ほたるいかの書きつけ -35ページ目

make一発!

 いろいろ書きたいことはたまっているのですが、なにかと時間がなくて。
 昨今のニセ科学批判批判に絡んだ話もちょっと自分で書いてみて整理したいなという気はあるし、最近入手した各種文献も紹介したいのがあるし(『Hado』改め『Love & Thanks』うぷぷ11月号とか、EM比嘉氏の『地球を救う大変革』のマンガ版とか)、でもまあそれはおいおい。

 (以下、若干マニアックな話になります)

 職場では事情によりデスクトップ環境で linux と windows と両方走らせているのですが(dual boot じゃなくて、二台)、linux マシンの方が、一昨日ぐらいから異音を連続的に発するようになってしまったのです。10年分くらいのメールや各種原稿やデータが保存されているので、これが飛ぶとかなりダメージはでかい。元から hda error とかログが出てたので、そのうちヤバくなるだろうなあと思いつつ放置していたのですが(するなよ^^;;)、あの異音はさすがにヤバいだろう、と慌てて対処を開始。
 昨年購入して、諸事情により Vine をインストールだけして放置されていたものを持ってきた。これ、core 2 duo のマシンなんですが、いまの linux マシンは Pen4 なので、かなり性能アップ。
 Vine を入れてたのは使用者を考慮してのことだったのですが、自分が使うなら、x86_64 で動く方がいいやと思い、別のディストリビューションを入れることに。
 ところが、最近あまり linux の状況を追っかけてなかったもんで、デスクトップとしては何がいいのかよくわからんのです。で、別のところでそこそこ使っていたSUSE11.0を入れてみた。

 昨日の夕方からDVD焼いてインストールしても途中でコケて困ったとか、日本語でのインストールをあきらめたらうまくいったとか、まあアリガチなトラブルは色々ありましたが、めでたく完了。で移行作業を開始。夜のうちにデータ移行をすませ、今日はいよいよ環境構築。
 emacs はちゃんと skk が使えるようになってて「やった!」と思ったのですが(winでもskk使えないかな~)、mew のパッケージがない。やっぱSUSEは日本語弱いなあ、と思ったのですが、久々にいっちょやるか、ということで、mew のサイトからソースを落としてきて、展開してインストールしたわけです。実に久々、make一発!
 linux もどんどん自動化されて、rpm だの apt-get だの yum だの、ややこしいことを考えなくても使えるようになってますからね。そりゃ堕落もしますよ。(^^;;
 おまけに windows 上での作業量も格段に増えてしまったし。ああ、こんなことではいかんいかん。

 最大の問題は latex だったのですが、これもなんかやたら新しいバージョンのパッケージしかないようで、ネット上の情報を頼りに tetex からコンパイルしてインストール。途中、gcc がないだの bison がないだの色々言われて面倒ではありましたが、無事完了。なんとか使えています。

 tgif もあるし、ちょっとシアワセ。

 これを機会に twm に戻ろうかと一瞬思ったのですが、さすがにもうそこまでの根性はないな。昔、相当カスタマイズした .twmrc を持っていたのだけど(マウスをほぼまったく使わなくても作業ができるようにしていた)、異動の際にうっかりドットファイルをコピーし忘れて、異動先で気づいて慌ててPCの次の使用者に「コピーさせて!」とメールを書いたら、「もうフォーマットしちゃったよ」って早すぎるよ!
 それ以来、twm からは遠ざかっていますなあ。

 昔、どっかのサイトで「emacs+latex+tgifの人を old type と呼ぶ」なんて記述があって、まんまやん、と笑ったものですが、いまじゃ MS-Word でなんか書くことが増えてしまって、またそれに慣れてる自分がとても怖い。困ったもんです。

こ、これが、脱力だッ…!

