「中山道歩き 改訂版 新町宿から熊谷宿まで」の続きです。

 

令和4年9月27日

歩いた時間  6時間30分       歩数  36,449歩

 

 朝4時に目が覚めてしまいました。昨日買い置きしていたサンドイッチを食べ、明るくなるのを待って5時50分にホテルを出発しました。

昨日暗くて分からなかった宮沢賢治の詩碑を探して八木橋デパートに戻りました。

八木橋デパート前に宮沢賢治歌碑があります。

 

 「武蔵の国 熊谷宿に 蠍(さそり座)の 淡淡ひかりぬ 9月2日 」

賢治は大正5年(1916)、当時通っていた盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の学生時代に、恒例の秩父地方への地質調査旅行に参加しました。その旅の途中の9月2日の夜、一行は埼玉県熊谷町の旅館「松阪屋」(現在の八木橋百貨店の場所)に宿泊しました。その夜空を見上げて詠んだのが、この句です。  

裏側(道路側)には「 熊谷の 蓮生坊が たてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ

平家物語で知られる熊谷直実(なおざね)は出家して蓮生坊と名乗っています。

この句はおそらく隣の熊谷寺(ゆうこくじ)で詠んだのでしょう。

 

 

デパートの隣に熊谷寺(ゆうこくじ)があります。

「法然上人」の弟子となった「蓮生法師」(熊谷直実)開基の寺。

直実は「一の谷の合戦」(1184年)で「平敦盛」(当時16歳)を討ち取った事がきっかけとなり、自らの無情さ、世の無情さを悟り仏門に入りました。敦盛の七回忌には高野山に供養塔を建てました。

 

 

 鎌倉町交差点の熊谷市道路元標

 

 

 鎌倉町交差点から1,2分の所に「本陣跡」碑がありました。

説明板によれば、

「 本陣跡(熊谷市指定文化財 史跡)

昭和29年11月3日指定

 本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635年)、諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれた休泊所である。諸大名や幕府役人、公家貴族などのための特別な旅館でもあり、門・玄関・上段の間を設置することができ、旅籠屋などの一般の旅館とは区別されていた。

 また、本陣を担った経営者も土地の豪家で名字帯刀を許されることが多かった。 熊谷宿の本陣のうち、街道の南側、本町一丁目の西端に位置していたのが『竹井本陣』であった。敷地1600坪、建坪700坪、47部屋を有する、国内屈指の規模を誇る本陣だった。

 しかし、明治の火災と、終戦前夜の空襲で失われ、現在では本陣跡が残されるのみとなった。本陣の西には、竹井本陣別邸だった市指定名勝『星溪園』があり、その当時の面影を今に伝えている。     平成27年3月  熊谷市教育委員会」

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、本陣2、脇本陣1、旅籠19軒、問屋場1軒、高札場1箇所でした。大きな宿場にしては旅籠屋の軒数が19と少ない。

これは熊谷宿に若い衆を助郷に出す付近の村々の猛反対で旅籠屋に飯盛り女を置けなかったからと云われています。硬派な宿場だったようです。

宿泊業に依存せず、絹屋、綿屋、糸屋、紺屋などの機織(はたおり、きしょく)関連の店、茶屋やうどん屋、穀屋などが軒を並べるなど、商業都市として賑わいを見せていました。

竹井本陣の他に石井本陣、鯨井本陣があったという記録があるそうです。

 

「市営駐車場入口」信号を横断した所に「札ノ辻跡」があります。

説明板によれば、

「 『札の辻跡』(熊谷市指定文化財 史跡)

昭和29年11月3日指定

札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・街道など人目を引く所に掲示された。
 熊谷宿の高札場は、宝永年間に記された『見世割図面写』により、場所・大きさなどが推定できる。
場所については、『町往還中程に建置申候』と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれている。この説明から、高札場は現在の大露路通りと中山道の交差する道の中央辺りにあったことが推察できる。高札は、高さが一丈一尺(2.3メートル)、横幅が六尺四寸(約2メートル)の大きさであった。高札一四枚は市指定文化財として保管され、中山道の歴史を知る資料となっている。札の辻は、中山道の記憶を今に伝える史跡として貴重な文化財である。 平成27年3月 熊谷市教育委員会」

 

左側に高城神社(たかぎじんじゃ)一の鳥居。

奈良時代以前の創建とされる。現在の本殿、拝殿は、寛文11年(1671)に再建されたもので、今なお、当時の面影を残している。

 

