FBの友人からお名前共に許可をいただいて転載します。

ちょう弘利さんより。

我が家の在日百年の記録

第3章 外国人登録法違反

このような日本の官憲が起こす人権侵害の事件が起きるたびに

思い出すのが、外国時登録法違反ととして、捕えられた数々の

屈辱の思い出がある。

 

「おいこら、お前な、日本に居られんようにしたろか、

何で、大事な大事な、外登の切り替えを半年もしてないんや。

外登はな、お前らにとっては、

 

犬の首輪に付ける保健所の鑑札と同じ、それ付けてなかったら、

捕獲して、処分する事になってるんや、

そんな事もわからんのか」。

 

と朝一番に兵庫県警長田警察署の外事課に出頭を命ぜられ、

担当の刑事から怒鳴られた。

我々在日コリアンにあっては、当時この外国人登録証というのはまさに、

命の次に大事なものと教えられてきた。

 

特に16才以上になれば、写真付きで、その下に指紋が押捺している。

官憲に外国人登録の提示を要求されれば見せなければならない。

さて、この外登の取締を行うのは

警察官であるが、朝鮮人かどうかを彼らは

どのようにして見分けていたのかという事になる。

 

現在のように、世界から多くの外国人が日本に在留している中では

言葉、肌の色、顔立ちなどで判断できるだろうが、

在日コリアンとなれば、むしろ、言葉は日本語、顔立ちも日本人と変わらない。

 

そこで、16才になれば原付自転車の運転免許が取れる。

私も、定時制高校に通うために、原付免許を取得した。

免許証の欄に本籍という欄があり、そこに「朝鮮」と書かれている、

それを警察官を見て、次に要求するのが

「はい、外国人登録証を出せ」。という。私がこの

外登違反で最初に神戸入国管理事務所から出頭させられたのは、中学2年の時だった。

 

中間試験の時だった、試験の途中に教頭先生が教室にきて、

職員室にすぐに来なさいと、そして職員室に行けば30円をくれて

「君は今からすぐに、市電に乗って山手線で下山手の

神戸入国管理事務所にすぐに行きなさい」。という。

この30円は片道15円の電車賃。何があったのかさっぱりとわからない。

 

入国管理事務所という存在すらわからなかった。

板宿から市電に乗って、約30分ほど乗っただろうか、

教頭先生からもらった地図を頼りに神戸入国管理事務所に着いた。

今でも記憶にあるのが木造の洋館建ての建物、

 

入管事務所の玄関にいくまでは鬱蒼とした樹木が建物を隠すようにしてあった。

両開きの扉を開けると待合ホールになっていて、磨き抜かれた大理石のような

床になっている。

正面が受付窓口になっており、

担当官がその仕事柄に応じた部署を担っている。

 

私が待たされたのは在留期間というようなことが

書かれていた窓口であったと記憶している。

すでに、十人ぐらいの人が順番待ちをして待っていた、

ほとんどが在日朝鮮人のハルモニ、ハラボジである。

時たま、

若い職員の怒号も聞こえた

「あなたね、もう日本に住めませんよ、国に帰ってもらいますよ」。と

それに対してハルモニたちはひたすら拝むようにして

「スミマシェン、スミマシェン、ユルシテクダサイ」。

まるで命ごいをするかのようして怯えている。

 

ほぼ、待っている人たちへの対応は同しで、

1時間ほど立ったまま待たされて、私の番が回ってきた。そして

「君は、なぜ今日ここに呼び出されてきたわかっていますか」。

と職員に問われた。

「いや、何もわかりません」。と言うと。

 

「あのね君、中山こと曺弘利」。

敬称なく呼び捨てに一瞬、

自分が犯罪人であるかのように錯覚を覚える。

 

更に担当の職員の語気は荒くなり、

「君は、出生したときから、12年間の間、

外国人登録の切り替えを一度もしていない、

在留期間の更新は3年に一度しなくてはならないけれど、

すでに12年間も放置しており、日本に住む意思がないものとみて、

このままでは日本に住むことができないよ」。と言われた。

 

13才の何もわからない私にとって大きな衝撃を感じた、頭が真っ白になった。もう、

日本に神戸に住むことはできないんだ、

そしてここを追い出されるのだ、走馬灯のようにそんなおもいが駆け巡る。

しかし、人間というもの、

追い込まれ続ければ打ちひしがれるか、

開き直るか

他の道を探すか、一瞬、

総連の分会で「千里馬の祖国」なる北朝鮮の映画を見たのを思い出した。

 

そうだ、私には本当の祖国があるんだと何か勇気がわいてきて

 

