令和4年(2022年)3月24日
歩いた距離 21km
中津川駅からJR岐阜駅・名鉄岐阜駅から名鉄加納駅に移動しました。
前回終了した加納宿入口の東番所跡から出発します。
東番所跡を左折(枡形)し善徳寺の角(枡形)を右に曲がります。
道標 「左 河渡宿 右 鵜沼宿」」
善徳寺から直進し大通り(加納上本町通り)に出るので、大通りを横切ってY字路を左に進みます。
ここに来るまでに新町秋葉神社、加納宿問屋場がありましたが画像が行方不明?
薬局の前に出ます。
道標 「左 中山道 左 西京道 右 東京道」
説明板によれば
「中山道の道標 この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ツ辻東南部隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果してきました。
最初は「左中山道 」「右ぎふ道 」の道標でしたが、明治初年に「左西京道 」
「右東京道 」の標識が追加されました。
この四ツ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かっては交通の要衝でありました。
昭和五十九年三月 中山道加納宿文化保存会」
ここを左折(枡形)します。
広井橋を渡った左にありました。加納宿高札場跡
説明板によれば
「ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところです。
高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)を知らせるために人通りの多い通りの辻や市場などに立てた板で作った立札のことです。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。
この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約3.5m、幅6.5m、横2.2mもあるものでした。
正徳元年(1711)に 「親子兄弟の札」 が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚もの高札が掲げられました。 (岐阜市教育委員会)」
加納城大手門跡と道標 「加納城 500m 直進」「右 河渡宿」
関ケ原合戦の結果、中山道の重要性が高まりました。それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子、三法師)が高野山に追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から西国に備える重要な地として中山道近くに加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城しました。
築城には解体した岐阜城の建材が使われました。
今は、加納公園、小中学校になっています。
江戸時代の加納宿は下級武士の内職として始まった和傘が有名でした。
長良川の鮎も有名でした。この鮎を加工した鮎鮨は江戸の家康御用達品でした。
この交差点を右折します。
広重の加納宿 遠くにお城が描かれています。
「中山道加納宿まちづくり交流センター」の前を通り小さな4差路の先に「うなぎ屋」さんがあります。
二文字屋 創業1620年のうなぎ屋さん。かつては御勅使、大名高家の御飛脚使宿でした。
説明板によれば 「【左甚五郎とウサギの欄間】
昔、当店のあたりは中山道加納宿 でございました。 当店の初代 上野長七郎がこの場所で旅籠ニ文字屋を始めましたのが元和六年今から三百七十五年程前のことでございます。
月夜に川原で餅をつくウサギはご存知左甚五郎 がニ文字屋 に泊り彫ってくれた欄間でございますが、火事のとき欄間の川原から水が吹き出し一瞬のうちに火を消したと伝えられます。 十二代目 当主 」
少し先の右側民家の庭先に
加納宿当分本陣跡、明治天皇御小休所跡
当分本陣とは本陣の別棟で当分の間本陣として定められた臨時の本陣です。
江戸時代に参勤交代の時、大名が宿泊しました。
直進したいのですが横断歩道が無いため、左の信号のある交差点まで迂回します。
標柱 「中山道加納宿本陣跡」「皇女和宮御仮泊所跡」と歌碑
大湫宿本陣跡にあった歌と同じです。
説明板によれば
仁孝天皇の皇女和宮親子(ちかこ)内親王は将軍徳川家茂との結婚のため、文久元年
(1861年)10月20日京都桂御所を出発、中山道を通行して江戸に向かわれた。
同年10月26日当地加納本陣の松波藤右衛門宅(現在地)に宿泊された。その時、
自分の心情をを詠まれたという歌が伝えられている。
遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり
この歌は「宮内庁書陵部所蔵の静寛院御詠草」に収められており和宮の直筆である。
本年は中山道宿駅制度が設置されて400年記念に当たり、幕末の日本の国難を救ったと言われる公武合体のため、結婚された和宮の遺徳を偲んで、本歌碑を建立する。
すぐ先に
