「中山道歩き 改訂版 高崎宿から新町宿まで」の続きです。

令和4年9月26日

歩いた時間  11時間30分       歩数  59,699歩

 

  

 23時31分高速バスで出発。              新宿に5時5分着   

新町駅に7時17分着

 

前日(9月25日)中津川駅を23時31分発パスタ新宿行きで翌日5時5分着。

夜行バスで寝ながら行こうと思っていましたが殆ど眠れませんでした。

新宿から池袋で乗り換え赤羽でまた乗り換えて新町に着いたのが7時17分。

熊谷宿までは32km程。ふだんウォーキングでの速度が時速約4.5kmだから史跡、名所を見学し写真を撮ったりしながら歩いても(時速3km)十分に可能な距離と思っていました。         

 

「新町駅入口」信号交差点を右折して中山道歩きスタートです。

 

左側に明治天皇新町行在所があります。 公園になっています。

 

明治天皇は、明治11年(1878)8月から11月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。 昭和55年1月に新町の史跡文化財として指定を受けました。

 

すぐ先の右側、洋菓子屋さんの駐車場に高札場跡の説明板があります。

「高札場は、江戸幕府や諸藩が庶民を統治するための法令・禁令などを墨書きし、町辻・橋詰・街道の追分・渡船場なだ、人目に付きやすい各地の主要な場所に設けました。

 

新町郵便局を過ぎると左側に

浄泉寺

安土桃山時代の天正2年(1574)に北条阿波守増信が浄心房深誉林応上人を招いて開山したと伝わる浄土宗の寺院です

境内の大銀杏は推定樹齢400年の大木で、昭和55年(1980)に高崎市指定天然記念物に指定されました。

 

浄泉寺を過ぎるとすぐに

専福寺  真言宗智山派の寺院。 

創建は江戸時代初期の万治3年(1660)に仙雅房賢宗が開山したと伝えられています。境内には、推定樹齢300年の"くす"や"かや"、江戸時代の年号の銘がある庚申塔や馬頭観音、供養塔があり歴史の古さを感じます。

 

すぐ隣に諏訪神社

 

信号交差点の手前左側に

 

八坂神社  武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に入る玄関口に位置し、疫病の侵入や蔓延を防ぎ、長寿を祈願する神社として建立されたと伝えられています。               

 

境内に芭蕉の句碑があります。

傘(からかさ)に 押し分け見たる 柳かな

当時、近くに名物茶屋があり、そこの柳の大木近くにこの句碑があったそうです。

今は句碑の後ろに欅の大木とトカゲ像(コモドオオトカゲ?)が乗っている滑り台があります。

 

八坂神社を過ぎ国道17号線に合流します。

合流する手前の緑地に見通し灯籠(レプリカ)  小林一茶が「高瀬屋」で夜中に常夜灯を建立するからと寄付を強要されたという灯籠。その時の句が「手枕や 小言いうても 来る蛍」  江戸方面からはここが新町宿の入口です。

道標には「従是 左 江戸 二十四里  右 碓氷峠 十一里」と刻まれています。

説明板には「見通し灯籠(常夜灯) 江戸時代の末期、神流川が度々洪水を起こし、往還が流され瀬違いが出来て渡船場も変わり、白昼でも道筋が分からなくなり、多くの人が道に迷いました。そこで、灯籠を建て夜中の目印としていましたが、寛保年中(1741~43)の大洪水で流失してしまいました。助郷の人々や旅人などが夜中の通行に困ったため、文化5年(1808)、専福寺住職賢顕と宿役人が石灯籠を建てようと発願。旅人からも寄付を募り、常夜灯が石造りで再建されたのは同12年のことです」

国道17号線に合流しました。

 

午前8時でした。国旗掲揚が始まりました。

 

陸上自衛隊新町駐屯所を過ぎると

 

本庄宿側の常夜灯のモチーフ       見通灯籠のいわれ

一茶が寄付を強要されたという灯籠は今は無くモチーフが設置されています。

本庄宿側の常夜灯は豪商が寄贈したそうです。

高崎河川国道事務所HPによれば

神流川の渡しは、江戸時代の中山道・本庄宿と新町宿間にあった渡し場。

かつては川越人足がいたが、本庄宿の名主・戸谷半兵衛門が自費により土橋を架け夜道を往来する旅人の道標として「見透かし灯籠」を建立した。灯籠はその後洪水で倒壊したが村人と大光寺の協力により再建(現在は大光寺で見られる)。

