今日一つ目に書いた「世界一のブス女」が

案外長くなって、エマ・ワトソンは別記事にした方がいいと思った。

ハフポストの記事に、エマの胸を出したセミヌード写真がある。

見たい人は見ていいよ。

ツイッターで北原みのりが 過去に自分の全裸写真をアップしたことが

中傷されていたし

インスタなどで一般の女性や 女優さんが 

胸の開いた服装をしていることや

女子高校生が ミニスカートを履いていることが

「性的に見るなと言うが、それなら自分の服装を反省しろ」

という反論がある。

フェミニスト自体にも、

女性の露出的な服装や 性的表現をよく思わない人もいる。

 

わたしも、女性がハイレグやビキニパンツや

ミニスカートを「ユニフォーム」「制服」として

「着せられている」ことや

広告などで わざとらしく露出的なキャラクターが

使われていることには 異議を唱えている。

それで、

「女性が スカートやドレスをやめることが ジェンダー平等だ」

という考えに陥ってしまうこともある。

 

エマ・ワトソンさん、ありがとう。

わたしは間違う所だった。

 

けれど、エマさんが言うのは

「女も露出的な恰好をしろ」

というものではない。

 

広告やユニフォームと私服の大きな違いは

「強制性があるかないか」

だ。

 

思えば、男性は上半身裸だろうが

ふんどしだろうが、

性的に見られることは女性よりも断然少ない。

あるかもしれないが、断然少ない。

プロレスラーや関取を そう見たこともないし

見るという女性は 周りにはいない。

レスラーや関取をそう見たら たしなめられもする。

けれど、女性は強制的に性的に見られ 晒される。

見る男性は たしなめられもしない。

ようやく 女子アスリートだけが、

そういう視線から守られるようになった。

 

「見られたくないなら そういう服を着るな」

という男性側の反論は

 

「そういう服装だから性暴力に遭うのだ」

「女が悪い」

という理論に同じだ。

 

加害者でなく、被害者が悪い、

見る側でなく、見られる側が悪い、

結局は 女のせいにしているのだ。

こういう 卑劣論理には気をつけてほしい。

 

たとえ、女性がスカートもやめ

長袖長ズボン、身体の線も見せない服

を着たところで

男の、「性的に見ること」は止まらない。

イランで、黒くて膝丈まである布をかぶり、

足元まであるズボンを着た女性が

「お尻の動きが 劣情をそそるから走るな」

と 男の警官に言われた。

彼女は 「お前こそいやらしいワ」

とパンチくらわせたのだが、

日本でも 笑いごとではない。

女がいかに 「気を付け」ようとも、

「女が動くのをやめなければ

男とは、いやらしく見るものだ」

という「反論」は 限りなく続いていく。

 

「女が気をつけろ」

その呪縛にこそ気をつけよう。

 

それで、フェミニズムとは

女が スカートなど 好きな服を着ることを禁止する

などどいうことではない。

フェミニストでさえ まちがえているかもしれないが。

女性が好きな服を着て

(規約やTPOや法律が許す限り)自由な表現をすること、

そうしていても

性暴力に遭うことがない、

いやらしい目で見られることがない社会を

作ることだ。

・・・・・・・・・

もちろん、

それは 広告やユニフォームや衣装などで

「強制」されることやものとは 違う。

Vチューブ上のキャラクターには

まだ 「自由意志」はない。

男性の妄想はやめてほしい。

・・・・・・

記事には ラストの締めにこう書かれている。

「・・・・・・・・・・・・・・・

ジェンダー平等の闘いとは、女性が「選択」を手にするための闘いでもある。

・・・・・・・・・・・・・・

その一つ一つの選択をすることで、ジェンダー平等を求める努力が無駄になることはない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

頭脳明晰な女性、セクシーな女性、生意気な女性、洗練されている女性。どんな女性になるかを自分で選択しながら、男性と同じ金額が支払われることを求める。それがフェミニズムだ。女性は、マルチタスクをこなすのが得意なのかもしれない。もしくは、一定の型にはめられて人間らしさを失うことに、うんざりしているだけなのかもしれないけれど。

ひとつの自己表現をしたことで、他の表現が意味を失うことはない。」

 

フェミニストとして、アメブロやツイッターで叩かれてもいる吉高さん。

彼女はこんな仕事をしています。

彼女の真実を見てください。

 

 

 

下、本日のテーマ曲。