令和4年(2022年)3月20日
歩いた距離:約17km
今回は、鵜沼宿はずれの道標のある交差点から出発します。
鵜沼宿は天保14年の記録では本陣1,脇本陣1、旅籠屋25軒でした。
交差点を渡った左角に鵜沼宿碑と道路改修記念碑が建っています。
交差点を直進します。
ゆるやかな坂道を上り始めると右上に常夜燈があり、その上に
狛犬、さらに上に小さな祠などが祀られています。
100m先の右側に「木曽川泥流堆積物」の説明板があります。
説明板によれば 「 木曽川泥流堆積物とは、75万年前から活動している御嶽山が、5万年前に大崩落を起こし、土砂が山麓の東側から大滝川、木曽川により約200㎞流れ下り、各務原台地までたどり着いた溶岩礫を含む泥のことをいいます。 泥流の全体積は10億㎥と推定され、その殆どが流れ下って流出してしまいましたが、この地に堆積物の一部が露出しています。他にも各務原台地周辺で同様の泥流を確認することができます。 坊の塚古墳の下部、鵜沼宿脇本陣の庭園、伊木山の北西部などに認められます。最近では、研究者らによって更に調査が行われ、その範囲が徐々に明らかにされようとしています」
草でよく分かりませんでした。
そのすぐ先に
西の見附跡があります。 説明板によれば
「見附とは、宿場の入口と出口に備えた簡易な防御施設のことです。台状に土手を築いたり、周りを石垣で囲んだり、盛土をして木の柵を立てたりしました。鵜沼宿には、東の見附と西の見附がありました。 鵜沼宿の見附は、江戸時代の 「鵜沼宿家並絵図」(中島家文書) に描かれています。家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの看板の辺りと考えられます。具体的な構造は分かっていません。 江戸時代の参勤交代では、西から鵜沼宿へ入るときは、途中、人家の少ない道を通ってきますので列が乱れており、このすぐ西にある空安寺あたりで隊列を立て直し、「したに~、したに~」 と大声を上げて、格好を付けながら宿内に入っていったと思われます。鵜沼宿の人々は、おそらく下座をして迎えたのでしょう。
階段の上は農業用のため池です。
坂道の先に八木山弘法堂があります。 お堂の中には弘法大師像があります。
境内には地蔵菩薩、三十三観音像、供養塔などの石像、石塔があります。
弘法堂の先に森があります。衣裳塚古墳です。
説明板によれば 「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形を留めています。また、墳丘表面には葺石や埴輪が認められません。
衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります。 衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定はできませんが、およそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築造されたと考えられます。
(各務原市教育委員会)」
衣裳塚古墳の隣に
空安寺 真宗大谷派のお寺です。
中門 扁額は「開創五百年光雲山」
欅造りの本堂
鐘楼、青銅製燈籠、手水舎
境内から見た中門
日露戦役忠魂碑
空安寺から500~600mぐらい先の信号交差点の右角に津島神社があります。
津島神社
皆楽座
皆楽座は津島神社(各務原市鵜沼羽場町)の境内にあります。芝居(歌舞伎)小屋ですが、津島神社の拝殿を兼ねています。現在はサークル活動、ミニコンサートなどのイベント会場として利用されているそうです。
1882年(明治15年)頃 完成。1891年(明治24年) 濃尾地震で倒壊。1898年(明治31年) 倒壊した資材を再利用し再建しました。
津島神社から500m程で東消防署を過ぎ国道21号に合流しました。
しばらく歩き、「山の前町」信号を過ぎて左の側道に入ります。
山の前の一里塚跡 江戸より102里目の一里塚
工場と工場に挟まれた空き地にあります。
