勝者=敗者 ~越えられない背中を目指して~ -2ページ目

勝者=敗者 ~越えられない背中を目指して~

曙五郎の高校生活、柔道に打ち込んだ青春時代を書いています。

気分で更新しますので気長にお付き合いよろしくお願いいたします。

尚、登場人物はすべて架空の人物です。

冬休み前に行われる期末テスト、基本的に赤点しか取れない五郎はテスト週間であろうと、勉強はしなかった。というよりも勉強の仕方がわからなかった。

なのでテスト週間に入り部活動の時間が短くなったり休みになっても、家に帰り夕食を取り風呂に入って夜9時には消灯していた。

 

そんな五郎でもこの期末テストは気持ちの入れ方が違っていた。

なぜなら赤点で追試が決まった段階で12月23日から行く嘉山遠征に行けなくなるからだ。

嘉山遠征とは毎年九州の由布院で行われる遠征が今年は宿舎の改装で中止になり、その代わり九州の学校の何校かの監督の主催で福岡県の嘉山高校で合宿が行われることになった。

嘉山高校いえば福岡先生の母校であり、現在は福岡先生の弟が監督をしており、柏陵高校とは深い縁のある高校で五郎もなんとしてもこの遠征に参加したい思いがつよかった。

しかし、勉強ができない…。

数学は赤点でも授業中のノートを提出すればOKで後で誰かからノートを借りて映せば問題なし、国語も何とかなりそうで、そのほかの科目もノート提出でOKな科目がる、しかし地理だけはどうしても点が必要だった。

悩んだ挙句、隣の席の畑山に言ってテストが終わったら自分の方に回答を置いて寝たふりをしてもらうようにお願することにした。

畑山は内心嫌だと思いながらも承知してくれて、いよいよテストの時間となり畑山が寝たふりをしたのを横目で確認して答案用紙に目をやった。

すると、なんと逆行で書いた字が光ってまったく読み取れない…。

五郎はあきらめて自分の勘だけを頼ることにした。

 

結果はたまたま勘が冴えていたのか、何とか赤点は免れて嘉山遠征に参加することができた。

 

 

 

 

 

新メンバーで最初の目標は年明けすぐに行われる春の高校選手県の県大会の団体戦で県ベスト4以上に入ることだった。

理由は今まで歴代の先輩方が常にこの大会でベスト4以上に入っていたからそこが最低目標となった。

 

その目標に向かって新メンバーで走り出した矢先の9月上旬、ポイントゲッターの織元さんが膝をケガしてしまった。

元々100㎏を越える体重のわりに足が弱い事が指摘されていたが、ここに来て過度な追い込みで膝が悲鳴を上げてしまった。

幸いにも個人戦の主要大会をも終わっていたので今からじっくり治して1月に向けて準備をすることになった。

しかし、半年を切った時期にこのケガは非常に重い空気となり、今まで以上に激しい練習の日々が続いた。

 

五郎の成績はと言うと、9月から11月の3カ月で月次試合に出場するものの、お世辞にも良い結果と言える成績ではなく、不安の残る年末となった。

 

4月に高校に入学して気が付くと6月の中盤になっていた。

 

4月、5月は主要大会の予選があり全く出ていなかった月次試合(毎月1回開催される地区の柔道連盟主催の無差別段別の試合)に五郎たちは今月から参加することになった。

各学校も4月、5月は控えていたが今月は上位の大会に出場しない学生はほとんど出場するいことになった。

 

月次試合は各段別で五郎は初弐段の部に出場する。今月は特にどこの学校のほぼ全員がエントリーしていたので、A~Fまで分かれての試合だった。

試合の形式はまず横一列に名前が書いてあり自分の名前の横に書いてある選手と試合をして2回勝ったらトーナメントに上がることができるポイント制の試合だ。

五郎の初戦の相手は長尾高校の2年生だった。

自分よりも体格があったので不安はあったが、難なく大外刈りで一本勝ちして、予選2回戦は農大付属の同級生川内との対戦だった。

川内は五郎と同じく小学校のころから知っていて、小学校時代はまん丸太っていて背はあまり変わらないものの、横に大きく一度も勝てなかった1人であった。しかし中学に入ってから体重別になって川内自身がスマートになり力の差を感じなくなり、1年生の新人戦のころには五郎が常に勝てるようになっていた。

