令和4年9月13日

歩いた時間  4時間30分       歩数  27,208歩

 

高崎駅近くのホテルニュー赤城を5時に出発し中山道に戻りました。

前日通過した九蔵町一里塚まで戻る事も出来ましたが、先へ進もました。

 

まだ薄暗いけど気分は上々         早朝の高崎市街

 

 

上信電鉄の踏切を渡ります。 この辺りまでが高崎宿でした。

     

高崎アリーナ

 

 

上越新幹線の下を通ります。

 

「新後関町」交差点を直進し17号バイパス下を通過。

 

 

倉賀野宿まで2.3kmの表示     

 

粕沢橋を渡りすぐ左に入ります。

江戸時代、粕沢橋は幕府により高崎藩が管理した重要な橋でした。

1803年(享和3)、石橋へと架け替えられました。

 

「倉賀野町西」に出て県道に合流し800m程先に。

左側通行碑

交通量の増加に伴い、松、杉並木南側に新しい道路が作られ、並木左右の道を一方通行にするため、1932年(昭和7)に上下線に1基づつ設置されました。しかし、その後行方不明となり、後に石碑は新町で発見され平成30年にここへ戻されました。高崎川の一基は車の衝突などで修復不能となり処分されたそうです。

 

500m程先の上町西信号交差点の左植込みの中に一里塚の説明板があります。

説明板には「一里塚は、江戸幕府が慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要街道の一里ごとに、道の両側に築かせた道標です。        ここにあった塚は日本橋から26番目のもので、規模は径が約15m、高さ約4.5mほどの小山で、頂上に榎木が植えられていました。そのため、「一里山」と呼ばれていました。  明治になり道路改修が進むにつれて塚は次第に崩され消滅してしまいました」

日本橋を1として数えた場合は26となります。

かつて塚が存在した場所は跡地として残っています。倉賀野の一里塚跡です。

江戸まで25里目の一里塚です。

この辺りが倉賀野宿のはずれで木戸があったようです。

ここでも早朝には飯盛り女達と別れを惜しむ男達の姿が見られたそうです。

 

交差点の先に

 

安楽寺山門                 

 

山門横の馬頭観音

 

 

天台宗安楽寺本堂               

「七仏薬師」の名で知られ、天平九年開基の. 伝承がある古刹。本堂の裏山は古墳時代後期. の円墳で、石室内の壁面に彫られた7体の石仏(薬師如来)がご本尊です。

安楽寺異形板碑

板碑は 「板仏」・「平仏」・「板石塔婆」 などと呼ばれ、追善供養などのために建てられた、板状の石材を使用した卒塔婆の一種である。中世の関東地方において多く作られた。形状は、上部を三角形にして、その下に二条の線が切り込まれ、梵字や仏像などが刻まれる。
 安楽寺にある2基の板碑は、将棋の駒型をしていて通常の板碑よりも厚みがあり、石材は牛伏砂岩(天引石)が使われている。板碑は緑泥片岩で作られることが多く、牛伏砂岩が使用されている例は少ない。梵字で刻まれているのは阿弥陀三尊である。
 この板碑は、風化により年号が判別できなくなっているが、形態などから鎌倉時代末から南北朝時代前半の造立と推定されている。
 (高崎市教育委員会)                             

 

 

勝軍地蔵尊(甲冑を付けた地蔵尊)     二十二夜堂(観音堂)

 

安楽寺古墳

 安楽寺古墳は7世紀末頃に築造されたと推定され、径20m、高さ4mの規模を有する円墳である。
 主体部は横口式石郭と呼ばれる形式で、羨道の奥に石棺が取り付いたような構造をしている。
 石室内部の壁面には、鎌倉時代の製作と推定される仏像が奥壁に3体、左右の壁に2体ずつの計7体彫られている。この仏像は、七仏薬師と呼ばれ安楽寺の本尊となっており、通常は秘仏とされているが、12年に一度巳年に開帳している。

 (高崎市教育委員会)

 

中山道に戻ります。

 

倉賀野神社入口               

 

倉賀野神社

 

倉賀野神社拝殿

御祭神は大国主命の荒魂とされる大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)です。

第10代崇神天皇の時代に、皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が斎場を設けて亀形の愛石を神体として祀ったのが起源と伝えられています。