中山道加納宿脇本陣跡
延享2年(1745)より森孫作が務めていました。
脇本陣跡の隣の4差路に
加納天満宮参道
天満宮のホームページによれば、慶長5年(1600年)関ケ原戦後、徳川家康は凱旋の折、岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を構築しました。その際に天満宮が城廓内に入ったので、新しい加納城鎮護の神として、1601年(慶長6年)これを広江川(清水川)を背にした閑静な現在地に遷座し奉った。これが加納天満宮の起源です。
天満宮には寄らずに中山道を進みます。
天満宮を過ぎてすぐ右側民家の庭先に
中山道加納宿脇本陣跡あります。 代々小林家が務めていた。
国道187号との交差点
ここも横断歩道がないので信号のある所まで迂回します。
秋葉神社 秋葉神社は防火の神様です。
また秋葉神社があります。
よほど火事が多かったと思います。秋葉様は防火の神様です。
300m程先にも秋葉神社があります。
境内に中山道加納宿西番所跡があります。
阿賀多神社あります。 祭神は仁徳天皇。
2車線道路と合流する手前の左側に
三里の一里塚跡があります。 江戸より106里目の一里塚
説明板によれば
「中山道は江戸・日本橋から京都・三条大橋まで69次135里余り。旅人の便宜の為に一里(約4km)毎に一里塚が設けられました。 この三里一里塚跡は、江戸日本橋から数えて106番目の一里塚が設けられた跡地になります。
皇女和宮親子内親王歌碑 遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
この和歌は和宮親子内親王が、徳川14代将軍家茂へ嫁ぐため、京都から中山道を江戸に向かう途中で詠まれた歌で、旧中山道沿いの加納本町にある石碑にこの歌が刻まれています。 (三里まちづくり協議会)」
この先の「清本町2」信号交差点を右折して東海道線の高架下を通ります。
次に「清本町10」の6差路を直進し、「鹿島町8西」交差点を横断した右角に
多羅野八幡神社があります。(6差路から約1km)
祭神は応神天皇(八幡神社)、菅原道真(天満神社)、火産霊之神(秋葉神社)です。
3ヶ所に祀られていた八幡神社・天満神社・秋葉神社を大正9年に合祀しました。
この辺りに「だらり餅」という名物を売っている茶店があったそうです。
周辺には松並木があり旅人の休憩場所だったそうです。
すぐ先の
鏡島(かがしま)大橋南交差点を直進します。
10分程進みT字路を左折します。(右角に論田川改修記念碑があります)
T字路から10分ほどで右側に神明社(神明神社)の鳥居がみえます。
神明社は、伊勢神宮を総本社とし、天照大神を主祭神として祀る神社のことです。
神明社から5分程です。 北野神社
主祭神は学問の神様として有名な菅原道真です。
堤防道路に出る手前に
「中山道と鏡島の今昔」説明板があります。
「江戸時代の公街道の一つ中山道 は、慶長七年(1602)に宿駅伝馬の制が定められ、順次整備された。
そのルートとしての赤坂・呂久・美江寺・河渡・鏡島・加納を結ぶ道は、慶長五年11月関ヶ原合戦の勝利者徳川家康の凱旋道であり、中山道と公称される以前から東西交通路となっていた。
中山道が村内を通ることになった鏡島 の地は、長良川舟運の上り荷船の湊があり、河川交通と陸上交通とを結ぶ要の地としてにぎわい、町並が次第に形成された。
村の概況は享保十四年(1729)の鏡島村差出帳によれば、加納藩領村高1442石余・乙津寺領55石余、家数297軒・人数1345人・馬数730疋(湊駄賃馬)・渡船(お紅の渡し)2艘であった。
天保十四年(1843)の鏡島村作間商売小前等書上帳によれば、米搗売・甕茶碗類売・·薪炭売・·綿打・染め物・酒売・粕干鰯売・塩油売などの商店が三五軒余あり、街道を通る人たちに向けた草履・草鞋・菓子売なども兼ねていた。丸山 幸太郎記」
堤防道路に出ます。
河渡橋東 空が広い! 遠くに伊吹山が見えます。
長良川
長良川と言えば鵜飼いです。
鵜飼は鵜匠が鵜をあやつり魚を捕える漁法で、その歴史は奈良時代まで遡ります。織田信長は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保護しました。徳川家康も鵜飼を見物、保護し、岐阜の鮎鮨を江戸まで運ばせました(御鮨街道) 松尾芭蕉は岐阜を訪れた際、鵜飼を見物し「おもうしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という句を残しました。チャップリンは2度も鵜飼見物に訪れています。
英泉の河渡宿
河渡橋を渡り左下に見える河渡公園の方に曲がります。
河渡公園を右に見ながら住宅街をまっすぐ進みます。
馬頭観世音菩薩の石柱と観音堂があります。
説明板によれば「観音堂縁起 正徳より天保年間にかけて徳川幕府太平の記録に中山道69次之内第54河渡宿大概帳に、本陣水谷治兵衛、問屋久右衛門・八兵衛、庄屋水谷徳兵衛とあり、本陣1軒、旅籠屋大4軒、中9軒、小11軒あり。酒屋・茶屋・豆腐屋・煙草屋など建ち並び、西国諸大名の江戸幕府への参勤交代時には、御転馬役・歩行役の命令あり。