また現在の神流橋川のたもとには1/2サイズの見透し灯籠(モニュメント)が設置されている。

かつての神流川渡しの名残を見ることができる」
 

「神流川合戦碑」が有るらしいのですが、新しい橋の工事中でどこにあるか分かりません。

英泉の本庄宿の絵

 

天正10年6月2日(1582年6月21日)京都本能寺にて織田信長が横死すると北条方が勢力拡大を図り、厩橋(うまやはし)の滝川一益と戦いとなり一益軍は

2700名を失いました。

 

 

「勅使河原(北)」信号交差点を斜め左へ進みます。

 

 
すぐ先の左側に勝場一里塚跡碑 (〇の所)  江戸まで23里目の一里塚です

    

すぐ先の畑の中に

 

庚申塔があります。 

 

賀美小学校の敷地の中に

    

賀美村道路元標  

 

 

殉国慰霊之碑

 

             

陽雲寺入口  甲斐武田家滅亡後、武田信玄の正室が仏門に入ったというエピソードが残る寺。                                             

         

                

正四位畑時能公(はたときよし)の首塚

法名を陽雲院といった。南北朝時代・南朝方の武将。新田義貞四天王の一人。

「伊知地の戦」で死亡し、重臣児玉五郎左衛門光信は、主君の首を携え敵陣を突破し、その後首塚に葬った。

 

首塚を過ぎると金窪城址の標識があります。

そこを左に10分程進み保育園を過ぎ左に入った所にありました。

保育園角の「館址入口」石柱。


史蹟金窪館址碑

「神流川の戦い」で滝川一益により攻められ落城。現在城址は「金窪城址公園」として整備されていますが、遺構はわずかに土塁が残るのみです。

 

中山道に戻ります。

100m程先の左に金久保神社(社標は八幡神社)があります。    

金久保神社は大永5年(1525)金窪城主斎藤盛光が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、神流川合戦で焼失後、元和年間に現在地へ遷座しました。拝殿には祥雲斎俊信による雲龍図と花鳥画の天井絵があり、外側には湯島天神から譲られた彫刻が残ります。秋の大祭では今も獅子舞が奉納されています。

 

500m程先の関東フローズン事務所前に

庚申塔があります。

 

50m程先の右側に庚申塔、二十三夜塔、如意輪観音などがあります。

道路整備のためここに集められたようです。

 

 

国道17号線「神保原(北)」信号交差点を横断します。

 

神保原一丁目」信号交差点を左折します。

 

 

民家の庭先に庚申塔              

 

再び庚申塔

 

 

神保原村道路元標              

 

楠森橋を渡ります。

 

浅間山古墳  上里町指定文化財です。         

古墳石室から土器や矢じり等が出土しています。現在は稲荷神社になっています。

 

600m程先の万年寺住宅街の「カラオケ居酒屋このみ」の辺りで勝場の一里塚跡から約1時間、距離は約4kmです。この辺りに万年寺の一里塚があったと云われています。江戸まで22里目の一里塚です。

 

 

浅間古墳から30分程歩きY字路を左に入ります。      

 

          

5分程歩くと巨大な歩道橋を渡り右折し直ぐ「千代田3丁目」信号を左折します。                 

 

                      

金鑽神社(かなさなじんじゃ)

欽明天皇2年(541年)の創建とされています。御祭神は照大御神、素戔嗚尊、日本武尊です。御室山を神体山として祀っているため本殿がなく、原始信仰の形を今に残しています。

埼玉県指定天然記念物となっている御神木「金鑚神社のクスノキ」があります 推定樹齢約370年(あるいは350年以上、300余年)です。江戸時代の本庄城主の孫が社殿建立の際に献木したものと伝えられています。

 

 

隣に真言宗智山派大本山高尾山奉安所入口。    

                      

200m程先の左側に旧小森商店(酒問屋)跡

 

さらに300m程先に旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

       

旧本庄商業銀行の煉瓦倉庫は明治29年に建てられ、繭を保管するために使われました。本庄町の絹産業の繁栄を伝える近代建築で、通気性を工夫した構造や深谷産煉瓦が用いられています。

 