その亀形の自然石が「クニタマさま」と呼ばれる御神体です。

拝殿は、彫工北村家の三代喜代松の作品です。喜代松は、信州鬼無里村を中心に活躍した宮刻の巨匠だそうです。拝殿向拝の「飯玉彫刻」は特に素晴らしいとされています。 拝殿前には冠稲荷が合祀された際に冠稲荷から移設された常夜灯が移設されてあり、1863年(文久3)のもので、飯盛女「三国屋つね」が寄進したものです

 

倉賀野神社を出て「上町」信号を過ぎた所に

 

高札場・上問屋場跡説明板によれば

「高札場・上町問屋場跡 江戸時代を通じてこの辺りには高札場・上町の問屋場・二軒の脇本陣などがあり、倉賀野宿の中心街をなしていました。
高札場は、問屋役兼年寄の須賀長太郎家(須賀長)の前にあり、高さ3m、長さmm、横3m、屋根付きの大きなもので、幕府の禁令や高崎藩のお触れなどの高札が十数枚掲げられていました。
問屋場は、宿場の重要施設で、幕府が定める公用の人馬及び物資・書状などの継送りを主要業務とする一種の役所でした。
倉賀野には三ヶ所の問屋場があり、各月の上旬は中町、中旬は上町、下旬は下町の各問屋場が十日間ずつ努めました。
「上町の問屋場は、ここ須賀長の前に設けられ、毎月中旬の十日間、毎日問屋一人、年寄一人、帳付一人、書役二人、馬差一人以下計二十人ほどが勤務していました。

 

高札場の後ろの伝説「樅の木」の由来                     1855年(安政2)、大火災により倉賀野は焼野原。百姓九右衛門が火元だとして「九右衛門火事」と呼ぶ。この大火の中ポツンと焼け残った旧家がありました。この旧家に大天狗が現れ、庭の楓の木からモミの木に飛び移り、屋根の上におり、じっと法文を唱えたといいます。大天狗を目撃した人は「古峯様」が助けてくれたに違いないと思ったそうです。

 

 

須賀庄兵衛脇本陣跡

                                               

脇本陣跡碑

 

 

向かい側に須賀喜太郎脇本陣跡 

                               

脇本陣跡碑         

 

「倉賀野駅入口」信号交差点に

倉賀野仲町山車倉があります。そこに「中町御傳馬人馬継立場跡碑」があります

 

ここは中町問屋場跡です。 倉賀野宿は、問屋場が下町・中町・上町に1軒ずつ、計3軒もあって、それぞれ10日交代で問屋を務めていた。 『中山道分間延絵図』では問屋場は左側にありました。

 

ドラッグストアの駐車場に倉賀野宿本陣跡碑があります。

説明板によれば  「倉賀野宿本陣跡
倉賀野は江戸時代中山道の宿場として、公用の人馬・荷物の継立てと、公的旅行者への宿舎の提供が課せられていました。

本陣はその宿の最上級の旅宿で、大名・公家などが休息・宿泊する場でした。

倉賀野の本陣は一軒で、元和年間(一六一五~二三)から一貫して勅使河原家がその任に当たってきました。
往還(中山道)からやや奥まって北向きに建てられ、門構え、玄関・上段の間を備えた格式高い造りで、建坪は百坪(約330m)もある広大なものでした」

天保14年の記録では本陣1,脇本陣2,旅籠屋32軒でした。

 

同じ駐車場脇の郵便ポストの隣に擬宝珠が付いた中山道倉賀野宿碑男女双体道祖神、常夜灯があります。

 

すぐ先の仲町信号交差点を右折し300m程進んだ所に利根川の支流である烏川を利用した倉賀野河岸(かし、船着き場)があります。

倉賀野河岸は永禄4年(1561)、倉賀野宿の住人が舟問屋を開き、利根川舟運の拠点として栄えました。最盛期には76業者・150艘余りの舟が行き交い、米や生糸などを江戸へ、塩や海産物などを上り荷(帰りの船)として運びました。浅間山噴火の降灰で川が浅くなり衰退し始め、明治17年(1884)の高崎線開通でその役割を終えました

 

 