東へ加納約1里半、西へ美江寺1里7丁、この荷駄の送迎、旅人の往来・宿泊に賑わい、この荷駄役の人達が天保13年(1842)に銭100文づつ寄進し、道中と家内安全、五穀豊穣祈願し愛染明王を奉祀す。
地元では馬頭観音さんと仰ぎ、猿尾通称お幕場に6間4面の堂宇を建立。毎年9月17日を祭日と定め、祖先は盛大に讃仰護持し来れり。その後、明治24年(1891)10月28日午前6時37分濃飛大震災に倒壊、同29年9月大洪水に本堂流失す。堤外中段渡船場右側に再建。昭和20年(1952)7月9日大空襲に戦禍を免る。同22年4月新堤築造により堤内に奉遷安置。同56年本川拡幅に伴う遷座となる。
島川東洋子氏御一家の篤志を受け、現聖地373坪に奉遷新築す。町民の総意と協力により工事費金1165万7千円にて完成」
中山道河渡宿石灯籠左に地藏堂
この辺りに河渡の渡しがあったそうです。
中山道河渡の一里塚跡 江戸より135里目の一里塚
説明板によれば
「江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され、69の宿場が設けられた。河渡宿は江戸から106里27町、55番目の宿場であった。
加納宿へ1里半、美江寺宿へは1里6町を隔て、長良川の渡しを東に臨み、大名行列や旅人が往来・宿泊して大いに繁栄した。
ここはかつて一里塚のあった場所である。塚は道の両側に各々あり榎が植えらて、塚の大きさは3間4方であった。 (中山道河渡宿文化保存会)」
脇本陣はありませんでした。
奥のお社は「松下神社」
松下神社由来碑によれば 「中山道河渡宿は、東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川があり、土地も低く、白雨雪舞の折には泥沼となった。特に文化12年(1815)6月には、未曽有の洪水に見舞われ、このままでは宿も絶えるのではと、時の代官松下内匠が、宿中を5尺あまり土盛をして、その上に家屋を改築し、文化15年に工事を完成させた。 この功績に村人は、松下神社を建立し、碑を刻んで感謝をした。 碑は太平洋戦争の戦災で焼こわれ、今は一部しか残っていない。
(中山道河渡宿文化保存会)」
「河渡2」の信号を過ぎると慶応橋に着きます。
この辺りが河渡宿の外れになります。
橋を渡り進むと道の左右には、工場や運送会社などが並びます。
10分程進み「生津」の信号を過ぎると道は右カーブします。
さらに10分ほどで「地蔵尊」や「神仏敬信」「忠君愛国」の石碑のある交差点にでます
ここを左に曲がります。
糸貫川に架かる糸貫橋を渡ります。
本田地蔵堂(延命地蔵尊)
糸貫橋を渡ると左側にあります。
このお地蔵様は高さ90cmの石仏座像で、文化6年(1809)の建立です。
中川橋を渡った左に旧家(庄屋か名主の家?)
こちらの向かい側に本田代官所跡があります。
本田(ほんでん)代官所跡
説明板によれば 「江戸時代の一時期、この辺りに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。 しかし、古文書等から推測すると、寛文10年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任ぜられ、この地に陣屋を設けたと思われる。 本田代官は後に川崎平衛門完孝(11年間在任)という名代官を迎えるなど、この地の人々に大きくかかわった。 明和7年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。今も 「代官跡」 「御屋敷跡」 「牢屋敷跡」 という地所が残っている。 (瑞穂市教育委員会)
「本田西町」信号を越え小さな用水を越えた所に「高札場跡」の説明板があったそうですが気が付かずに通過しました。
沢山のビニールハウスの中はミニサボテンがぎっしり。
樽見鉄道の踏切
この踏切を越えた辺りが美江寺宿の入口です。
美江寺宿に入ります。
「美江寺大門裏」信号を過ぎた一里塚跡の標柱がありました。
美江神社境内に
中山道美江寺宿跡石碑
美江寺宿高札場跡 江戸時代には大鳥居脇にあたそうですが今は境内に復元されています。
高札には主に、忠孝のすすめ・キリシタン禁止、毒薬の販売禁止、火付けの禁止などの決まりや処罰について、分かりやすく書かれていました。
美江神社
かつてはここに天台宗寺院の美江寺があったそうです。
美江寺観音 美江神社の境内にあります。
本尊は十一面観音 永禄10年(1567)織田信長の命により建立されたそうです
秋葉神社 美江神社の境内にあります。
美江寺信号交差点を左折します。
美江寺宿本陣跡
美江寺は天正17年(1589)豊臣秀吉の下知により問屋場が設けられ、荷物中継ぎの業務に当たっていたが、江戸時代になり中山道が整備され宿場制による駅伝業務を担当する宿場となった。本陣は宿場開設より32年遅れて建設され、問屋山本金兵衛が管理を兼ねました。
墨俣道分岐道標
「右 大垣赤坂ニ至ル」「左 スノマタニ至ル」
ここを右に曲がります。
新月橋の手前右側に美江寺千手観世音堂があります。