 えーと、なんと言っていいのやら。
 想像を越えておりました。ええ、ABO FANさんのことです。

 前回のエントリ でも触れたように、TAKESANさんのところの掲示板 で、ABO FANさんは以下のようにおっしゃっておりました。
> ・能見さんの説については、現状ではそれを正しいとする科学的な根拠はない。
統計的なことだけなら、正しいと断言していいと思います。
で、このトンデモない言明に対し、なんとか通常のロジックで理解できないかと以下のように仮説を提示したわけですが。
これが真であるためには、次のように解釈するしかなさそうです。「バイアスのかかったサンプルを集めれば、そのサンプルに対しては血液型と性格の間には相関があるというのは正しい」、と。これだと、科学的ではないが、統計的には正しいということになります。無論、バイアスのかかったサンプルを使うという前提の下で、統計的に正しい、という意味ですが。
 ところがところが。
 今回の掲示板でのABO FANさんのレスで、見るようにと言われたABO FANさんのウェブページ 、開いてビックリ。こんなことが書いてあります。
《私の主張》

 私の主張は実に単純です!

  • 心理学には、「血液型と性格に関係がある」というデータやロジックがある
  • しかし、否定論者は、これらのデータやロジックをすべて否定している
  • 私は、この否定論に反論し否定している
  • 従って、血液型と性格は関係がある

 〔ご注意〕心理学的に「血液型と性格に関係がある」といっても、まだ科学的な根拠は発見されてはいません! 単に統計的に相関や有意差があるという意味です。

もう一度書きます。

 〔ご注意〕心理学的に「血液型と性格に関係がある」といっても、まだ科学的な根拠は発見されてはいません! 単に統計的に相関や有意差があるという意味です。

…えーと。(^^;;;;


こんなこと書いてありましたっけ?リニューアル、と言ってるから、私が見た時にはなかったかな?見落としてただけ?こんな衝撃的な事をもし見落としてたら、私の目は節穴だわ。上の4点は記憶にあるんですけどね。


 前半の4点に関しては、もうあちこちでふれられていた(と思う)ので割愛しますが、結局、今までも指摘されていた、「帰無仮説の意味をわかっていない」ということに帰着しちゃいますね。程度問題がわかっていない、ということもあるのですが、帰無仮説がわかっていないということは程度問題もわかっていないということになるので。

 もう一つは有意な差があるというだけでは意味のある言明にはならん、ということですね。当然、安定した差が常になければ意味のある「差」とは言えないわけだし(たとえば松井豊[1991]では有意差のある項目があったわけですが、年によって結果が違った、つまり安定していなかったので意味があるとは言えないということになった)、なにより5%有意水準だったら(大雑把に言えば)20回に1回は偶然に有意差が出るということなわけで、有意差が出たと言うだけでは意味のある言明にはならない。

 たぶん、有意差が出た項目があるにもかかわらず「関係があるとは言えない」と心理学者が言うので「心理学者は否定している」とABO FANさんは言うのでしょうけど、当然ながら心理学者は有意差が出たデータや有意差を導いたロジックは否定しないでしょう(よっぽど杜撰だったら別ですけど)。そうではなくて、その上でその有意差にどんな意味があるのかを考え(考察・議論)、結局、意味のある差とは言えない、あるいはもしかしたら意味があるかもしれないが、現状ではまだあると言いきれるほどではない、今後の調査が必要、ということになるわけですね。

 それをもってABO FANさんは「否定」と取るのですから、これはもう「関係があるとは言えない」=「関係がまったくない」とABO FANさんは(真意はどうあれ)主張している。つまり統計学の計算はできるけど、その意味は根本から理解していない、ということになるわけです。


 …あ~、この最後のところ、かなり最近もTAKESANさんが書いてたよなあ。うーん、もうちょっとABO FAN氏のロジックをクリアにできるかなと思ったんだけど、ダメだわ。前に進めなかった。個別のところでも論理が無茶苦茶というのはわかったけど。


 念のために書いておくと、私はABO FANさんを説得しようなんていう大それたことは微塵も考えていなくて、氏の論理の全体像をせめてもう少し理解したかったのですよね。


 うーむ、割愛するとか言っときながら、長々と書いてしまった。(^^;;


 で、問題は次である。

 また引用します。←しつこい

 〔ご注意〕心理学的に「血液型と性格に関係がある」といっても、まだ科学的な根拠は発見されてはいません! 単に統計的に相関や有意差があるという意味です。

…どういう意味なんだろう。本気で理解できん。(^^;;

 結局、有意差の出たデータがある(「統計的に相関や有意差がある」)、だけどそれは意味のあるデータにはなっていない(「科学的な根拠は発見されてはいません」)なのかな。それとも、「科学的な根拠ってのは生理学的なメカニズムの話なのか。違うよね、いくらなんでも。