「わかりました、日本に住めないならそれで結構です、すぐにでも朝鮮に帰してください」。

と担当官に逆に迫ったのである。

私は、その時、北朝鮮帰還事業がまだあると思っていた。

 

慌てたのは担当官「君、それには親の承諾などがいる、君はまだ未成年だから、

そんな簡単にはいかない」。と

先ほど言っていたこととずいぶん話が違ってきた。

 

それでも私は

「もう、僕は日本に住みたくもありませんので、朝鮮に帰る手続きを取ってください」。

とさらに迫った。

 

しばらくして、上司とみられる人がやって来て交替するようにして窓口に来た「曺弘利君、明日にでも長田区役所に行って、在留期間更新に来ましたとこの書類を外国人登録課に持って行って下さい」。封筒を渡された。

 

時計は5時になっていた玄関を出れば、

数人のハルモニとハラボジたちが私を待っていたのか

「アイゴー。チャルヘッタ」

(よくやってくれた)。私の手を取って涙ぐんでいる。

 

こうしたやり方で、

我々在日コリアンをアンダーコントロールする手法は今なお、

日本の入管行政には定着していることを今もって思うのである。

第3章 終わり (写真は1944年11月父弟右 特攻隊入隊時写真)

続く

 

我が家の在日百年の記録

第6章 私達の故郷

 あなたの故郷はどこですかと、聞かれたら、まずは答える事ができない、

生まれたところは神戸だかか、私はここでは外国人であり、居住しているのではなく、

正しくは居留しているのである。

 

今は持っている住民票に変わるものは、

特別永住者証明なる写真付きのカードで、

 

名前、国籍地域、住居地、生年月日、有効期限と、7年に一度の切り替え、外国人登録証からこのカードになって、何年経たのか忘れてしまった。何故なら、このカードは常時携帯義務がない。いわゆる、官憲の要求によって提示する義務が無いからだ。

しかし、それは定住外国人に適用され、

在留期間が定められた外国人には適用されない。

 

東京ら大阪の、

大都市では多くの外国人が居住している。

最近では技能実習生という名目で、

日本語学校に通い、日本語を学び、

そして3年期限で仕事をして、

期限が来れば帰国するという制度かあり、

主に近隣アジア諸国の若者達が就業に来日してきているが、

最近は日本経済が落ち込んでいることもあって、

日本に来る若者がかなり減っているらしい。

 

その昔、朝鮮半島が日本植民地となって農民が土地を奪われ、

食えなくなって多くの朝鮮人が職を求めてやってきた。

 

戦争をやり続けていかなくてはならない当時の、日本にとっては、

植民地とした朝鮮の若者達は安価で使える、

打ってつけの労働力として見逃しす事はしなかった。

戦争が激化する、1943年頃には、

国家総動員令によって、男女共に軍事工場、炭鉱、土木工事など、

 

そして女子挺身隊として、

韓国から連れ出し沖縄、南方諸島に慰安婦として送ったのである。

いわゆる、従軍慰安婦と言われるものであるが、

本人の意思とは反していた事もあり、

半ば拉致するか如くに行った当時の日本軍部の行為は

実に非人間的な行為であったと言える。しかし、

 

未だにその事実は認める事もなく、

この行為を自分達が選んだ金儲けの行為だと言い切る日本政府。

 

これは歴史認識の違いではなく、歴史の修正、改竄と言える。

 

この慰安婦問題が起きたころ、大きく、日本と韓国との関係が悪化し、現在に至る。

韓国人はひつこい、一度約束した事を守らない。

こんな国とは国交も断絶してしまえば、日韓戦争の想定すら、出てくる。

 

私が中学生の頃、韓国の日本語短波放送で玄海灘にかかる虹という番組を、よく聞いた

朴チョンヒ軍事政権時代であった。韓国が実に貧しい時代であった。

我々在日コリアンは、韓国に行くことが簡単ではない時代。

 

農協団体、建設業者などの団体が韓国旅行が 

頻繁に行われていた。

いわゆるキーセンパーティと言うものである。

どういうものかとは、屈辱的であるので、詳しくは書きたくはない。

 

しかし、貧しくとも、苦しくとも、我々の故郷は日本ではないと、

さりとて韓国が故郷と言えるのは一世の在日コリアンであって、

二世、三世の我々世代には当てはまらない。

 

朝鮮人、韓国人、在日コリアンとさまざまな、言い方がある私達在日コリアン。

一時は半日本人とも言われていたころもある。

この、証明書の中に半日本人という書き込みが

記述されているように見える

ような気がする時もあった。

あなたの故郷は問われたら、

やはり韓国とは言えないし、

されど神戸だとも言えない。

 

言えない場所が私の故郷だと。

第6章 おわり

続く