「中町」信号交差点から100m程先の左側に「太鼓橋」があります。

今は橋の下は道路になっています。

太鼓橋説明板によれば 「五貫堀に架かる太鼓橋は、その昔、現県道よりもかなり低いところにあり板橋であったため度々の大水で押し流されました。

享和三年(一八〇三)、当時としては珍しい石造りのアーチ橋に架け替えられました。
その石は、倉賀野宿の繁栄を陰で支えた飯盛女が名前を刻んで寄進した(その費用は200両)と伝えられ、現在、名の刻まれた石は倉賀野神社の境内に保管されています。
参勤交代の大名も日光例幣使も、そして、皇女和宮の行列も渡った太鼓橋です」

 

英泉の倉賀野宿の絵

 

中山道に戻り100m程進んだ先の左側に「倉賀野古商家おもてなし館」があります

 

大谷治三郎により創業された米屋「大黒屋」

昭和30年ころまでは営業していました。明治中期に建てられた母屋は土蔵造り店舗(見世蔵)の特徴がよく表れています。

平成27年より休憩施設として「おもてなし館」として開館しました。

 

明治36年創業の老舗和菓子店丁子堂房右衛門 を過ぎ下町西信号交差点の右に

「小栗上野介忠順と埋蔵金ゆかりの地」

この石碑はこの利根川を遡ってきた船が埋蔵金を倉賀野河岸に降ろしたことを示す石碑はてなマーク  都市伝説に因んで観光用に建てたものはてなマーク

 

50m程先の左側に

屋敷門脇に建つ皇太子殿下御降誕記念碑 

昭和43年に皇太子時代の天皇陛下がここを訪れたものです。

 

50m程先の右側に高崎都市景観賞を受賞した大山邸があります。非公開です。

昭和九年、陸軍特別大演習が開催される際、中山道の拡幅工事が行われ建て替えられ間取りは以前のままになっているそうです。

 

100m程先に

  倉賀野追分  中山道と、京都から日光東照宮へ向かう勅使(例幣使)が通る日光例幣使街道がここで分岐していました。

 

追分常夜灯

常夜灯は、1814年(文化11)建立。道標には「従是 右江戸道 左日光道」と刻まれています。「日光例幣使街道」との追分です。

常夜灯には寄進者の名が刻まれていますが、中には相撲関係者も多く、雷電為右衛門鬼面山与五衛門などの名が見られます。

また歌舞伎の松本幸四郎、市川団十郎などの名も見られるそうです。こうした歌舞伎役者や相撲関係者の名が刻まれるのは、倉賀野での興業が多かったからでしょう。

例幣使街道と倉賀野常夜燈説明板によれば、

「 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
 道しるべには「左日光道、右江戸道」とある。ここから日光例幣使街道は始まる。
 日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年  (1647)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。

 (高崎市・㈳高崎観光協会)」

 

道標に従いこのY字路(追分)を右に進みます。

焔魔堂

江戸時代には阿弥陀堂と呼ばれ、閻魔堂言われたのは明治時代からだそうです。閻魔大王は、地蔵菩薩の化身といわれ、信仰すれば地獄に落ちず救われると言われていました。

 

閻魔堂あたりまでが倉賀野宿です。ここから先は工場街です。

食肉加工・販売の会社

 

JR線の上を高架で通り、国道17号線「新柳瀬橋北」信号を直進し高圧線鉄塔が見えたら右に入ります。

 

「岩鼻町」信号交差点から北向子育観音への道が通行止めとなっていました。

 太陽が昇る東、そして陽の光が強く降り注ぐ南は、縁起の良い方角とされていますがこちらは北向きに建てられています。子育てに関する願い事を持つ人々から信仰を集めています。

 

「岩鼻町」信号を右折します。

烏川の柳瀬橋 時刻 7:52  通勤時間帯で橋の上は大渋滞

 

 

橋を渡り「中島(漆の内)」信号交差点を左折し県道178号線に入ります。  

500m程進むと住宅が点在する街道にセブンイレブン中島店があります。

この辺りで倉賀野の一里塚から4.4kmです。

 

400m程先に

道標があります。

この辺りで倉賀野の一里塚から1時間、距離4.8kmです。

この道標の近くに中島の一里塚があったのではと勝手に思っています。

江戸まで24里目の一里塚です。次の勝場の一里塚まで約1時間、距離4.5kmです

 

この先で土手に上がります。

利根川合流点より7kmの標識

 

100m程先の右土手下に三菱鉛筆の工場があります。

この辺りが一里塚跡という説もあります。

 

 

 お伊勢の森 この先の伊勢島神社の鎮守の森と云われています。          

 

