと思った。
「言っとくけどラケット貸してもらったただのお礼だから勘違いしないでよね。それじゃ。」
彼女はどこか得意げで、そしてつみれていた。
「あ、あっ・・・ドゥフッ、ゴフッ・・・。ばっ、・・・えっ・デュ・・デュフッ・・・アッ、テナジーッ!!」
(訳:ありがとうございます。まさかこんなリターンがあるとは思いませんでした。有難く頂戴します。)
初めてこんなものを貰い浮かれていた僕は、なるべく悟られないようにしていたと思う。
はたから見たら冷たい態度を取っていたのかもしれない。
ちなみに人肉氏はミックスの部にエントリーしていた。
というより、今大会は女子のエントリーが少なく女子の部が廃止となり、女子はミックス以外に出る種目が無かった。
強い女子の周りには必ず強い男子がいる。
人肉氏もその例に漏れず、パートナーは僕も見たことがある強者だった。
初めての計りを手にし、さっそくその場で計ってみた。
「体感的には192、3gなんだけどな。」
そこには192.9gと表示されていた。
こういう勘は時々当たる。
だが、本当に当たって欲しい勘というものは大いに外れるというのが人生というものだ。
この計りとプロテインバーを手にし、僕はミヤケン氏と共にリーグ戦のコートへと足を進めた。
年代別ペアマッチ男子60歳以上の部へと。
ー続くー