山の前の一里塚跡には、天保4年(1833)の銘が刻まれた播隆上人名号碑が立っています。 この石碑は、濃尾地震と第二次世界大戦時の空襲によって損傷しており、南無阿弥陀仏の6文字のうち「南無」と「陀仏」の4字のみが残るのみです。
ここが本当に一里塚跡なのか? 一里塚跡をうかがわせる物は何もありません。
右側にJR各務原駅が見えます。 コンビニのような外観でした。
三ツ池町交差点に神明神社があります。
右側歩道を歩いていたので地下道を通り左側に出ると、目の前の神明神社の社標があります。
地蔵堂があります。
お花が供えられていて、地元の人達が大切にお守りされているようです
右側に大きな工場が見えて来ました。
川崎重工業岐阜工場です。
練習機、哨戒機、輸送機、戦闘機、ヘリコプター、飛しょう体、宇宙関連機器、各種シミュレータの生産を行っています。
側道の下を通り橋脚に貼られた「中山道のステッカー」に従い進みます。
跨線橋の階段を上り、下ります。
右下に見えるのは川崎重工内の神社
この先の「三柿野町」信号を過ぎ右側の各務原市街に入ります。
竹林寺 真宗大谷派のお寺です。
向かい側に六軒一里塚跡
この辺りは6軒の茶屋が並んでいた立場でした。江戸より103番目の一里塚。
竹林寺から300m程の右側に神明神社
隣に馬頭観音
20分程進みました。
各務原市民公園
もとは岐阜大学の敷地で、広大な敷地に芝生が敷き詰められています。
樹木の種類も多く子供向けの遊具、アスレチック、図書館などがあります。
桜の名所(百十郎桜)としても知られているそうです。
新境川の那加橋を渡ります。
西那加公民館の隣にあります。西那加稲荷神社
5差路の「新加納町」信号交差点 「中山道 間の宿 新加納」道標があります。
「焼肉 大翔」の前を右に進みます。
鵜沼宿から加納宿までは4里19町(約17km)と長いため、新加納村に立場が設けられました。
日吉神社参道入口
新加納一里塚跡 少し離れてもう一基あります。
新加納一里塚跡 江戸より103番目の一里塚。
中山道間の宿新加納案内によれば
間の宿新加納
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、江戸と京都を結ぶ中山道(536km)の整備を行った。 新加納は、東の鵜沼宿、西の加納宿の距離が17kmと長いため 「立場」 と呼ばれる小休所が設けられ、人足や荷馬が休息をとった。また茶屋が設けられ旅人が休息し、「間の宿新加納」 としても栄えた。皇女和宮の降嫁の際には、新加納の梅村屋を休息所とした。
旗本坪内陣屋
新加納周辺を治めていた坪内氏の初代は、松倉城(各務原市川島松倉町)に拠点を置き、織田家に仕え蜂須賀小六ら川並衆をまとめていた。4代利定は、関ヶ原の戦いで徳川隊の鉄砲隊を率いて活躍。これにより、6530石を治める旗本となり、拠点を松倉城から新加納陣屋に移した。陣屋は、巨大な濠(幅5.2m以上、深さ約3m)と土塁(約3m)に囲まれ、強固な防衛施設として建設された。(現在は住宅地)旗本坪内氏は、利定以降11代定益まで続き、明治元年領地を奉還した。
日吉神社
拝殿前には、駒蛙が奉納されており全国的にも大変珍しい。中山道沿いにある定書には、蛙の捕獲禁止の条が書かれている。蛙にまつわる伝承があり、毎年4月に 「げえろ祭り」 が行われている。
「げえろ祭り」 むかし、日吉神社のひょうたん池に、何時の頃からか大きな蛙が住み着き、村人にいたずらをするようになった。村の人は 「蛙は腹が減って悪さをするのだろう」 と、池にごちそうを投げ入れた。 すると、蛙のいたずらがなくなっただけでなく、薬を届けたり、日照りの日には雨まで降らせてくれた。以来、福蛙として村人に親しまれるようになった。現在、池は埋められているが、毎年4月にげえろ祭りが行われている。
新加納一里塚跡のY字路を左に進みます。
高札場跡
中山道新加納立場
中山道鵜沼宿と加納宿のほぼ中間に位置し、二つの宿場間が四里十町(約17km)と長いため、中山道の「立場(旅人の一時休憩施設)」として栄えました。