関越道のトンネルをくぐり中山道に戻ります。

 

沢山の石塔群が祀られている「信迎庵」

1910年(明治43年)の大洪水で亡くなった方々の供養塔があります。この供養塔は、1926年(大正15年)に建立されたものです。

 

川端家住宅

川端家は養蚕から生糸貿易で成功を収めた豪農でした。川端家住宅は、江戸時代後期から昭和にかけて建てられた19棟の登録有形文化財(建造物)から構成されています。

 

 

伊勢島神社 

1909年(明治42年)に稲荷社に神明宮が合祀された神社です。もともと神明宮があった場所は「お伊勢の森」と呼ばれています。 

御祭神は天照皇大神(あまてらすごうたいじん)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、月読命(つきよみのみこと)です。                

中山道に点在していた庚申塔や道祖神、二十二夜塔などがまとめられています。

 

 

温井川 に架かる「弁天橋

 

広重の新町宿の絵

 

この辺りが新町宿の京側からの入口です。

温井川を渡った左側にスリーデーマーチ発祥の地碑があります。

スリーデーマーチは毎年、埼玉県東松山で開催されています。

この大会の初回と2回目がここで開催されました。

歩け歩け運動」はここから全国に広まりました。

 

向かい側の道下に「弁財天」

 

芭蕉の句碑(左)と道祖神(右)

掬(むすぶ より はや歯にひびく 泉かな

掬は「すくう」と読むそうです。公園内を探しましたが、泉はありません。

 

弁財天由来

 温井川の中の島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和48年に現状となったが、七福神中の女神であり音楽弁舌福徳財宝を司る神として信仰を集めている。
 社は天明3年(1783)5月に建立された石の祠で、本年は祭祀200年に当たるので、参道改修大鳥居を地区有志により奉納した。
 例祭は毎年春己の日に行う。
 境内には芭蕉の句碑があり、この島には清冽な清水が湧き出ていて、旅人の喉を潤したとの句である。
 昭和58年3月6日己の日

 

100程先に

 
新町宿小林本陣跡            

天保14年の記録では本陣2,脇本陣1,旅籠屋43軒でした。大きな宿場だったようです。説明板によれば

新町宿が宿場として最も栄えたのは、文化・文政期から天保期(1804~44年)にかけての頃です。小林本陣は久保本陣・三俣脇本陣と共に参勤交代の定宿でした。諸藩が届けた印鑑綴には、金沢藩や甲府藩などの印影が保存されています。

 延亭2年「1745」の「落合図」が保存され、当時の田畑や道筋が各々色分けて記されています。元禄4年(1691)の検地水帳には所有者と地割が詳しく記され、落合新町の様子を知ることが出来ます。

 

小林本陣の向い側にかつてあった久保本陣は今はありません。

 

すぐ先に

宝勝寺入口  真言宗豊山派の寺院 

 

史跡旅館「高瀬屋」跡

小林一茶が常夜灯の寄付を強要されたという旅籠です。

説明板によれば、「小林一茶宿泊の高瀬屋跡

 江戸後期の俳人・小林一茶は、たびたび江戸と信濃を往来していました。『七番日記』の文化七年(1810)5月11日に次の記述があります。

『前日の雨で烏川が川留となり、やむを得ず高瀬屋五兵衛に泊まる。旅の疲れでぐっすり寝込んでいると、夜の五更(午前四時)頃に起こす者があり、目を覚ますと専福寺の提灯を持った数人の者がいた。新町宿東端の神流川岸にあった木造の灯籠が度々の洪水で流失するので、石造りの灯籠を建てるため寄附をお願いされる。懐が乏しいので寄附は免じてくれと一度は断ったが、少ない所持銭より十二文を寄進することになった」

 

「新町駅入口」信号交差点を右折して駅に向かいます。 

 JR新町駅    時刻 9:30

 

JR新町駅    時刻 9:30

 

新町発9:40 ⇒ 新宿着11:26・・・・・・・・・バスタ新宿発15:50 ⇒ 中津川駅着20:40で帰ります。

暑くなる前に歩くつもりでしたが、やっぱりこの時期は暑い。青いTシャツにしみた汗が乾き白く塩になっています。前日の夜行バスで眠れなかった事もあり、今日は少しバテマシタ。

 

次は 「改訂版 中山道歩き 新町宿から熊谷宿まで」です。