令和4年10月14日
歩いた時間 12時間20分 歩数 64,260歩
今回も、中津川駅発23:31の高速バスで出発しました。バスの中ではやはり今回も眠れません。新宿の手前で10分程ウトウトしたぐらいです。新宿に着くと、なんと雨が降っています。また天気予報に裏切られました。今日明日は晴マークだったのに
それでも鴻巣に着くころには上がるだろうと思っていましたが、鴻巣駅も小雨。雨の中を歩き始めました。
鴻巣駅6:40出発
鴻巣駅から中山道に向かいます。 鴻巣駅入口」信号交差点角の鴻巣宿の碑と説明板
木村材木店さんの向かいが鴻巣宿本陣跡でした。
今は歩道の端に標柱があるのみです。
ここでも時の大きな流れを感じます。
本陣が現存していた宿場は草津、落合、下諏訪、和田、これから向かう桶川・・まだあったかな
残念ながら記憶力が衰えているから・・・・・
勝願寺に行く前に雨がひどくなって来ましたのでコンビニで傘を購入しました。
「本町]信号交差点を右折して最初の信号を左折した所にある勝願寺。
仁王門
仁王像 (威圧感のないどこか愛嬌のある仁王様)
本殿
芭蕉の句碑 私には何と彫られているか分かりませんが
「けふばかり 人もとしよれ 初時雨」と彫られているそうです。
仙石秀久(小諸城主)の墓(左)・真田信重(真田幸村の甥)の室の墓(背の高い)・信重の墓・真田信之夫人小松姫の墓(右)
小松姫は、1620年(元和6年)、江戸から草津へ湯治に向かう途中、鴻巣で亡くなった。
※真田信之は真田昌幸の長男で、信繁(幸村)の兄でした。
※真田信重は真田信之の三男、母は本多忠勝の娘・小松姫。
勝願寺を出て再び中山道に戻ります。
鴻巣宿の碑 この辺りが江戸側の入口 鴻巣市産業観光館「ひなの里」
時間が早くてまだオープンしていませんでした。
箕田古墳群などから出土した品々 ショウケースの中のひな人形。
人形町 広田人形店など沢山の人形店がある街並み。
人形町の由来(二説あります)
天正年間(1573~1592)京都伏見の人形師が住みつき「雛人形」を作り始めたから。
もう一つは日光東照宮を修理した時多くの人形師が住みついたから。という二つの説があるそうです。
八幡宮 「深井2丁目」信号交差点脇にある「鴻巣宿
加宿上谷新田」の碑
ここまでが鴻巣市、交差点の先は北本市
東間浅間神社(あずませんげんじんじゃ)
御祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
末社は、天神社・八幡神社・弁天社。
東間浅間神社の由来によれば
「古来、山火鎮護・農蚕の守護神又婚姻子授、安産の霊徳神なり、初山に詣でる赤子は額に神宝の朱印を戴き、無病息災を祈願し出世を願ふうに崇敬きわめてあつし」
参道右側にある「庚申塚」 長い階段の上に社殿
東間浅間神社を出て最初の信号(徳樹庵という料理屋さん手前)を右折します。
左側に「一里塚」の 案内標識
「原馬室の旧一里塚」
中山道は線路反対側にある県道164号ですが、その昔は線路のこちら側を通っていました。残っているのは西塚のみで、東塚は明治16年(1883年)の鉄道敷設時に消滅。1750年頃までには中山道の道筋が現県道164号側に付け替えられて、この原馬室の一里塚は放棄されました。
一里塚から再び中山道に戻ります。
天神社
天神社の幟旗
文久元年(1862)6月に奉納された「市指定文化財(有形民俗文化財)」に指定されています。
天神社社殿
学問の神様である菅原道真を祀る神社です。
算額
算額は
「算学(和算)を学ぶ人々が、自分たちで発見した問題や解法を記録して、神社・仏閣に奉納した絵馬を、とくに算額と呼んでいる。
この算額には、関流(せきりゅう)算法を学ぶ市内11名、市外1名の人々が取組んだ問題と解法が記録されている。
掲額は明治24年と新しいが、当時の学問によせる当地のようすを伝える貴重な資料である。縦9ocm、横130cm」 北本市HPより
すぐ隣に多聞寺があります。
多聞寺 山門 本堂
開山は万治4年(1661年)。真言宗、智山派。本尊は毘沙門天立像。屋根上に見える木はムクロジ(推定樹齢200年)の木は県指定天然記念物です。
少し進むと右奥に観音堂があります。
観音堂 観音堂の六地蔵
観音堂の十三佛
