不完全性定理と人生の意味(追記あり) | ほたるいかの書きつけ

不完全性定理と人生の意味(追記あり)

 やっとネットがつながる環境にもどってきました。なんだか浦島太郎状態で、なにがなんやら、という感じです。いろいろ面白いことが起きているようなのですが、リアルタイムで関われなくてとても残念。
 ところで、ajtptwtptjaさんの「ニセ科学論議の違和感概要 」に端を発した(と思われる←全体像を未だ把握できていないのでこういう表現)一連の議論ですが、根底の部分でしばしば見かける論理の飛躍があるので、議論の全体を把握できていない(特に各地のブログのコメント欄はほとんど参照できていないので、既出でしたらすみません)にもかかわらず、リハビリを兼ねて(^^;;、ちょっとコメントしてみます。その後の進展についてはこのあたり を参照していただければいいのかな?(ajtpwtptjaさんのところはトラックバックは受け付けていないのでしょうかね?)

(追記08.08.09)
   亀@渋研Xさんがまとめページを作ってくださった。これはとてもありがたい。
   「ニセ科学論議の違和感概要 」関連エントリ一覧
   トラックバックも無事ついたようです(私が勘違いしていました^^;;)。

 さて、コメントすると言いつつ、実は議論の焦点からは外れたことを述べてしまうのですが。
 この方は、
  ・不完全性定理と不確定性原理の観点から導かれるべき謙虚さ
が足りないのでは、とおっしゃっているようです。で、この二つからいったいどういう「謙虚さ」が導かれるのかがさっぱりわからない(よくわからない、ではなくて、*まったく* わからない、です)。

 ちょっと分析してみましょう。
 この文では、この方が大事だと思われている「謙虚さ」の根拠が二つ挙げられています。「不完全性定理」と「不確定性原理」ですね。この文の前には「技術的認知の限界」云々というものもあるのですが、この後の話においては、それは不完全性定理の話に含まれるので、そういうものとして読んでいただければと思います。

【不確定性原理】
 これは、量子力学に基づくと、たとえば「運動量と位置」は同時に完全に決めることはできない、という原理ですね。あるいはエネルギーと時間、もっと言えば「測定にかける時間を短くするほど測定されるエネルギーの不定性は増大する」という関係でもあります。
 式でかけば、運動量をp、位置をr、プランク定数をhとすると、p*r > h (ここでの不等号は、厳密に「hより大きい」ではなく、「h程度より小さくなることはない」ぐらいに思っといてください)となります。後者は、エネルギーの不定性を⊿E、時間の幅を⊿tとすると、⊿E*⊿t > h です。
 では、これがどれくらいの「誤差」を与えるのか考えてみましょう。
 歩いている人間を考えます。運動量は質量*速度ですから、体重66kgの人が秒速1mで歩いているとすると(ちょっと遅いですが、まあ計算を簡単にするためです)、p=66kg*1m/s=66[kg m/s]となります。この単位を変換すると、[kg m/s]=[J s/m]とすることもできますね。プランク定数はh=6.6*10-34[J s]ですから、位置の測定誤差は、r>h/p=6.6*10-34/66=10-35[m]です。
 さあこれは一体どれくらい小さい「誤差」なのか。まあどうやっても検出できない誤差ですよね、これは。つまり、歩いている人間の位置-さらに言えば、運動しているマクロな物体の位置-については、量子力学を考慮する必要は *まったく* ない、ということになります(もちろん例外はあります。超流動とかね。量子力学的効果がマクロに現れる現象は、それこそ面白いのでいろいろ研究されています)。
 というわけで、マクロな物体に関しては、「不確定性原理に基づく謙虚さ」などというものを考慮する必要はまったくありません。
 ミクロな物体に関しては、不確定性原理を内包した量子力学を使って計算しているので、必然的に「謙虚さ(もしそういうものがあるならば、ですが)」は考慮されていることになります。