国道17号線「筑波歩道橋」を渡ります。JR熊谷駅が見えます。

  

「JTB」の角を右折します。(「銀座一丁目」信号交差点を右折します)

 

JTBから5,6分でこの歩道橋にきます。

 

歩道橋は渡らず直進します。       

                    

JR在来線の踏切を渡り、新幹線高架下を通りすぐに左折します。

 

 

ここを左折                

公園に着きます。

新島の一里塚から約4.4km、ほぼ1時間です。

その公園の片隅に「八丁の一里塚跡」の説明板がありました。

江戸まで16里目の一里塚です。

説明板によれば

「久下新田の一里塚から、ここまで一里ある。いま英泉の描くところの「八丁提の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。」

英泉の熊谷宿八丁提の景

 

 

佛説寺前を通過します。          信号交差点住宅庭先のお地蔵様

 

                   「元荒川源流地点」碑

 

ムサシトミヨがすむ川

ムサシトミヨは、硬骨魚綱トゲウオ目トゲウオ科に属する淡水魚です。背びれに8~9本の棘(とげ)があります。4~7枚の鱗(うろこ)板が尾柄(びへい)部にあります。体は暗緑色で、側面に暗色の斑紋(はんもん)が散在します。湧き水から出る細い小川や池にすみます。東京都西部や埼玉県の各地に生息していましたが、現在は埼玉県熊谷市の元荒川上流にのみ生息が確認され、活発に保全活動がなされています。

埼玉県指定の天然記念物に指定され、保護されています。

環境省のレッド・リスト(2013)では、近い将来野生絶滅の危険性がきわめて高い、絶滅危惧ⅠA類に指定されています。

 

東竹院

寛文年間(1661-1672)に忍(おし)城主が、禅宗の祖達磨大師に似た巨石を秩父から城中へ運ばせようとしたのだが、いかだで運ぶ途中で川に落ちてしまい、不明になっていたのだが、それから250年ほど経った大正14年に、荒川の東竹院のすぐ前で、偶然に発見されたことから、現在同寺に達磨石として、安置されているそうです。

 

 

みかりや茶屋跡              

説明板では、この茶屋の名物は「柚餅子」(ゆべし)だそうです。

※柚餅子は柚子やクルミを材料にした餅菓子。保存食や携帯食となった。

茶屋跡から荒川土手に上がりました。

 

土手に上がってすぐ左に下ります。

久下の渡し 冠水橋跡

冠水橋は、大雨で川が増水すると水没し、通行不能になってしまう橋のことです。橋を渡るには、一度堤防を乗り越えて河川敷に入る必要があり、ちょっと不便な橋です。昭和30年頃には、重要度(地域性や交通量)と建設予算の兼ね合いから、荒川(埼玉)のような大きな河川には、このような橋が次々と架けられました。

 

冠水橋跡を過ぎると二又に道が分かれます。

左に下ります。

久下の権八地蔵尊があります。

歌舞伎「鈴ヶ森」で「白井権八」がこの地蔵尊の近くを通りかかった旅人を斬って金を奪い、見ていた地蔵に今の事は誰にも言うなと口止めすると、「私は言わぬが、お主も言うな」と答えた。

そのお話のお地蔵さんがここのお地蔵さんだそうです。

 

 

権八地蔵尊                    庭先のかわいい常夜灯

 

 

  県道257号線の下を通ります。

      

立派なお屋敷がありました。                       

 

 

久下神社  御祭神は大山祇神 (おおやまつみのかみ)

鎌倉武士の久下直光が鎮守として三嶋社を創建、明治維新後村内各社を合祀し、大正2年久下神社と改称、翌3年伊奈利神社のあった当地へ移転しました。              

久下神社前の「久下村道路元標」

 

久下神社から300m程先に

明治45年(1912)建立の「久下堤碑」があります。
荒川左岸の堤防は、荒川瀬替えの際に旧荒川を締め切る堤防として築かれ、江戸時代初期には存在していました。
碑文には約4kmにわたり堤を修復したことが記され、「修復記録輪型の碑」とも呼ばれています。

 

再び荒川土手に上ります。 

 

土手からの景色 川は見えません。

 