「中央1丁目」信号交差点のEXT研修センター前に「本庄宿の標柱」があります。

すぐ先の足利銀行の辺りが内田本陣跡です。さらにその先の埼玉りそな銀行の辺りが

田村本陣跡(北本陣跡)です

天保14年の記録では本陣2,脇本陣2,旅籠屋70軒で中山道最大の宿場でした。

利根川の水運の集積地であったことが、その繁栄の大きな理由です。 

田村本陣には皇女和宮(かずのみや)が将軍家茂(いえもち)との婚儀のために江戸へ降嫁(こうか)した際も、本庄宿の田村本陣に休泊しました。 

明治時代以降、鉄道の開通など交通手段が変化したことで街道の利用者が減少し、多くの宿場町は衰退しました。本庄宿も例外ではありません。

 

 

             埼玉りそな銀行

 

 

「中山道交差点」信号を通過しました。     

                        

                                    

新泉橋を渡る手前のこの辺りに傍示堂の一里塚があったと云われています。

江戸まで21里目の一里塚です。          

 

300m程先に

立派な門構え(長屋門)の歯医者さんがありました。

 

歯医者さんを過ぎ500m程進むと

  

 子育て地蔵と庚申塔。

 

 

「牧西」信号交差点を通過。            

 

火の見櫓ありました。

 

火の見櫓の隣に八幡大神社があります。

八幡大神社

建久年間(1195)に創建され、戦火で焼失後、慶長17年(1612)に再興されました。依田氏(後の宮崎氏)が代々神主を務め、徳川期には領主から寄進も受けました。奉納される宮崎組神楽は市指定文化財で、江戸期の面を用い、遠くはは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。

 

 

県道45号線に合流し、すぐ先の「深谷宿・旧中山道」方面の標識に従い右折します。

 

                               

田園地帯を黙々と歩きます。こんなに平らな広い土地は琵琶湖の近くの中山道以来です。沢山の送電鉄塔があります。

              

滝岡橋を渡ります。

 

 

滝岡橋から見た小山川                 稲垣一等卒殉烈記念碑

大正時代に軍事演習で溺れた少尉を助けようとして濁流にのみこまれた稲垣一等兵の行為をたたえるため建立されました。          

 

「岡(西)」信号交差点を左へ入ります。

中山道案内書では右に進むように案内されていますが民家の庭を進むような感じなので左に進みました。

 

右に進んだ道とここで合流しました。

「馬頭観音」と「中山道古道について」の説明石板があります。

旧中山道は江戸期には急坂を経て小山川を渡っていましたが、切り通しは明治期に開鑿され、昭和3年に瀧岡橋が竣工され道も拡幅整備されました。岡部郷土文化会は、和宮降嫁の行列も通った往時の道筋を示し、来訪者に案内しています。

 

岡部消防組 第一部」            

文字の並びからして古い建築物です。

 

島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)

創立時期は不明。

祭神は、瓊々杵尊(ニニギノミコト)・木之花咲夜姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)。

木花咲耶姫命は安産の神様として知られており、島護産泰神社も安産のご利益で有名です。
旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の各村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになった。

 

島護産泰神社の附近に一里塚があったと云われています。

江戸まで20里目の一里塚です。

 

 

耕地整理記念碑           

このの附近に一里塚があったとも云われています。江戸まで20里目の一里塚です。

 

芭蕉の句碑 逆光になって良く分からないが 「原中や 物にもつかず なく雲雀

この辺りに一里塚があったとも云われています。

江戸まで20里目の一里塚です。

いずれにしても島護産泰神社から国道17号線に合流するまでの700mの間のどこかに一里塚があった。

 

 

17号線に合流した右角の住宅の庭先に馬頭観音              

 

「普済寺」信号交差点を横断します。                     

 

 

普済寺の入口                  普済寺参道の馬頭観音

通過します。

 

岡部神社参道                      

岡部神社は、武蔵国榛沢郡岡部の武将岡部忠澄の祈願所と伝えられる社。

1184年(寿永3年)、一ノ谷の戦いで平清盛の異母弟平忠度を討ち取る活躍をした忠澄は、戦功に感謝して杉を植栽したのだという。御祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉丹尊(いざなみのみこと)。

 

岡部北」交差点右に

高島秋帆 幽因地入口

砲術家の高島秋帆が幽囚されていた地が近くにあるそうです。

東京の高島平は砲術の訓練をした場所です。

 

 