 うーん、これが「統計的に有意差教」の御本尊なのか…。


 繰り返しますが、通常は(というか学問的にちゃんとした研究ならば)、有意差があるだけではダメで、意味のある有意差かどうかを吟味しないといけない。それをクリアしてはじめて関係があると認められる。それが科学的ということだ。


 ちったあABO FANさんの理解を深められると思ったのだが、大間違いであった。大いなる脱力。

 このページ、他にもツッコミどころ満載なのだけれど、やめておこう。(^^;;



 ちなみにもう一つわからないのは、掲示板の方でも議論しているのですが、血液型性格判断を肯定するにはどう考えても不利な材料を自分から持ち出す、ということ。通常、心理学における調査では、自己申告された性格と血液型を比べるわけですが、自己申告は正しいと思って解析するわけです。ところがABO FANさんは、私がそこについては何も言っていないにも関わらず、自分から自己申告が正しいとは限らないという話をしだす。しかも行動を直接観察すればいいのではないかと思っている、などと提案までするわけです。

 で、自己申告が正しくないとするならば調査で出てきた血液型と性格の相関に意味がなくなっちゃいますよね?と質問すると、自己申告が無意味だとするのは性格心理学をわかってないだの無意味だとする根拠を示せだの、なんなんだその理不尽な言い草は?と来る。

 想像するに、二点。一つは「このままでは肯定するロジックが崩壊する」と気づいて慌ててキレたように見せかけた。でも多分違うだろうな。もう一つの可能性は、相手が否定論者だと思ったら、とにかく相手の言うことの断片を否定しようとする行動に出ること。こっちの方がありそうな気がする。

 もう一つの例は、性格というものをどう捉えるか、で、性格自体が安定したものではないかもしれない、という話を持ち出す(これはあるのかもしれないと私は思っていますが、何かを語れるほどの材料は持っていない)。性格が定義できないのであれば、そもそも血液型性格判断なんて無意味じゃん、と皆さん思うわけですが、ABO FANさんはそうは考えないらしい。これも、否定論者の言う事を否定したいという欲求の行動だと思えば、解釈は可能。


 というわけで、否定していると見せかけつつ、肯定するような文章を書いていけば、ABO FANさんは全力でそれを否定しにかかるのではないか、と予想します。誰かやってみません?




昔のアニメは凄かった(今思うと)

 ANIMAXで『銀河鉄道999』をやっていたわけですよ。
 うおおーと思いながら見ていたのですが(アニメはあまり再放送をやってなかった気がする。なので、全部ちゃんと見た記憶がない。原作は何度も読んだけど)、第一話、すごいね。

 鉄郎がメーテルと出会ってホテルに滞在すると、警察がやってくる。機械伯爵を鉄郎が殺したから。それをかわし、車(と言っていいのかわからんけど)に乗って駅へ向かう。その途中、メガロポリスの暗部、999のパスを買うためにやってきた人々がいるスラムを見ることになる。
 このスラムの描き方が生々しい。まさに貧困の果て、という感じ。第一話冒頭で、機械化人たちの幸せそうな様子が描かれるだけに、その対比は一層鮮やかである。

 で、なにを凄いと感じたかと言うと、当時のアニメって、こういう貧困や格差をストレートに描いていたということに改めて気づいたわけです。999だけじゃない。もうちょっとさかのぼると、『巨人の星』や『明日のジョー』はもちろん、『ど根性ガエル』や『魔法のマコちゃん』なんかもちゃんと貧困や格差が描かれている。サリーちゃんだってそういう雰囲気あるよね。もっとも、『エースをねらえ!』なんかはお嬢様たちのドラマではあるけれど(あ、どれも好きですよ)。

 それがいつの頃からか、そういう現実に存在する社会の「暗部」みたいなものを隠蔽するようになってきたような気がするのだ。「みんななかよく」みたいな。今でも思い出すのが、『カリメロ』だ。子どものころ、再放送で初代のカリメロを見ていた記憶があるのだけど(たぶん再放送)、全体的に暗い印象で、でも楽しかったのを憶えている。いじめっ子を中心にした、子ども社会における厳然たるヒエラルキー、プリシラの理不尽な言動、でもその中で必死に前向きに生きるカリメロ。それがバブルのころにリメイクされたものを見て愕然とした。ただの仲良しグループじゃん!深みも何もまったく消え去っている。当時私は大きくなりかけの子どもだったけれども、衝撃であった。