不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩
「本宿」交差点の角に来ました。
説明板によれば、「今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。
現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。
宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場が置かれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れを癒し、次の宿場へと向かいました」
歴史を感じる建物が残っています。
ここから桶川宿に入ります。
大雲禅寺
上の寺と呼ばれた曹洞宗龍谷山。弘治3年(1557)の開山と伝わる。墓地には本陣を勤めた府川家や宿場縁故の家々の墓があります。本堂に向って右に3体の地蔵があり、手前が女郎買い地蔵です。由来は、この地蔵が夜な夜な飯盛り女に会いに出る。このため和尚が地蔵の背中に鎹(かすがい)を打ちつけ鎖で繋ぎました。これは和尚が寺の小僧の夜遊びを戒めるためであったらしい。
桶川市北一丁目歩道橋の柱の辺りに一里塚があったそうです。
説明書きによれば
「一 里 塚 跡
一里塚は江戸日本橋を起点として、一里(約4km)ごとに塚を築き、旅の道しるべとしたものです。 桶川宿の一里塚は、この付近の中山道の両側にあり、塚の上には杉が植えられ、その根元には石の妙見菩薩が祀られていました。
この一里塚は、明治9年(1876年)に取り壊されました。
平成21年12月 桶川市教育委員会」
東和銀行桶川支店前に市神社(いちかみしゃ)の跡碑
説明柱によれば
「桶川は 江戸時代の初めから中山道の宿場として繁栄していました。
また「五十の市」と言って毎月五と十のつく日(五日・十日・十五日・二十日・二十五日・晦日)に宿内の路上で米穀を中心に この地方一帯の農産物の商取引が行われ大変賑わったと伝わります。
そして、この市と宿内の人々を守る神様として祀られたのが市神社です。
今から280年以上前にこの旧中山道と菖蒲街道(現:稲荷通り)の三叉路の中央に東南に向けて建てられていました。
明治9年に交通の妨げになるとの理由で近くの稲荷神社に移され現在も八雲社として祀られています。
昭和63年3月 桶川市教育委員会」
観光案内所
きれいなトイレがありました。
桶川宿本陣(府川家) 江戸時代は皇女和宮の宿泊所となり、明治十一年の明治天皇行幸の際には改築されて使われたそうです。埼玉県内で唯一現存する本陣です。
矢部家
「木半」の屋号を持つ矢部家の蔵造建物。明治前期に建てられたもので、川越の蔵造り商家を建てた棟梁の手になるものと伝えられている。戦前まで米や麦の集荷問屋で、広い土間には収穫期には米や麦の俵が山積みされ店の裏にある3棟の蔵に次々と運び込まれた。屋号の「木半」は、稲荷神社にある「紅花商人寄進の石燈籠」にその名が刻まれており、「木嶋屋半七」に由来すると云われている。
小林家住宅主屋
昔は旅籠屋でしたが材木店になっています。
当時の古い建物がそのまま残っています。
幕末に紙屋半次郎がここで旅籠を営み、大正時代に改築されたが内部の間取りは昔の名残を残す。和宮が本陣に泊まったとき、付き添いの山岡鉄舟はここに泊まっており、自筆の宿帳も残る。
「富士見通り」交差点から上尾市に入ります
庚申供養塔 「久保西」信号交差点の須田家
須田家は紅花の仲買問屋で豪商です。須田代八郎は江戸時代後期の久保村(現上尾市)の豪商、南村(現上尾市)須田家の分家で醤油醸造・質屋を営み、本家とともに穀物・紅花の取引を行っていました。
英泉の桶川宿の絵
「北上尾駅入口」交差点を通過します。
「緑丘地下横断道」信号交差点角の案内板と上尾宿の碑
屋根に火事除けの鍾馗(ショウキ)様が乗っています。
「図書館西」交差点角の庚申塔
次の信号交差点を左折すると先の方に遍照院があります。
遍照院本殿
遍照院は江戸時代に寺領20石の朱印地を与えられた大寺であった。
『新編武蔵風土記稿』によると、京都御室(おむろ)の仁和寺(にんなじ)の末寺となっています。
