令和4年3月27日
歩いた距離 20km
前回終了した養老鉄道「東赤坂駅」横の中山道から柏原宿まで歩きます。
美乃坂本駅を5:39に出発しました。
東赤坂駅に7:56到着です。
「菅野1」の信号交差点を過ぎるとY字に分かれます。
左が中山道です。
左に新しいきれいな白山神社があります。
白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていました。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていました。
中山道一里塚跡(枝郷一里塚) 白山神社境内にあります。
日本橋より110里目の一里塚。
右が中山道です。
多賀神社
祭神は、男神の伊邪那岐(いざなぎ)大神、女神の伊邪那美(いざなみ)大神です。
「赤坂大橋東」交差点手前の常夜灯と石碑 中山道と美濃路の追分です。
常夜燈が道標になっていて「右 おおがきみち」「左 なかせんどう」と刻まれています。
杭瀬川に架かる赤坂大橋を渡ります。
杭瀬川を渡ると赤坂宿です。
赤坂宿の中心地に入ります。火の見櫓が見えます。
赤坂宿御使者場跡
大名や公家など偉い人物が通る時、宿役人や名主が出迎えに来ていた場所です。
赤坂湊跡
赤坂港は明治年間に整備されました。杭瀬川の豊富で安定した水流を利用して栄えました。
赤坂港からは米、材木、酒、石灰などが主に桑名に運ばれていました。大正時代に入ると鉄道輸送に変わり衰退しました。
左の白い建物は港会館。
広重赤坂宿の絵
すぐ隣に浅間神社があります。
赤坂本町駅跡(西濃鉄道貨物線)
金生山(きんしょうざん)から産出される石灰石を運ぶ貨物列車が運行されています。
金生山は2億5000年前に海底が隆起し古生物が堆積し石灰岩となった山です。
中山道赤坂宿本陣跡
文久元年(1861年)10月25日、皇女和宮がここに宿泊されました。
今は赤坂本陣公園になっています。
天保14年の記録では本陣1,脇本陣1,旅籠屋17軒でした。
赤坂本陣公園奥に
所郁太郎の碑
赤坂宿出身、幕末の医者、志士。井上聞多(後の井上馨)遭難の際に、井上を治療した人物です。28歳で病没した。
宿場にふさわしい外観です。
「十六銀行」の名前は、明治時代の初期に国立銀行が誕生し、このとき各銀行に、1から番号が設立した順に割り振られ16番目だったからです。国立銀行とは「国の法律によって立てられた銀行」ということで、国が経営する銀行ではなく、民間資本が法律に基づいて設立した銀行のことです。当時153番目まであったそうです。
この四つ辻を大きく左に曲がる様に進みます。
町の中心にあるこの四つ辻は北に向う谷汲巡礼街道と 南は伊勢に通ずる養老街道 の起点でした。
赤坂宿脇本陣跡
脇本陣は1軒しかなく、宝暦年間以後、飯沼家が代々にわたり脇本陣を勤め、問屋・年寄役も兼務していました。
妙法寺 創建年不明。日蓮宗の寺院。所郁太郎のお墓があるそうです。
画像右側に所郁太郎生誕地の石柱
参道を進むと子安神社があります。女性がまたがると子供が授かるという、跨ぎ石があるそうです。
さらに奥に三大虚空蔵の一つ明星輪寺虚空蔵があります。
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は、宇宙のように無限の知恵と慈悲の心が収められた宝庫(蔵)を意味しており、そこから尽きることなく人々に利益と安楽を与えてくださると言われています。
かなり距離がありそうなので諦めました。
右上にあるのが関ヶ原の戦いの死者を葬った「兜塚」 左端に赤坂宿御使者場跡碑
この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将、野一色頼母(のいっしき たのも)を葬り、その兜を埋めたと伝えられています。
廃線跡 昼飯町の石灰工場
如来寺
説明板によれば 「如来寺の由来 善光寺如来が、難波より信濃へ向かう途中、お昼の供養をした関係から、建久6年(1195)に僧の定尊が、村東の花岡山の上に三尊仏を安置し、名を如来寺としました。後年、織田信長の兵火にあい当地に移り、秘仏となりました。又、御本尊の開帳は15年に2回行われています。 御本尊は、善光寺の分身仏としては日本で最初のものです。特に、一体分身の如来といい、現在は大垣市重要文化財の指定を受けています。
(大垣市青墓小学校)
昼飯町(ひるいちょう)の由来 説明板によれば