 なんなんだろうな。作り手が、リアルな社会というものをイメージできなくなっちゃったんだろうか。自分のごく近い周囲のことしか見えていないんだろうか。自分のいるビルを作ったのはどういう人たちか、とか、そういう想像力はなくなってしまったんだろうか(巨人の星にはそういう場面がありましたよね。星一徹が日雇いで働いているときに、ビルができたら俺たちはもうここには来れねえんだ、みたいなセリフがあった気がします←うろおぼえ)。

 そういう意味では、私が子どもの頃の作品というのは、作り手側にも深い問題意識があって、娯楽作品の中にもなんとか自分たちの思いを伝えようと苦心した、その一つの到達点であったのかもしれない、などと思う。なにかこう熱い魂を感じるわけだ。

 もちろん最近のテレビアニメをよく知らないので、実はそういう作品もあるのかもしれないのですが(だったらスイマセン!)、どうなんでしょうね。社会のリアリティが失われていることの表れの一つなのかもしれない、なんて思ったりします。

血液型性格判断:ABO FANさんの主張

 このところ、TAKESANさんのところの掲示板 で、かのABO FANさんと対話しておりました(場を提供いただいたTAKESANさん、対話していただいたABO FANさん、ありがとうございました)。

 可能な限り数字を出さずに話をするという方針で臨みました。統計の議論については、もうすでに色々な方が試みられていますし、そこに今さら私がなにか付け加えられるものがあるとは思えないので。今回は解釈のほうをターゲットにしてみました。ある程度、ABO FANさんが何をどう考えているのか、わかってきたような気がします。

 で、どうやら、ABO FANさんとしても、血液型性格判断の能見説をサポートする科学的な根拠はないということはご理解されているようです。
とすると、科学的な調査で血液型と性格の関係を調べたものは自己評定に基づくものだと思いますが、科学的に出された血液型と性格になんらかの相関がある、というデータは、血液型自体が性格に及ぼす影響に原因があるのではなく、本人の思い込みによる、ということですね。 (#102, FSM)
> > 科学的な調査で血液型と性格の関係を調べたものは自己評定に基づく
>
> (自然)科学的な調査なんてありませんよ。

あ、ここでは自然科学という意味ではなくて、人文科学も含めた広い概念で「科学」と言っています。科学的に確立した方法で、という意味です。具体的に念頭に置いているのは、ABO FANさんも取り上げていた心理学の話です。 (#110, FSM)
> > (自然)科学的な調査なんてありませんよ。
> あ、ここでは自然科学という意味ではなくて、人文科学も含めた広い概念で「科学」と言っています。
わかりました。

>私は、自己評定がその人の性格を正しく反映しているかどうかは別として、少なくとも自己評定の結果として出てくる「性格」なるものと血液型との間の相関は、本人が性格というものを単純化しておぼえた結果(73番のコメントの話です)生じる人為的なものである、と理解したのですが。

そのそおりです。 (#114, ABO FANさん)

 いや、#124のコメントでは、こうおっしゃっています。
> ・能見さんの説については、現状ではそれを正しいとする科学的な根拠はない。
統計的なことだけなら、正しいと断言していいと思います。
これが真であるためには、次のように解釈するしかなさそうです。「バイアスのかかったサンプルを集めれば、そのサンプルに対しては血液型と性格の間には相関があるというのは正しい」、と。これだと、科学的ではないが、統計的には正しいということになります。無論、バイアスのかかったサンプルを使うという前提の下で、統計的に正しい、という意味ですが。

 ま、それはさておき。
 ABO FANさんも、統計の意味するところはわかっているようで、たとえば
自己成就予言かどうかは、推測であって証明されたわけではありません。 (#128)
などとおっしゃっています。これはその通りで、データをうまく組み合わせると、そのような見方ができる、という話であって、まだまだ立証されたという段階ではないですよね。面白くそして恐ろしい話なので、要注目ではあるわけですが。