新加納で中山道は枡形に折れ、高礼場(藩の公示場所)や旗本坪内家の陣屋(城を持たない旗本の屋敷)、規模の大きな茶屋などが建ち、宿場的な趣をもつことから、新加納立場は「間宿」とも呼ばれて賑わいました。文久元年(1861 年)の皇女和宮の降嫁の際には休息所とされました。
道標に従い枡形を左に曲がります。
善休寺
真宗大谷派の遇光山善休寺
貞永元年(1232)親鸞聖人が上洛の途中立ち寄ったことから浄土真宗に改め、尾張徳川家が各務野にて狩の折に宿所としたことから、特別に 「葵の紋」 を与えられた。
濃川を渡った所にあります。道標 「中山道 間の宿 新加納」
東海北陸自動車道の高架下を通り境川の高田橋を渡ります。
ここから20分ほどで手力雄神社参道入口の枡形に着きます。
ここは手力雄神社二の鳥居。
信長が戦勝祈願したことから、今では、勝運・開運の神としてスポーツ関係等各種団体の勝運・必勝祈願の参拝者で賑わいます。
枡形を右に曲がります。
枡形の先右側に浄慶寺があります。
当初は天台宗の寺だったが、浄土真宗に宗派換えをしました。
浄慶寺から500m程先右側に伊豆神社
オオヤマツミの娘で、コノハナノサクヤビメの姉であるイワナガヒメを祀る全国でも数少ない神社。
誓賢寺 浄土真宗本願寺派のお寺。
長森細畑」交差点を横断します。 遠くに岐阜城が見えました。
交差点を過ぎると、中山道らしさを感じる古い大きな家がつづきます。
一里塚があります。榎が植えられています。
細畑の一里塚 江戸より104番目の一里塚。
両塚とも残っています。
説明板によれば 「中山道は江戸時代の五街道の一つで、江戸と京都を結んでいた。
一里塚は一里(約3.9km)ごとに設置され、旅人に安らぎを与えると共に道程の目安となるように置かれたものである。 街道の両側に5間(約9.1m)四方に土を盛って築かれ、多くはその上にエノキが植えられた。
細畑の一里塚は慶長9年(1604)、中山道の他の一里塚とともにつくられた。東方の鵜沼宿から3里14町(約13.3km)西方の加納宿まで30町(約3.3km㎞)の位置にあり、中山道の風情を今に伝えている。
一里塚から150m程先で道が二又に分かれます中央に延命地蔵堂と道標があります。
道標には「左 伊勢名古屋ちかみち 右 西京道 加納宿 右 木曽路 せき 上有知(こうづち) 郡上道」と刻まれています。
右の道を進みます。
左側に八幡神社
東海道本線の下を通ります。
名鉄茶所(ちゃじょ)駅横の踏切を渡ります。
駅のすぐ先右側に道標があります。
「御鮨街道 右」と刻まれています。
※御鮨街道→長良川で獲れた鮎を熟れ寿司にして江戸に献上していた街道。
次の四つ角を右折します。
新荒田川の橋の手前にある加納宿の説明石板
説明板によれば
「あなたが立っている道は、江戸時代の五街道の一つ、中山道です。
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長6年(1601)3月、10万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備したことに始まります。 その後、寛永11年(1634)には中山道の宿場に定められました。城下町であり宿場町でもある加納宿は、21の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。
宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)と交わっており、交通の要になっていました。
橋を渡った先の左角にある道標
「左 西京 右 岐阜 谷汲」と刻まれています。明治時代の道標と思います。
ここを左折します。
右側に安良町秋葉神社があります。
信号交差点を直進し2車線道路に合流する右角に中山道加納宿東番所跡があります。
中山道(鮨街道)は2車線道路には合流せず左折し突き当りを右折します。
近くに名鉄加納駅があるので本日はここで終了します。
中山道歩き 改定版 加納宿から赤坂宿に続く