源勝院入口

源勝院(曹洞宗)は、岡部の地を領地とした安部家の菩提寺としてつくられた寺で、境内墓地の一角に2代信盛から13代信寶まで、12基の屋根付位牌形の墓碑が、東向きに南から北へ世代順に並んでいる。

 

国道17号線の岡部(南)交差点の左側に曹洞宗の寺院の正明寺があります。

正明寺の二十二夜塔  

二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業(主に読経など)や飲食を共にし月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講で、供養のために造立した塔です。「二十二夜」の文字を刻んだものと、如意輪観音の像を刻んだものがあります。全国的には、二十三夜塔が最も一般的です。

 

旧道と国道17号線の交差する「宿根」信号交差点の手前にに瀧宮神社があります。

  滝宮神社  霊泉の杜として知られる神社です。             

明応5年の大旱魃(だいかんばつ)に岡谷源香丹が掘った池から水が湧き出た奇跡を神の恵みとし、社殿を建てて祀ったのが始まりです。池は百坪余り、深さ3.3m余りと記されています。

 

「宿根」信号交差点を斜め右に進みます。

 

 

萱場稲荷神社         農耕の神様として、また商売繁盛や家内安全の神様としても信仰されています。                                       

 

清心寺入口 浄土宗のお寺                                                                       源平一ノ谷合戦で平忠度(たいらの ただのり、1144〜1184)を討取った岡部六弥太忠澄(おかべ ろくやた ただずみ、生誕不詳〜1197)が戦後忠度の霊を弔ったという供養塔があります。

平家物語の中に平忠度の都落ちの話があります。

平忠度は都落ちの途中、一人京へ戻り、師事していた歌人の藤原俊成に百余首の和歌を託しました。後に俊成は『千載和歌集』へ忠度の歌を選びましたが、朝敵ゆえ「よみ人しらず」として載せました。 その歌は「さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな 

 

呑龍院  赤く塗られた呑龍院鐘楼は人目を引きます。

 
     石仏と南無阿弥陀仏碑の祠          地蔵尊

 

深谷宿西側の常夜灯

天保11年(1840)の建立です。透かしの「三」は、この常夜燈を立てた富士講の講印。宿場の発展を願い、天下泰平、国土安眠、五穀豊穣と刻まれている。

高さは約4mです。東側にも常夜灯(東常夜灯、稲毛町側)が現存しており、これら二つの常夜灯の間がかつての深谷宿の範囲でした。

 

 

町中にこんな高い煙突がある。

醸造元 菊泉は滝澤酒造の銘柄   

 

  

関根辨之助商店 旧中山道沿いのレトロな街並みに溶け込んでおり、歴史を感じさせる外観です。肥料を扱うお店です。             

 

糸屋製菓店  翁最中(おきなもなか)あんドーナツで知られる創業明治四十一年(1908年)の老舗菓子店です。。

 

 

ここにも煙突があります。酒醸造元七ツ梅

「七ツ梅」 の看板

江戸時代からの造り酒屋 「七ツ梅」 の看板の旧田中藤左衛門商店があります。
この蔵元は近江商人で、享保元年(1716)屋号を十一屋として創業したが、平成16年に廃業しました。

現在、その広大な跡地は「一般社団法人まち遺し深谷」によって管理・運営され、

映画館、カフェ、雑貨店、様々なワークショップ、イベントが開催されています。

 

                        

深谷宿飯島本陣跡

宝暦2年(1752)より明治3年(1871)ま で本陣職を務めた。本陣の一部は有限会社飯島印刷所の事務所裏手に現存し、上段の間、次の間、入側が古色を帯びて保存されています。

天保14年の『中山道宿村大概帳』では本陣1,脇本陣4,旅籠屋80軒でした。

商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2番目の宿を求める人で大いに栄えました。 五の日、十の日に市が立った。

本陣跡から50m程先の四辻辺りに深谷の一里塚があったと云われています。

江戸まで19里目の一里塚です。20里目の一里塚から約4.2kmです。

 

英泉の深谷宿の絵

 

 

中山道からJR深谷駅まで寄り道しました。  東京駅の様なレンガ造り。

 

酒醸造元藤橋 有限会社 藤橋藤三郎商店は、江戸時代末期の嘉永元年(1848年)創業の老舗酒造です。代表銘柄は「東白菊」(あずましらぎく)。埼玉県の景観重要建造物にも認定されています。

 

 

伊勢屋  おはぎ だんご屋さん     

 

金物屋  商品の陳列方法が懐かしい。

 

