1.八十里越とは

 

 実際の距離は8里(約31km)なのに、その険しさと山の奥深さゆえに、一里が十里にも感じられるほど急峻かつ長大な山道であることなどから、八十里越と名づけられたようです(諸説あり)。三条市下田地区から魚沼市の北端部を経由して只見町に至る街道で、番屋乗越、鞍掛峠(標高965m)、木の根峠(標高845m)の2箇所の峠があります。

明治時代後期までは、中越と会津を結ぶ重要な街道で、年間約18000人が峠を越えたといわれています。新潟から南会津へは塩、魚類や鉄製品などの生活物資が、南会津から新潟へは繊維の原料や林産物などが運ばれるなど、様々な旅人が行きかっていたようです。大正3年に現在の磐越西線が全通すると、人々の移動や物資の輸送は鉄道へ移行し、鉄道網や道路網がその後全国各地で整備される一方で、八十里越は衰退の一途をたどったようです。昭和45年、吉ヶ平の集団離村によって歩く人はいなくなり廃道状態となってしまったようです。

 

 

 

2.情報量が少ない古道 八十里越の今

 

 様々な資料を調べてみたのですが、なかなか八十里越の古道が歩けるのかどうかわかりませんでした。その後ヤマケイ文庫の「古道巡礼」(高桑信一著)を読んで踏破可能であると判断、地形図を頼りに新潟県側の吉ヶ平から鞍掛峠を目指すことにしました。今回は交通の便を考え、鞍掛峠の往復としました。

 

 

 

 歩き始めは幅2mくらいで街道らしい雰囲気があったのですが、10分ほどで0.5mのシングルトラックの登山道っぽい道となりました。しかし、登山道との違って、当時は荷車の通行を考えたのでしょう、延々と緩い勾配を上っていきます。荒れ果てた道を想像していたのですが整備されており、迷わずに歩けるようになっていました。また、当時はつづら折りになっていたルートをショートカットしたり、土砂崩れ後の新ルートも整備されており、この古道を残していこうという活動があることが確認されました。

 

  

 

標高600m付近になると気持ちの良いブナ林となり、2時間ほどで番屋乗越にたどり着きました。

 

 

 

番屋乗越を越えると、点線国道を解消するため建設中の289号の現場を見ることができます。

 

 

3.国道289号(建設中)

 

 昭和45年、八十里越が国道289号に指定されて以降、三条市大字塩野淵字御所から只見町大字叶津字入叶津に至る、総延長20.8kmの区間で新しい車道の建設(区間内にはトンネルが14本、橋梁が6本)が進められています。ルートは古道からかなり離れたところを通ることになります。沿線は急峻な地形で豪雪地帯であることから工事は難しさ(積雪の無い5月下旬から11月上旬にかけての概ね半年間のみ可能)を極めておりなかなか進んでいないのが現状です。全線の供用開始時期は未定で、あと10年、あと10年と伸び伸びになっていると、地元の方はあきらめ顔で話してくださいました。

 八十里越街道の復活は、文化的な交流が途絶えた只見町と下田地区に大きな変化をもたらすことになるのでしょうが、不安等があることも事実です。

 

 

4.かぎりなく深い古道

 

 ブナ林の中、歩いても歩いても鞍掛峠は遠く、当時の往来の厳しさを実感しました。しかし、人の気配が消えたブナの森はすばらしく、このまま静かに廃道になっまま奥山の自然へと帰っていくのがいいのかなとも思いました。全体的に勾配は緩いのですが、山裾をトラバースしていくため、多くの沢では道が寸断されており、ハイキング気分で歩けるような道ではありません。

 

 

烏帽子山が見せるダイナミックな景観で、山の険しさをあらためて実感します。

 

  

  

 ひたすら歩くこと4時間、ようやく鞍掛峠到着です。振り返ると絶景ですが、会津側の展望はありません。距離にして14km、当時の苦労が理解できました。

 

  

 

5.なぜここに街道があったのか?

 

 阿賀野川沿いではなく、なぜこのような険しい山道が越後と会津を結ぶ重要な街道となったのでしょうか?現在のところまだ理解できていません。これから調べていきたいと考えています。つづきは八十里越(会津編)で・・・