【不完全性定理】
 簡単に言えば、公理系が無矛盾であることを証明できない、あるいは証明できない命題がある、ということですが(簡単に言いすぎかな^^;;)、たぶん、この方は、「科学ではどうやっても証明できないことがあるってのが不完全性定理の言うところなんだから、全部わかったようなエラそうな顔をするな」ということなんだと思います。そう自覚しているかどうかは別にして(「エラそうに」という感情的な反発がメインでしょうか)。
 さてさて、これも「不確定性原理」の場合と同様ですが、科学はそこまで物事を明らかにしているのでしょうか。
 たとえば素粒子論における「標準理論」というものがありますが、要するに実験である程度確立しており大方において正しいと認められている理論です。ところが、いろいろ考えていくと、標準理論が完全であると困る、ということもわかっている。あるいは、標準理論には、外から決めてやらないといけない量が含まれている(粒子の質量とか)。
 簡単なたとえで言うと、サッカーを全く知らない人が、「サッカーのルールを求めよ」と言われたとします。ただし、サッカーの試合のビデオはいくらでも見ることができるとします。すると、やがて、「2チームに分かれてやるものだ」「1チームは11人だ」「相手のゴールに多くボールを入れたほうが勝ち」「手を使ってはいけない、ただし一人だけ、限られた領域では例外が認められている」などのルールを明らかにしていくことでしょう。ま、サッカーのルールなんて大した数じゃありませんから、センスの良い人ならば、ほぼ正しいルールにたどり着くことも可能でしょう。
 ところが。そのたどり着いた理論には、例えば「1チームは11人」というルールが含まれます。しかし、「なぜ11人か」という疑問には答えてくれません。「そうなっているから」としか答えようがないですよね。それを知るためには、サッカーの歴史を知らなくてはなりません(って私も知らないのですが)。
 ちょっと長くなりましたが、まあそういう話です。つまり、より深いレベルの理論があるはずで、それはまだよくわかっていない。
 そういう現状ですから、不完全性定理など持ち出すまでもなく、まだまだ科学は不完全なのです。幸か不幸か、まだそんなことを心配する段階ではありません。
 つまり、「不完全性定理に基づく謙虚さ」などを持つ前に、現状に対する謙虚さを持たなくてはならないわけです。

【人生の意味とは何か】
 なんか大上段な問いかけですが、まあ普通わからんですよね、そんなもん。わかっちゃう方が-わかったと思いこんじゃう方が-むしろ問題かもしれません。
 で、何を言いたいかというと、生きる上で持つべき謙虚さってのは、「不確定性原理」に基づくものでもなければ、「不完全性定理」に基づくものでもありませんよね。そんな日常生活ではどうでもいい法則を持ち出さなければならない人生って、いったい何なんでしょう?

 結局、この問題は、根っこのところで「水伝」などともつながっている部分があるのですが、要するに、「道徳の根拠を科学に求めてはならない」というところに帰着するのだと思います。科学が何を言おうが、人生において何を善とし何を悪とするかは、別の次元で考えなければならないことだ、ということです(もちろん、その「善」や「悪」の中身を分析する過程では、科学の助けを借りることは大いにあるでしょうが、科学だけでは閉じない)。
 我々がいろいろな場面で謙虚になるべき根拠は様々ですが、確実に言えるのは、それは「不確定性原理」でもなければ「不完全性定理」でもない、ということです。それは人間に対する自然の奥深さであったり、人間と社会、そして人間そのものの複雑さと単純さの織りなす豊かな世界であるのでしょう。
 逆に言えば、我々が持つべき謙虚さを、そのような「原理」や「定理」に求めるということは、人間に対する冒涜ですらある、ということです。そして、明らかに間違ったことを主張を「それも一理ある」と許容することは、自然に対する冒涜であり、またその主張が間違いであることを判別できる程度に科学を発展させてきた人間社会に対する冒涜でもあります(許容するべきではないのは「人」ではなくて「主張」ですよ、念のため。また、あくまでも言論の自由の範囲内での自由な批判を通じて、ということも当然の前提です)。

 人類の知識が大量に蓄積されるにつれて、詳細まで把握し理解するのはごく限られた専門家のみになるようになってしまいました。だから、自分の不安の原因を自分のよくわかっていない分野のせいにするのは当然の心理であるとも言えるでしょう。だけれども、そこで今一度立ち止まって考えてほしいと思うわけです。自分の主張の根拠はホントにそれでいいのか?と。そこに飛躍はないのか?と。