遍照院の本尊は不動明王で江戸時代の作です。木造毘沙門天立像の制作年は古く鎌倉時代末から南北朝期と推定され、この像の厨子(ずし)扉内側にある朱字銘には、「岩槻城主大岡越前守忠正公守本尊」とあり、由緒のある立像であることを伝えている。
本陣跡にある中山道上尾宿の説明板
中山道上尾宿の始まりや由来、本陣(本陣 1軒、脇本陣3軒)についての説明が書かれている。
本殿
寛永9年(1632年)創建の氷川鍬神社は、上尾宿発祥の地であり、総鎮守である。鍬祭りとして鍬を祀ったのが由来で、小さな鍬2丁を神体とし、五穀を司る農業神を祭神とする。
「鍬大神宮」「御鍬大明神」と称し、明治41年(1908年)に二ツ宮氷川神社(在・上尾市上尾村)の女体社を合祀して現在の社号となった。 地元では「お鍬さま」の愛称で親しまれている。
庚申塔(不動尊の道標)
馬喰新田バス停のすぐ脇にある川越道の道標を兼ねた庚申塔。正面には青面金剛が彫られ横に「是より秋葉へ十二町 ひご方へ壱里八町 川越へ三里」と刻まれています。
さいたま市に入ります。 創作漬物 河村屋
江戸文化文政期に地酒「養老の瀧」を取り扱っていて、その酒粕を利用して粕漬を創り出したのが「創作漬物 河村屋」の始まり。
河村屋では、昔から一貫して国産野菜にこだわりをもって漬物を作っているそうです。
南方神社(みなかたじんじゃ)
江戸時代の『五街道細見独案内』に、諏訪神社として登場する神社です。
旧吉野村の鎮守で諏訪社とも呼ばれたが、明治40年近隣にあった9社を合祀し、現在の名前となりました。
地元では「お諏訪さま」と呼ばれている。
宮原小学校の栴檀(センダン)の木
大宮市指定文化財天然記念物
英泉の上尾宿の絵
国道17号バイパスの下を通ると左側に見えて来ました。
加茂神社
創建は不明。
祭神は、五穀豊穫と子孫繁栄の神を意味する別雷命(わけいかずちのみこと)。
この神社は、天正10年(1582)の文書で加茂宮と記載されている古社であり、山城の国、賀茂別雷(かもわけいかずち)神社から勧請したと伝えられる。
明治6年に村社となり、明治40年には近辺の7社を合祀した。本殿は文政10年(1827)に再建されたものである。
天神橋の 庚申塔 天神社
「宮原駅入口」交差点を通過します。 果物屋「花銀」さん前交叉点角
宝暦9年(1759)の橋供養塔
昔ここに橋が掛かっていて 橋を作った際、袂に置かれたものだそうです。
国道17号線と新幹線の高架下を通ります。
東大成(ひがしおおなり)の庚申塔 元禄十年(1697)の建立です。
東大成の庚申塔は猿田彦大神が祀られています。
ロッテリア隣の南無三界萬霊塔 安永六年(1777)の銘がある
三界とは、仏教で、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する欲界・色界・無色界のことで、そのすべてにある霊を供養する塔という意味です。
JR線の地下道を通ります。
地下道を出て100m程で氷川神社 裏参道入口を左折します。
氷川神社にお参りします。参道を進んだところは迄は良かったのですが、広い大宮公園に入り込んでしまい全く方向が分からなくなってしまいました。公園を掃除していた人を見つけて教えて頂きました。20分程ロスしました
i公園からどの道を進んだのかいきなり氷川神社桜門の横に出ました。
舞殿
拝殿
神池の橋
三の鳥居
戦艦武蔵の碑
武蔵の艦名は埼玉県、東京都、神奈川県北東部の旧国名である「武蔵国」に由来し、乗組員の拠り所でもあった艦内神社として武蔵一宮氷川神社の分社である武蔵神社が艦内に祀られていました。当時の世界最高水準である造船技術と、類まれなる操船技術で、不沈艦の相応しい最期を遂げた戦艦武蔵と乗組員の不屈の武蔵魂を後世に伝承し、先人たちへ感謝を捧げ、未来永劫、顕彰していくべく、この顕彰碑を建立する。
(設立趣旨より)
二の鳥居
二の鳥居を過ぎ参道交番のある交差点を右折し「大宮駅東口入口」交差点を右折し「すずらん通り」にある臼倉新右衛門本陣跡をさがしましたが跡地は居酒屋さんになっていました。結局分からず諦めました
一の鳥居から再び中山道に戻りました。
ケヤキ並木を歩きます。
一本杉の仇討ち碑
