どうして量子力学を齧ったサイエンスライターは観測問題とスピリチュアルを結び付けたがるのか
本屋でウロウロしていたら、桜井進氏の著作が何冊か並んでいたのに気がついた。で、その中の一冊を手にとってパラパラとめくっていたのだが。相変わらず、量子力学についてアヤシイ解説をしているので、ちょっと困ってしまう。
ミクロな世界を記述する「量子力学」の世界では、物質は「粒子性」と「波動性」の二つの側面を持つ。例えば「光」は波動であるが、同時に、「つぶつぶ」の性質も持つ(エネルギーの高い光、X線とかγ線とか、で特に顕著である)。同様に、「つぶつぶ」と思われていた電子のような粒子も、波動としての性質を持つ。電子顕微鏡とかね。
で、波というのはどこか一点にあるものではなくて、拡がったある領域に存在するもの。「波長」なんてまさにそれをあらわしている。点じゃなくて、長さを持つわけ。この「拡がった」性質と、一点にある粒子としての性質をどう両立させるか。これが「観測問題」(かなりフツーじゃない解説になってますが、こういう言い方でもたぶん間違ってないでしょう)。
スタンダードな解釈は、「観測」により、波が一点に収縮して、そこで粒子性を発現させる、というもの。たとえば原子の周囲には電子がまわっているが、太陽のまわりをまわる惑星のようにまわっているわけではなく、波として拡がった「電子雲」として存在している。ここになにか粒子なり光子なりをあてると、そのどこか一点で電子が観測される。つまり、「雲」が一瞬にして「点」に収縮した、と考えるわけ。
この「観測」がなんなのか、実はまだよくわかっていない。で、その極端な解釈として、「人間」による観測を特別視する連中がいる。「人間」が「視た」から、その点に収縮したのだ、と。だから、もしかしたら、「念ずる」ことによって、どこに収縮するか、コントロールできるかもしれない、と。
量子力学では、その「波」を表す「波動関数」(要するに波を表すサインとかコサインで書ける波なんだが)が存在確率に関係している(波動関数を自乗したものが存在確率)。どこに収縮するかは確率でしかわからないけど、しかし確率分布自体は決定論的に決まっているのだよね。そこに意識だの観測だのが介在する余地はない。
ところが、桜井氏は、それをにおわすのだ。スピリチュアルとの関係まで、「こういうところにあるかもしれない」みたいな感じで述べる。なんでこんなことを書くのだろう。本気でそうだと思っているのだろうか。それとも、書くとウケるから、みたいな感じなんだろうか。
数学についての解説本も一緒にならんでいたのだけど、そっち方面に専念したほうがいいんじゃないだろうか。
これがもっと進むと、このブログでも何度か触れた、奥健夫氏のようになるんだろうが…。
ちなみに桜井氏については、以前このエントリ で言及しています。
ミクロな世界を記述する「量子力学」の世界では、物質は「粒子性」と「波動性」の二つの側面を持つ。例えば「光」は波動であるが、同時に、「つぶつぶ」の性質も持つ(エネルギーの高い光、X線とかγ線とか、で特に顕著である)。同様に、「つぶつぶ」と思われていた電子のような粒子も、波動としての性質を持つ。電子顕微鏡とかね。
で、波というのはどこか一点にあるものではなくて、拡がったある領域に存在するもの。「波長」なんてまさにそれをあらわしている。点じゃなくて、長さを持つわけ。この「拡がった」性質と、一点にある粒子としての性質をどう両立させるか。これが「観測問題」(かなりフツーじゃない解説になってますが、こういう言い方でもたぶん間違ってないでしょう)。
スタンダードな解釈は、「観測」により、波が一点に収縮して、そこで粒子性を発現させる、というもの。たとえば原子の周囲には電子がまわっているが、太陽のまわりをまわる惑星のようにまわっているわけではなく、波として拡がった「電子雲」として存在している。ここになにか粒子なり光子なりをあてると、そのどこか一点で電子が観測される。つまり、「雲」が一瞬にして「点」に収縮した、と考えるわけ。
この「観測」がなんなのか、実はまだよくわかっていない。で、その極端な解釈として、「人間」による観測を特別視する連中がいる。「人間」が「視た」から、その点に収縮したのだ、と。だから、もしかしたら、「念ずる」ことによって、どこに収縮するか、コントロールできるかもしれない、と。
量子力学では、その「波」を表す「波動関数」(要するに波を表すサインとかコサインで書ける波なんだが)が存在確率に関係している(波動関数を自乗したものが存在確率)。どこに収縮するかは確率でしかわからないけど、しかし確率分布自体は決定論的に決まっているのだよね。そこに意識だの観測だのが介在する余地はない。
ところが、桜井氏は、それをにおわすのだ。スピリチュアルとの関係まで、「こういうところにあるかもしれない」みたいな感じで述べる。なんでこんなことを書くのだろう。本気でそうだと思っているのだろうか。それとも、書くとウケるから、みたいな感じなんだろうか。
数学についての解説本も一緒にならんでいたのだけど、そっち方面に専念したほうがいいんじゃないだろうか。
これがもっと進むと、このブログでも何度か触れた、奥健夫氏のようになるんだろうが…。
ちなみに桜井氏については、以前このエントリ で言及しています。