今回も久しぶりの対戦ではあったが、判定で五郎が勝利した。

トーナメントに上がり一回戦は樟学園の同級生で同じ階級で他県から推薦で入学した新上との対戦だった。

新上とは中学時代に地方大会の団体準々決勝で一度対戦しており、その時は得意の大外刈りを2回返されて合わせ技で一本負けをしていた。

新上本人は全国的にも有名で国際大会で銀メダルに輝いた実績もある選手で、当時は組んだ瞬間に勝てないと五郎が思ったほどだった。

今回久しぶりの試合だったが、組負けることはたびたびあったものの、あの時のように勝てないという感覚はなく、かといって勝てるような感じもないまま時間となり判定で負けた。

 

この試合を見ていた福岡先生は「もう少し自分から前に出ないとおかん」と厳しい言葉の後に、「一年前よりも差は縮まっておるから頑張れ」と言葉をかけてくれた。

 

翌月からの月次試合でもトーナメントには上がれるものの1回戦の壁を破れないまま、8月になり、金鷲旗を最後に三年生が正式に引退した。

 

夏休みに入ってからは正式に2年生の大町さんがキャプテンになり、新メンバーで練習がスタートした。

 

 

 

目の結膜炎もほぼ回復して、迎えた試合当日。

1回戦の相手は小学時代から、一度も勝ったことがない樟学園の野坂勲だった。

勲とは小学時代は常に力負けして毎回一本負けしており、中学生になり階級別になっても、毎回上位で当たっていた。中学2年生ごろからはお互いの手の内が分かってきたものの後一歩のところで毎回判定で負けていた。

今回も、お互いポイントがないまま時間が過ぎ判定負けだった。

五郎は今回の試合内容を含めて正直、今までの中で一番手ごたえがあり、もしかしたらと思っていたが判定2対0で主審の手が勲に上がった。

 

試合後に福岡先生からも試合内容については怒られなかった。

試合の帰り道、大国も勝ったかと思ったと話していたし、五郎は前から都市伝説的に広まっている噂を思い出した。

しかし、まさかそんなはずはないと頭をふり、まだまだ自分の実力不足だと考えなおした。

 

翌週はインターハイの県大会が東部の体育館で行われた。

試合会場が遠い為、選手のみが前日泊で試合に向かった。五郎たち、試合に出られない生徒は学校に残って練習だった。

結果は今回も最悪の結果だったようで福岡先生の機嫌も悪かった。五郎と同級生で同じ階級の松木も1回戦で敗退していた。

 

その他は、姉の恵はケガの為棄権したが、双子の妹の紀絵は1年生ながら初優勝を飾った。

 

翌週の国体予選も2回戦で負けたので、五郎の1年生の公式戦は終わった。

 

ジュニアの県予選の3日前五郎に異変が起こった。

 

入学後、週に1回~2回のペースで国語の授業中に漢字プリントが配られる。

このプリントは授業中に書いてもいいし、帰ってから書いてもよく、毎週金曜日に提出することになっていた。

しかし、五郎は授業中は睡眠学習が忙しく、帰ってからやる時間もなくいつの間にか15枚ぐらいたまっていた。

日頃は温和な国語教師もさすがに頭にきて、五郎やほかのプリンを出さない生徒に対して「今週中に出さないと、部活の先生に報告する」と言いだした。

五郎はまじか、と思ったがさすがに福岡先生にばれるとまずいと思い、帰宅して毎日2時ごろまでかけて3日間プリントを書いた。

そして木曜日の朝、目を覚ますと目が真っ赤に充血していた。

今までこんな事はなかったので朝病院に行って見ると、結膜炎と診断された。

 

眼科から学校に行くと授業は2時間目の途中からの参加だった。

昼休みに福岡先生のもとに行くと「その目はどうしたんや」と驚いた様子だった。眼科での内容を話すと「あと3日あるから大丈夫や」と一言言うと食堂へと消えていった。

 

試合の前日の土曜日は、木曜日から比べると充血はなくなり、試合の当日は少し赤みはあるものの試合に支障がないぐらい回復していた。