5.阿賀野川水系の猪苗代湖で、江戸時代と明治時代の水利用の知恵を知る
十六橋水門でみる会津と郡山の水利用①江戸時代に会津を水で潤した戸ノ口用水 十六橋水門から西側を流れる戸ノ口堰用水は1623年に八田野村の内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源といわれています。約15年かけて八田分水まで水を引くことができるようになり、それからも引き続き開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造りました。その時に7つの新しい村が出来ました。第4期工事で会津若松までつながり、猪苗代湖から会津若松まで約31kmの長い用水となりました。 そのころ、会津藩は、日照り等が続けば渇水となり、水が来ないということでなんとか戸ノ口堰の水を使うことができないかと考えていました。1835年、松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から55000人を集めて戸ノ口堰用水の大改修が行われました。3年の歳月をかけて飯盛山に水路としての弁天洞門(170mのトンネル)を掘削しました。この水は会津地方を潤した後、阿賀川そして阿賀野川をへて日本海へと注ぎます。②明治時代になって郡山を水で潤した安積疎水(諏訪湖をダムに?) 十六橋水門で水位を上げて猪苗代湖の水を郡山側に流しているのが安積疎水です。1872年2月にお雇い外国人として来日したファン・ドールンは、安積原野開拓のために1878年猪苗代湖から安積野原野一帯の調査を行い、その調査の結果、安積疏水の開削を政府に決断させました。 その方法とは、猪苗代湖の水位を高くして日本海側へ流れる流量を調整して、安積疎水へ水を供給するために戸ノ口堰用水の取水口のところに十六橋水門を建設し、猪苗代湖をダム化するということです。工事の内容は、太平洋側の安積地方へ取水する山潟水門を建設し阿武隈川に繋がる支流、五百川へ流すという、分水界を跨いだ流路変更を行いました。隧道、架樋等、延85万人の労力と総工費40万7千円(現在約400億円)によって127kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成しました。灌漑区域面積は約 9,000 ha と広大で、当地を一大穀倉地帯に変えました。 なお、郡山市は、平成の大合併により市域を広げた新潟市が誕生する前は、米穀生産量日本一の市でした。 分水界を変えるという大胆な土木事業が、自然環境にどのような影響を与えたのかはわかりませんが、これまでの日本国土の歴史の中で、自然の力(隆起や火山による堰き止め)による河川争奪が頻繁に行われてきたことや、この事業による人々の生活の向上への貢献を考えると、上手に自然の力を利用した土木事業だったといえるのではないでしょうか。