「昔、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺に納められることになりました。 その仏像を運ぶ人々が、青墓の近くまで来た時は5月の中頃でした。近くの山々は新緑に覆われ、つつじの花が咲き乱れる素晴らしい光景です。善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、美しい景色に見とれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとしました。 ここから、この付近を昼飯(ひるめし)と言うようになりました。しかし、その呼び名が下品であるというので、その後、飯の字を 「いい」 と音読みして 「ひるいい」 と呼ばれるようになりました。でも、「いい」 は発音しにくいため、「い」 の一字を略して 「ひるい」 と呼ばれるようになりました。また、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」 と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。
(大垣市青墓小学校)」
この先の「昼飯町」信号交差点を過ぎ東海道本線の高架下をくぐります。
青墓町に入ります。
10分程進んだ左に照手姫水汲み井戸の標柱があります。
ここを左に入ります。
説明板によれば 「照手姫の水汲み井戸 昔、武蔵・相模(今の神奈川県)の郡代(郡の代官)横山将監 に女の子が生まれ、照手姫と名付けられ成長しました。目の覚めるような美人と言うことで世間の評判になりました。その話を聞いた常陸の国(今の茨城県)の国司小栗判官正清 は、使者も立てず強引に婿入りしてしまいました。そのため、父親の将監がたいへん怒り、小栗判官に毒の入った酒を飲ませ殺してしまいました。 照手姫は深く悲しみ、あてのない旅に出て、あちこちさまよい、最後に美濃国青墓の長者「よろづ屋」に買われることになりました。 長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、照手姫は拒み通しました。怒った長者は、「一度に百頭の馬にかいば(馬のえさ)をやれ」、「籠で水を汲め」、「十六人分の炊事を毎日一人でやれ」などと、無理な仕事を言いつけました。照手姫は、毎日毎日、泣き泣き仕事を続けましたが、日頃信仰していた千手観音菩薩 の助けで、普通の人間にはできそうもない仕事を成し遂げることができたのです。
一方、毒酒に倒れた小栗判官正清は、熊野の湯につかって蘇り、二条大納言兼家 の許しを得て都に戻り、朝廷から美濃国を治める役人に任命されました。その後、照手姫が青墓に居ることを知り、妻として迎え、二人は末永く幸せに暮らしたということです」
◎この井戸は、照手姫が、籠で水を汲んだと伝えられています。
◎照手姫のお墓はここから約百米北の圓願寺 (お寺は焼失)境内にあります。
明るい青少年都市市民会議青墓支部、青墓校区青少年育成推進会」
中山道に戻るとすぐ右側に
青墓の芦竹庵(あおはかのよしたけあん)があります。
説明板によれば 「牛若丸 (後の義経)は、京都の鞍馬山で修業を終え、金亮吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちのびようとしました。青墓の円願寺 (円興寺の末寺)で休み、なくなった父や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りました。
その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきた芦の杖を地面につきさし、
「挿しおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば 芦竹となれ」の歌を詠み、東国へ出発しました。
その願いが仏道に通じたのか、その後、杖にしてきた芦が、大地から芽をふき根をはりました。そして、見事な枝に竹の葉が茂りました。しかし、根や幹はもとのままでした。
このめずらしい竹は、その後もぐんぐんと成長し続けました。それで、このめずらしい竹を「芦竹」と呼びこの寺を芦竹庵 と呼ぶようになりました (青墓伝説より )大垣市立青墓小学校」
ミニストップ前の横断歩道まで行き横断してミニストップの裏側を通る道に出ます。
ミニストップから10分ほど進むと
右に「国分寺道」と彫られた石柱があり、右折します。この先に美濃国分寺跡があるので中山道から外れますが見学して来ます。
途中に教覚寺があります。
浄土真宗 本願寺派のお寺。ご本尊は阿弥陀如来。
教覚寺の前を通り300m程進むと県道216号(先ほどミニストップ前で横断した道でした)に出ます。横断した所に美濃国分寺跡があります。
すごく広い美濃国分寺跡
国分寺は聖武天皇が国家の泰平を願い天平13年(741)全国68か所に建立されたものです。昭和43年(1968)から発掘調査を始め、伽藍全体が史跡公園として整備されています。