修復記録輪型の碑から1km程先の土手下に偶然見つけました。

久下新田の一里塚跡  江戸まで15里目の一里塚です。 

八丁の一里塚跡から約4.2km、ほぼ1時間です。     

一里塚まで下りて行く道が分からない。場所を示す案内板などは付近にありません。

土手の上から見るとマンショ ン前に一里塚の跡の説明板があります。

 

 

 一里塚跡から300m程先の道上に決壊の跡碑

昭和22年9月のカスリーン台風による洪水のため河口から71km付近久下地先のこの碑がある場所で濁流が堤防を越え決壊しました。流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、おりしも利根川の決壊による濁流と合流してはるか東京まで達し、付近一帯に甚大な被害を与えました。

 

決壊の跡碑から中山道に戻り土手を進みます。ここから要注意です。道案内の標識は全くありません。

「通行注意」の標識が立っている所を左に入ります。

そしてすぐ道が二又に分かれるのでまた左へ入ります。

さらに道が二又に分かれるので今度は右へ入ります。

再び土手道になります。

さらに進むとここに出ます。

(中山道と土手道の分岐が何処なのか全く案内がありません。何度も迷いました。

辺りに民家はなく道を尋ねる事も出来ません)

やっと見つけた案内表示 

 

                 

権八地蔵と二宮金次郎

 説明板によれば、「権八地蔵とその物語  権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。

良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。

この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕らえられ、延宝八年(延宝七年とも)に鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処された。参考:延宝八年(1680)

平成24年2月  鴻巣市教育委員会」

ここに来る途中の久下上区にも久下の権八地蔵尊があり同じ話が伝わっています。

久下地区でお年寄りに道を尋ねた時「こっちと向こうで本家争いをしている」と教えてくれました。

 

住宅街を進みます。

 

榎戸堰(せき)組合用水樋管             

元荒川起点と彫られています。(榎戸二丁目)

明治34年(1901年)に32,000個の煉瓦を使用して建設された農業用水路。現在も現役で使われている歴史的な土木遺産です。

 

「中山道 榎戸村」平成の道標 

 

 

線路に沿って歩きます。前方に歩道橋が見えます。 

歩道橋でJR在来線を越えます。

吹上間の宿の説明板と標柱

説明板によれば、「吹上 間の宿

中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の『あいの宿』として発展した町ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
しかし、それにもかゝわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する武士たちの『日光火の番道』と、中山道が町の中心部で交差すること。また、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として『お休み本陣』や、馬次ぎの『立場』を設置する必要があったからです。
年に30家もの大名が江戸や国許へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた『吹上宿』。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ得意な作品をのこしています。そして江戸以来、吹上の名物は『忍のさし足袋』と荒川の『うなぎ』、『榎戸の目薬』も街道の名物にかぞえられていました。この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています 」

 この説明板を見ながら左に進みます。

 

 

吹上神社 もともとは、日枝神社であったものが、明治40年に合祀して吹上神社と改称された。         

 

東曜寺 真言宗豊山派の寺院  境内の「いぼ地蔵」の台座の前の小石を借りてイボにこすりつけると治るといわれています。

 

 

「吹上本町」信号交差点を右折します。       中山道の道標

 

 

道標の向こう側に半旗が掲げられています。安倍元総理の国葬の半旗です。  

         

                                                                                                               

「明治天皇御駐輦址 徳富正敬恭書」と彫られた徳富蘇峰の筆による碑があります。裏側には、本陣林儀三郎と彫られています。

 

         

「吹上駅前」信号交差点を横断。  

 

NTTの大きな鉄塔が見えたら右斜めに入ります

 

 

右側に妙徳地蔵尊  眼病平癒にご利益があると伝えられており、古くから地域住民に信仰されています。          

 

踏切を渡ります。 

 

 

 踏切を渡った所の「中山道平成の道標」  

 

踏切を渡り直ぐ左に曲がります。

       

              

「前砂」信号交差点で県道365号に合流。 

 

「前砂」交差点脇の「中山道標」

 

道標から500m程進んだ所に

 前砂の一里塚跡  江戸まで14里目の一里塚です。 久下の一里塚から約4.9km、ほぼ1時間です。                             説明板によれば