 

行人橋                               

木橋が主流だった江戸時代には珍しく石橋だった。   

行人という僧が、唐沢川の洪水でたびたび橋が流されるのを嘆き、もらい集めた浄財で橋を架け、以来、この橋は「行人橋」 と呼ばれるようになったという。

 

大谷邸

 昭和恐慌の時、時の深谷町長故大谷藤豊氏が私財を投じ、お助け普請で地元の職人たちを使い建てた木造2階建て洋館付き和洋折衷住宅。ステンドグラスなど大谷邸には精巧優美な細工が数多く見られる。国の登録有形文化財(建造物)に登録されています

 

深谷宿東側の常夜燈

市指定文化財の旧深谷宿常夜燈は、中山道の中でも最大規模の宿場であり熊谷宿と本庄宿の間に位置する深谷宿の西と東の入口に旅人のための目印として造られた。

 

国道17号線の陸橋を渡って横断し県道263号線(旧中山道)を進みます。            

 

見返りの松

宿場の外れにあるこの見返りの松は、宿に泊まった江戸への旅人が、一夜の間柄となった女との別れを惜しんだ場所だったことから名付けられた。残念ながら平成18年(2006)2月に枯死し、伐採されました。

 

説明板によれば、

深谷市中山道ふるさとの並木道 
江戸末期の安政年間には、深谷宿のはずれに、松、杉、合わせて四百本ほどあったといわれていますが、今では「見返りの松」に昔日の面影が偲ばれるにすぎません。現在の並木は、中山道の拡幅整備に伴い、イチョウ、クロマツ、ケヤキを植栽して復元したもので、総延長は約1kmです。 

 

愛宕神社   りそな銀行キャッシュコーナーの向かい側にあります。

古墳時代末期に築造された愛宕山古墳(愛宕神社古墳)の上に鎮座する神社です。 

祭神は火産霊命(ほむすびのみこと) 防火のご利益があるとされています。

 

                                       庭先の庚申様 

 

 愛宕神社から700m程先の左側に熊野大神社の鳥居  本殿は300m程参道奥                                                                                             

30分近く進んだ先に

鬼林稲荷神社

ここから100m程先の四辻の右角に1本の欅があり東方の一里塚と云われています。江戸まで18里目の一里塚です。深谷の一里塚から4.6kmです。

 

新堀(北)信号交差点から150m程先の右側に

志がらき茶屋本陣跡(明治天皇御小休所跡)碑

明治11年9月2日、明治天皇が北陸・東海両道を巡幸された際、小休止したところです。江戸時代には中山道を往来する大名や幕府関係者に食事やお茶を提供する休憩所があった所です。

 

  

玉井邑と彫られた庚申塔           地藏堂

 

またまた現れた巨大な歩道橋  

これを渡ってバイパスを越えます。

 

 

地藏堂                大きな屋敷を見ながら進むと再び歩道橋。

 

 17号久保島歩道橋を渡ります。

 

 

東京70km、鴻巣19kmの標識が見える。

 

お地蔵様    

 

忍領石標

安永9年(1780)、忍藩主が領地の境界を示し、他藩との境界争いを防ぐため十六か所にたてた石標のひとつです。新島と石原の境にあり、高さ190センチメートル、幅30センチメートルで、「従是南忍領」と刻まれています。原料の石材は、利根川の酒巻河岸(行田市)から1日50人の人が2日がかりで運んだといわれています。 

 

新島の一里塚

江戸より17里目の一里塚で、植木の一里塚とも云われる。樹齢300年の欅の大木がありましたが、平成22年9月の豪雨で倒れその後伐採されました。

向かい側には「摩多利神改修の碑」の石碑もある。

江戸まで17里目の一里塚です。

 

 

17号線に合流します。           

 

熊谷警察署前を通過します。             

 

左に進みます。

                       

八坂神社がありましたが暗くて撮影は断念。

 

 

八木橋デパートの中を中山道が通っています。

 

八木橋デパート入口に「旧中山道跡」碑。

八木橋デパートの中を通ります。

今夜泊まるホテルが見えて来ました。

 

近くのコンビニで仕入れた「とんかつ弁当とアルコールの豪華版」。

 

明日の鴻巣行きの準備をしてから寝ることにします。

お疲れさんでした。

 

次は「中山道歩き 改訂版 熊谷宿から鴻巣宿まで」です。