わたしが行ったとき(令和4年3月27日)はまだ整備中でした。
中山道に戻ります。
蒼野ヶ原(青墓)一里塚跡と常夜灯
江戸より111里目の一里塚
この先「駒引」、「追分東」、「追分」の信号交差点を通過します。
「平尾御坊道」の道標とお地蔵様 平尾御坊というお寺が、ここを右折し700m程進んだ所にあるそうです。
覚明霊神の碑 覚明様は天明5年(1785)御嶽山開山を行いました。
垂井宿追分道標
説明板によれば 「垂井宿は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、大変にぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。
道標は高さ1.2m、幅40㎝、表に 「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」 とあり、裏に 「宝永6年己丑10月願主奥山氏末平」 と刻まれている。
この道標は宝永6年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で7番目ほどの古さである。
また、ここには高さ2mの享保3年(1718)の角柱の道標もあった。
(垂井町教育委員会)」
右折して梅谷川の橋を渡り、相川橋を渡ります。
相川の人足渡跡の説明板
説明板によれば
「相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。
川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました
一方、姫君や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木橋が架けられました。
(垂井町)
相川橋 沢山の鯉のぼりが泳いでいます。右上に伊吹山が見えます。
橋を渡った所にある中山道垂井宿観光マップと東の見附け跡の説明板
説明板によれば
「垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約440km、58番目の宿になります。
見付は宿場の入口に置かれ、宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりもしました。
ここ東の見付から約766mにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります (垂井町)」
宿観光マップの下の方に「中山道 垂井宿」標柱がありました。
大きく右に曲がります。
郵便ポストの所を左に行けばJR垂井駅です。
垂井町史跡「紙屋塚」案内板に従って住宅街にはいります。
垂井町史跡「紙屋塚」ここには紙屋の守護神「従五位下紙屋明神」が祭られています。
垂井町になぜ美濃紙の発祥の地があるのかというと、奈良時代の美濃国府が垂井町にあったからと考えられます。国府は今の県庁のようなもので、不破の関を管轄する役割がありました。
この紙屋塚は、奈良時代から室町時代まで「官設抄紙場(すきかみば)」で、国府で使う紙を製造していました。
説明板によれば
紙屋塚は『美濃国神明帳』の「従五位下紙屋明神」に比定されている。ここには、この辺りに沸く清水を利用して、美濃国府による官設の紙工房があったと推定されている。奈良の正倉院残された当時の紙から、美濃国産の紙は最上級であることが知られている。『延喜式』では最高級の色紙を製造するために、毎年図書長上一人を美濃国へ派遣する事になっていた。また、藤原行成の日記である『権記』には、長保四年(1002)に美濃国に「紙屋」と呼ばれる製紙工房が存在したと考えられる記述がある。 令和2年3月 垂井町教育委員会
枡形にある旅籠「亀丸屋」
説明板によれば
「安永六年(1777)に建てられた間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講 、文明講の指定旅館であった。当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓 が残る珍しい造りである」 (垂井町)
今も営業しているそうです。
垂井宿の街並み
安田歯科医院さんの駐車場の片隅に中山道垂井宿本陣跡の石柱がありました。
説明板によれば
「中山道 垂井宿本陣跡
本陣は、宿場ごとに置かれた大名や公家など重要な人物の休泊施設です。
ここは中山道垂井宿の本陣があったところで、寛政12年(1800)の記録によると、建物の坪数は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。