「江戸時代の初期、参勤を契機として街道が整備され、主な街道には距離の目安として一里塚が築かれた。慶長見聞集によると、中山道の一里塚は慶長九(1604)年に築かれた。
一里塚は、江戸日本橋を起点として一里(約4km)ごとに、街道両側に五間(約9m)四方、高さ約十尺(約3m)の盛土をし、上部に榎や松を植樹したもので、馬・籠の駄賃や道程の目安になるとともに、旅人の憩いの場でもあった。
日本橋から十三里目の、ここ前砂の一里塚は、文化年間(1804〜1818)完成の中山道分間延絵図によれば、街道の両側(現前砂681番地に西塚、71番地に東塚)に、榎の茂った塚が描かれているが、現在は両塚とも残っていない。
ちなみに、鴻巣市域では、十一里目の馬室原の一里塚(西塚が現存、県指定文化財)十二里目の箕田の一里塚が確認されている。
なお、次の一里塚は、間の宿吹上の町並 みを過ぎ、前原の権八地蔵尊の先、久下の長土手にある。

※日本橋からの距離等については、当協会の見解である。

平成二十八年十月  一般財団法人鴻巣市観光協会 」

 

「ここは中山道前砂村」と彫られてます。池田英泉の「鴻巣・吹上冨士」はこのあたりで描かれた」そうです。

 

池田英泉の「鴻巣・吹上冨士」

 

べったら塚古墳

古墳の上のお堂に六地蔵が安置されています。

 

すぐ先の右側に

 

箕田の庚申塔 

 

100m程先の右側に

箕田の石塔

子の石塔は箕田碑(みたひ)と呼ばれ「箕田源氏」発祥の地としての歴史を伝える重要な文化財です。

                 

200m程先に

「箕田追分」信号交差点の馬頭観世音

 

「箕田追分」信号交差点の中山道案内板と道標 

中山道と、北の忍(おし)城下(現在の行田市方面)や館林城下へ向かう道(忍館林道)との分岐点でした。

 

  

  「中宿橋」信号交差点        

 

武蔵水路を横断する中宿橋を渡ります。

※武蔵水路は、埼玉県行田市の利根大堰で利根川から取水した水を、鴻巣市で荒川へ導水する全長約14.5kmの水路です。

 

200m程先の信号手前の右角の住宅に

 

馬頭観世音  大切に祀られています。

                   

200m程先の右側に

氷川八幡神社                         

付近一帯の鎮守。箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、境内には、箕田源氏の由来を記した碑箕田碑があります。
同じく、箕田源氏にゆかりのある宝持寺が隣接しています。

 

 

 宝持寺        平安時代中期に源氏の武将である大江山の鬼退治で有名な渡辺綱によって開基されたと伝わる曹洞宗の寺院です。   

                                           

隣に

  龍昌寺 真言宗豊山派のお寺

 

  

 「宮前」信号交差点を横断します。       箕田観音堂 

 

 

 「ふれあいセンター入口」を通過。

            

800m程先に

立派なお屋敷 このお屋敷の左側辺りに箕田の一里塚があったと云われています。

江戸まで12里目の一里塚です。前砂の一里塚から4.5km、ほぼ1時間です。

13里目の一里塚は不明です。

 

  

 踏切を渡ります。                                   この先で県道164号線に合流します。

 

  

 「加美」信号交差点で合流しました。        中山道道しるべ 「桶川へ二里四町」

                                                                  「江戸日本橋へ12里十八町」

   池元院  日蓮宗のお寺 

 

    鴻神社                                                        

  鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年に合祀し鴻三社と号したのが始まり。

 

 鴻神社拝殿  2本のイチョウは推定樹齢500年 

「鴻神社由緒

「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に国府関連の施設があり、荒川や元荒川などを利用した水運も盛んだったと推測されることから、「国府の洲 こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか」

 

  

 明治天皇御駐輦碑(めいじてんのうごちゅうれんひ)   歩道にコウノトリ

 

 

 「鴻巣駅入口」信号交差点を右折します。   

 

「中山道 鴻巣宿」標柱と案内板 

 

                  

JR鴻巣駅に到着しました。時刻 12:20           

 

バスタ新宿に到着 時刻 14:10

電車を間違えて40分程ロス。都会の電車は田舎者には路線が複雑で難しい。

 

5:50新宿発の高速バスで帰ります。

20:40中津川駅着。バスの運転手さん、ありがとうございました。

2日間の中山道歩きですが、その後4,5日は筋肉痛が消えません。老いを感じます

日本橋まで残り50数kmとなりました。

10月中の天気の良い日にまた出発します。

 

次は「改定版 中山道歩き 鴻巣宿から浦和宿まで」です。