この事件は万延元年(1860年)常陸国鹿島津の官沖の船中で水戸藩士宮本佐一郎と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ、斬り合いとなり宮本佐一郎が命を落としたことに端を発する。
河西はこの斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された事件の逃盲者と疑われ吟味を受けた。
そのため、居所が宮本佐一郎の息子である宮本鹿太郎の知るところとなった。 鹿太郎は四年後丈久4年(1864年)1月28日の早朝、3人の後見人と共に仏門に入ろうと不動岡総願時から江戸へ向かう河西を針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごとに父の仇を討って本懐を遂げたと伝えられている
「大原陸橋(東)」交差点の「針ヶ谷の 庚申塔」
英泉の大宮宿の絵
廓信寺参道入口のサツマイモ「紅赤の発祥地」説明板
「江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で、「アカヅル」、「アオヅル」 という良い品種を持っていた。
ところが明治31年(1898)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
発見者はここの農家の主婦、山田いち(1863-1938)だった。いちは皮が薄紅色の 「八ッ房」 を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、鮮やかで美しいいもが出てきた。八ッ房が突然変異したもので、形も味も素晴らしかったため大評判になった。
いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(1885-1938)がいた。この新しいいもに惚れ込み、「紅赤」 と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。
そのため紅赤(俗称金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」 と謳われるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上がった。
昭和6年(1931)、山田いちは財団法人、富民協会から 「富民賞」 を贈られた。それは我国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。
今年、平成10年(1998)は紅赤発見から100年になる。さしもの紅赤も最近は新興の 「ベニアズマ」 に押されて振るわくなったが、このいもほど寿命の長いものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥の地にある廓信寺の一角に、この功績案内板を設置することになった。
廓信寺(かくしんじ)
廓信寺の仁王門
「北浦和駅東口」を通過します。 浦和橋を渡ります。
成就院入口
浦和宿二・七市場跡と慈恵稲荷神社 二と七のつく日に市が立った。
豊臣秀吉の家臣浅野長政が許可した。
市場道にある野菜を売る女性の像
浦和宿本陣は仲町公園になっています。本陣跡には「明治天皇行在所址」があります
浦和宿道標
およそ1800年前に創建されたとされています。
調とは、租・庸・調の調で、伊勢神宮へ納める貢物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わっている。鳥居の無い神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも特徴的です 。
調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代には月読社とも呼ばれていたようです。 今も兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が配されています。
すっかり暗くなってしまいました
ここから焼米坂近くまで行き、南浦和駅東口のホテルに向かいます
19:00ホテルに到着しました
ホテル近くの日高屋で
次は「中山道歩き 浦和宿から日本橋まで」です。頑張るぞー