垂井宿の本陣職をつとめた栗田家は、酒造業も営んでいました。
本陣の建物は、安永9年(1780)に焼失しましたが後に再建され、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されました。
垂井町教育委員会」
南宮大社の大鳥居
常夜燈と大鳥居説明板
説明板によれば 「寛永19年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居 は約400両の金で、石屋権兵衛 が建てた。 横幅(内側)454.5cm頂上までの高さ715cm 柱の周り227cm。 正一位中山金山彦大神 の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆跡である。垂井町」
中山道から寄り道して大鳥居をくぐり玉泉禅寺に向かいます。
玉泉禅寺
垂井の泉と大ケヤキ 説明板によれば
「この泉は、県指定の天然記念物である、大ケヤキの根元から湧出し、「垂井」の地名の起こりとされる。『続日本紀 』天平12年(740 )12月条に見える、美濃行幸中の聖武天皇 が立ち寄った「曳常泉 」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近隣の住民たちに親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ藤原隆経は「昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」と詠んでいる(詞花集)。
のちには芭蕉も「葱白く 洗ひたてたる 寒さかな」 という一句を残している。
岐阜県名水五十選(昭和六一年)に選ばれている。
この大ケヤキは、樹齢約800年で、高さ約20m、目通り約8.2m。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。
この木にちなんて、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の「木」とした」
ケヤキの巨木はほかでも見ていますが・・・・とても巨木とは思えませんでした。
岐阜県の名水 垂井の泉
中山道に戻ります。
お休み処「長浜屋」
天保2年(1831年)の記録にある間取図と同じ部屋数、庭も井戸も同じ位置に今もあり、200年程経っていると考えられる。明治22年には旅籠屋をやめ、酒屋となり平成10年まで続けられた。その後取り壊されることとなったが、歴史的に貴重な建物ということで、有志により修繕され、江戸時代の庶民が泊まった旅籠の風情が残っている。(垂井町観光ガイド)
小林家住宅 説明板によれば
「 国登録有形文化財 小林家住宅主家 平成25年12月24日登録
当家は、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年(1881)に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んできた建物です。建築された年代ははっきりしませんが、幕末頃には建てられていたものと考えられます。切妻造瓦葺 とし2階建平入りの建物で、2階には両側面に袖卯建 を設け、庇下には防火用の濡れ筵掛けが残っています。 外観、室内とも幕末の豊かな商家に相応しい品格を持っており、防火対策が随所に残された貴重な建物です。平成26年3月 垂井町教育委員会」
本龍寺
明治天皇垂井御小休所の石塔、復元された高札場があります。
関ケ原宿本陣の門構えが移設されています
復元された高札場
「親兄弟を大切に、キリシタン禁止、人馬賃等」6枚が揚げられていました。
明治6年に制度が廃止され取り壊されましたが、令和元年に復元されました。
本龍寺境内の時雨庵横の芭蕉の句碑 「作り木の 庭をいさめる しぐれ哉
垂井宿 西の見付 説明板によれば
「ここは、垂井宿 の西の入口になる西の見付である。現在は、南側のみが昔の面影を伝えている。非常事態が発生した場合は見付を閉鎖し、宿場の安全を図った。
歌川広重作木曽街道六十九次 の垂井宿の絵は、この付近から西側を描いている。雨の降る松並木の中を、粛々と大名行列が宿場へ向かっている。裸足で歩く宿役人が行列を先導する。道の両側には茶店があり、主人と客が下座して迎える。松の木や見付、茶屋などがほぼ左右対称の構図をなし、中央を走る街道の遠近感を際立たせている。奥行きとともに格式や緊張感を盛り上げる点で街道を描いた版画の傑作といえる。垂井町商工会」
広重の垂井宿の絵
「中山道歩き 赤坂宿から柏原宿②」に続く