 今回はABO FANさんが何をどう考えているのかを知りたかったので(だってABO FANさんのウェブページからは何を主張したいのかがよくわからないんだもん)、内容についての議論は後回しにして、主張について聞くことを最優先にしました。そのため何度も繰り返し聞くような形になってしまったのはABO FANさんのお手を煩わせたかと思います。対応いただいたことには素直に感謝しています。私としては、結構有意義な議論になったなあと思っています。
 もっとも、自己評定についての評価などは混乱が見られ、若干場当たり的ではありましたけれども…。


 あ、最後に、ABO FANさんに代わって、以下の部分を世に知らしめたいと思います。これぐらいの常識はあるよ、と。(^^)
> なんせ、前世とか言ってますからねえ。
> …前世についてのところは、いくらなんでも間違ってますよねえ?
科学的に証明されていないだけで、絶対に間違っているとは言えませんよ
もっとも、私も前世なんか信じてませんが。(笑) (#117, ABO FANさん)
> おそらく、『an・an』に掲載された記事の大半は、ABO FANさんから見て間違った記事だと思うのです。
断片的には正しいと思います。例えば、体験談やアンケートは、なかなか参考になります。
ただ、全体像としては、正直どうかと思いますが。(^^;; (#126, ABO FANさん)


江本勝と大麻(追記あり11/28)

 ちょっと出張で留守にしている間に、なにやら面白そうな騒動(?)が…。完全に乗り遅れてしまった。残念。

 それはさておき。
 ここのところ、大麻で摘発される学生が随分と多い。密輸する学生がいて、さらにネットで販売などもしているらしい。大麻自体の是非はともかく、若年層における普及は問題だろう。昨今の拡がりは、少し深刻にその経路等について考えないといけないような気がしている。

 ところで、大麻といえば、(このブログでは)江本勝である。あちこちで大麻を讃えているのが『水からの伝言』の江本勝だ。表向きは産業や資源などで役に立つから、と言っているのだが、行間には大麻を解禁してほしいということが書いてある。
 江本の「お水様」が大麻を肯定しているということは既に取り上げた。
 →「水からの伝言」に書いてあること(1)
 また、IHMのウェブでは次のような記事もある。
 →こちら http://www.hado.com/asa.htm

 以前のエントリでも書いたのだが、教育関係者で『水伝』信奉者の方には、江本の大麻肯定論者としての側面も知っておいてほしい。こんなこと書いてるんですよ。いいんですか?

(追記11/28)
今日見たら、上のリンク(http://www.hado.com/asa.htm)先がなくなっていた。どうも hado.com 内からはだいぶ前にリンクを切っていたようだが、ファイル自体をなくしたようだ。さすがに連日大麻が問題視され、得策ではないとふんだのだろうか。
だが、ネットはそう甘くはないのである。あるところには記録がちゃんと残っているのだ。
http://web.archive.org/web/20070513163827/http://www.hado.com/asa.htm
ここに上記ページのアーカイブが残っている。hado.com内のリンク先もしっかり残っている。
これだけだとアレなので、そのhado.com内の魚拓もとっておいた。
http://s04.megalodon.jp/2008-1129-0104-36/www.hado.com/asa/asa-1999.4.htm
http://s01.megalodon.jp/2008-1129-0108-26/www.hado.com/asa/manyo.htm
http://s02.megalodon.jp/2008-1129-0109-02/www.hado.com/asa/asa-2001.11.htm
http://s03.megalodon.jp/2008-1129-0109-14/www.hado.com/asa/asa-2001.12.htm
http://s04.megalodon.jp/2008-1129-0109-18/www.hado.com/asa/asa-2002.2.htm
http://s01.megalodon.jp/2008-1129-0109-42/www.hado.com/asa/song.htm
http://s02.megalodon.jp/2008-1129-0109-42/www.hado.com/asa/goods.htm
無論、魚拓が取れるということは、今の段階ではこれらのページは本家にも残っているということである。とりあえず asa.htm さえ消去しておけばいいだろう、と思ったのだろうな。

上のリンク先には特に問題があるとは言えないページも含まれている。当然、麻の有効な利用方法はあるからだ。ただし、全部注意深く読めばわかるが、端々に麻薬としての大麻についても肯定している部分がある。

以上、記録ということで。
たぶん、上のページもそのうち消すんだろうな。