美江寺一帯は度重なる水害に悩まされていました。
そこで、観音菩薩のご利益で守ってもらおうと719年に伊賀国名張から十一面観音を勧進し美江寺を立てたとされています。
しかし、戦国時代に斎藤道三が稲葉山城を築いた時、ご本尊を岐阜に移してしまったそうです。
広重の描いた美江寺宿の絵の場所です。
広重の美江寺宿
新月橋を渡り左に曲がります。
右側に神明神社があります。
長護寺川を渡ります。
巣南中学校前の横断歩道を中山道案内表示に従い右に渡ります。
すぐに案内表示に従い左に進みます。
田畑の中の一本道を進みここに出ます。
左折して小さいトンネルをくぐり、表示通り右折して側道を上り橋の上に出ます。
鷺田橋(さぎたばし)
揖斐川
木曾三川(濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川)の一つ。
橋を渡り歩道橋で左に下ります。
良縁寺 白鳥神社
真宗大谷派のお寺です。 日本武尊の伝説に因む白鳥信仰の神社です。
蓮生寺 小簾紅園(おずこうえん)の地蔵堂
小簾紅園(おずこうえん)の和宮御遺蹟碑と呂久の渡し呂久渡船場跡説明
説明板によれば
「天正時代織田信長が岐阜に在城し、天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から美濃と京都の交通が頻繁となり、赤坂-呂久-美江寺-川渡-加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初期に整備されて五街道の一つ中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、13を数え、中でも 船年寄馬渕家には、船頭8人、助務7人が置かれていた。
その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、大水では180mに及んだと云われている。
文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道をご降嫁の折、この呂久川を渡られ、その折、船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、これに感懐を託されて 「落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」 と詠まれた。
後に、和宮様のご遺徳をしのび、昭和4年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした小簾紅園が建設され、昭和45年(1970)には巣南町指定の史蹟となった。
この地呂久の渡船場は、大正14年(1925)木曽川上流改修の揖斐川新川付替工事完成により、この地より東へ移り、現在の揖斐川水流となり、長い歴史を閉じることとなった。 昭和45年(1970)呂久渡船場碑建立。 (瑞穂市)」
小簾紅園(おずこうえん)
昭和4年4月に完成しました。
地藏堂
新橋(旧呂久橋) 平野井川を渡り右に曲がり土手道を上ります。
土手の途中に道標 「左 木曽路」「右 すのまた宿へ」
土手道を上り右の道を進みます。平野井川の向こうにある一里塚跡に向かいます。
柳瀬橋を渡り直ぐ右折します。右側に神明宮があります。
その境内に
柳瀬の一里塚跡の説明板があります。 江戸より109里目の一里塚
説明板によれば
中山道は江戸幕府成立以後、東海道、日光街道、奥州街道と並んで五街道の一つに数えられていました。
日本の中央部を走るこの中山道は、垂井から大垣、墨俣を経て名古屋へ向かう美濃路、関ヶ原から長浜に至る北国街道、関ヶ原から牧田、多良、時を経て桑名へ出る伊勢街道など、たくさんの脇街道によって表日本と裏日本とを結んでおり、政治上、軍事上からも重要性は計り知れないものがありました。又、茶壷道中日光例幣使の他、特に江戸幕府第14代徳川家茂に降嫁した皇女和宮の下向の際、使用された道でもあります。
一方、江戸日本橋を起点に36町(約4㎞)ごとに築かれたのが一里塚で、柳瀬地内の一里塚は、現平野井川、柳瀬橋附近にあり、旅ゆく人の里程標となっていました。
中山道に戻り左の道を進みます。
右の広い道へ進みます。
左の道を進みます。
右に上ります。 上ります。
右の細い道へ入ります。 県道の下を通ります。
道標 「中山道 三回り半」と彫られています。
左折します。
素盛鳴社(すさのうしゃ)祇園信仰の神社。
祇園信仰は平安時代に疫病が流行した際、疫病をもたらす神(行疫神)を鎮める御霊信仰(ごりょうしんこう)を背景に始まりました。
総本社は京都の八坂神社。祭神は須佐之男命(スサノウノミコト)です
長徳寺 真宗大谷派のお寺
聖観世音菩薩像 交差点を直進します。
道標「中山道七回り半」と彫られています。東海環状自動車道の下を通ります。
西浦橋を渡ります。
横断します。
右に入ります。
「中沢」信号の交差点を左折します。
右に曲がりしばらくして左に曲がります。
近鉄養老線 東赤坂駅が右に見えて来ます。
東赤坂駅
本日はここまでとします。
中山道歩き 改定版 赤坂宿から柏原宿①に続く