【ついでに観測問題について】
 話が出ているので、これについても簡単に触れておきます。
 このブログでは何回か触れているのですが、通常、量子力学で計算されるのは「波動関数」です。波動関数は粒子の存在確率を与えます。つまり、量子力学は古典力学と違って状態(位置とか運動量とか)を完全に決められないので、幅をもった確率分布として与えられるわけです。
 ポイントの一つは、確率分布関数自体はなんの不定性(観測問題に起因する)はない、ということです。確率分布を与える波動関数は、決定論的に与えられます。
 問題は、状態が確率で与えられたとして、ではその状態があらわれるかはどのようにして決まるのか、です。さいころの目が等確率で1/6づつ出現することがわかったとして、次にどの目が出るのはどのようにして決まるのか、というのと似ていますね(まあさいころの目は決定論的に決まっているので[カオスは絡むかもしれない]適切なたとえではないかもしれない)。
 普通は、「まあなんだかよくわかんないけど、確率は計算できるんだし、そこは『そういうもん』だと思っておこう」と問題を先送りします。波動関数が観測した瞬間に「収縮」するのかもしれないし、「別々の世界」に分離していくのかもしれない。だけど、どちらにしても、出てくる結果は同じ。だったら、そこの部分はとりあえず先送りしておこう、というのが普通の(量子力学を使う)研究者の態度ではないか、と思います。

 で、何が言いたいかというと、「観測問題」というのは確かに重要な問題なんですが、それがどのような解決のされかたをされようとも、いま確立している量子力学にはまったく影響を与えない、ということです。当然、古典力学にはなんの影響も与えません。

 「波動関数の収縮」と「意識」との関係について言えば、万々が一、仮に意識が収縮に関係しているとしても、それが確率分布に影響を与えるようではいけません(というか、与えているとするならば、意識の影響も込みで計算しないと、実験を再現するような理論は構築できないはず)。これは、「水伝」において、意識が結晶の形に影響を与えるならば、すでに実験的に確立している中谷ダイアグラム(温度と水蒸気量のみで結晶形が決まる)は成り立たない、というのに似ています。つまり同じ温度、同じ水蒸気量でも、意識によって違う結晶が出来得るというわけですが、膨大な実験結果は「そんなことはない」です。意識の関与は収縮を引き起こす引き金以上のものであってはならない。
 だから、観測する人間がいるから自然が作られる、ということはなくて(だったら人間っていったいなんなんだ、ということになりますよね。進化論との関係はどうなるのか、そもそもどの段階から自然を作る人間になるのか、胎児からか、外に出てからか。さらに他人というのはなんなのか。自分が構築した自然の一部なのかどうか。このあたりは独我論につながっていきますが)、あくまでも、自然がそうなっているのを法則として表現したのが我々が今手にしている量子力学、ということになります。人間がいない時代から世界は存在していた(少なくとも波動関数レベルでは)し、人間の存在とは関わりなく、波動関数が表す確率は現象が起こる確率としてあったはずです。人間と自然のどちらが先か、という問題は、哲学的には本質的な問題をはらんでいますが(とはいえ人間が先ということはありえないと私は考えていますが)、物理学のレベルでは、人間の意識など問題にもならない、と言ってよいでしょう。

 というわけで、「確立したものは確立したものとして扱う」「確立していないものは、確立していないものとして扱う」という極めてまっとうな態度が、(個別にはともかく)科学では貫かれていると言っていいでしょう。トンデモ系の人が観測問題を根拠に科学を批判していたら、それはまず間違いなく「そのトンデモさんが観測問題の意味を、そして科学をわかっていない」とみなしてよいのではないかと思います。
 そして、そのことは、科学に対する謙虚さ、科学理論を実証的に構築してきた科学者、その活動を支えてきた人類社会に対する謙虚さが足りないということを意味するのではないでしょうか。
 自分が知らなくても世の中には真偽の決着がついていることはいくらでもあるのです。

 観測問題に絡んだエントリとしては、
   どうして量子力学を齧ったサイエンスライターは観測問題とスピリチュアルを結び付けたがるのか
   ドラえもん…ん?
がありますので、よろしければご参照ください。

***

きっと、似たような議論はどこかでされてるんだろうな。(^^;;
リハビリにはしばらく時間がかかりそうです。ネット社会は進展がはやいねえ。(^^;;;;