令和4年9月12日

歩いた時間  9時間30分       歩数  49,754歩

 

前日の23:31中津川駅前から高速バスで出発し4:52バスタ新宿着。

JR新宿発5:02でJR松井田駅に7:54着。中山道に向かいます。

 

JR松井田駅

 

松井田郵便局からスタートし100m程先を左へ入ります。

 

八幡宮があります。

 八幡宮の扁額が掛かる石鳥居 

長い参道石段の奥に八幡宮拝殿

創建年等の詳細は不詳ですが鎌倉時代初期の建久8年(1197)に源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)が参拝に訪れたとの記録がある古社です。

昭和33年(1962)に群馬県指定重要文化財に指定されています。

祭神は誉田別命、息長足姫命、玉依姫命。

       

八幡宮境内にある庚申塔

 

中山道に戻ると「高橋商店」の前の街頭柱に

上木戸跡地の案内板があります。

それによると10m程先の歩道橋の辺りが上木戸跡地です。

 

              

その歩道橋です。

高札場跡の案内板

高札場も先程の歩道橋の辺りにあったそうです。

 

150m程先の左側に無料休憩所があります。その手前の路地に入ります。

松井田不動尊

 

不動寺の県指定重要文化財仁王門 

不動寺の県指定重要文化財の石塔婆 観応三年(1352)などの文字が刻まれている。

 

不動寺本堂(松井田不動尊)             

鐘楼堂 

 

仏様をお守りする阿吽の金剛力士像

 

中山道に戻ります。

 

休憩所がありました。                     

 

 

松井田町道路原標           

「仲町」信号交差点左角にあります。  

                   

「仲町」信号交差点の先右側に松井田宿金井本陣(字仲町藤右ヱ門屋敷)跡があります。現在は群馬県信用組です。本陣跡を示すものは何もありません。

天保14年の記録では本陣2、脇本陣2,旅籠屋14軒でした。

 

 

「山城屋酒店」この辺りに外郎(ういろう)陳道斎の店があったそうです。

陳道斎が創製し伝えたとされる万能薬(頭痛や口中の不快感などに効く丸薬)が「外郎」という通称で呼ばれるようになりました。父は元からの亡命者で医術に長けていた。

 

崇徳寺入口  臨済宗妙心寺派のお寺です。

南北朝時代の歴応3年(1340年)に、足利尊氏が開基となり創建されたと伝わる古刹です。 

 

  

 脇本陣字下町徳衛門屋敷)跡

      

道路反対側に「かんべや」二階の古い看板に妙義山登山口と書かれている

江戸時代にはここから妙義山を目指す人で賑わったようです。

                   

 

 

「下町」信号交差点角の下木戸跡地の説明板

 

安中宿に向かいます。

 

松井田宿から続く県道を右に入ります。        

 

振り向くと妙義山  赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられています。 

荒々しく尖った峰々が人を寄せ付けない厳しさを感じます。

 

 

左側に供養塔や石祠群があります。

 

国道18号線に合流します 

酒盛城跡説明板

   酒盛城跡

左側のリホーム会社の庭先に酒盛城跡があります。            

武田信玄・勝頼が松井田城を攻略した際にこの砦で酒盛りをしたと伝わります。

松井田城を攻める際の攻撃拠点として築いた簡易的な陣営だったと思われます。

国道が貫通し、城域内とされる場所は完全消滅しました。

 

500m程先の旧中山道入口」信号交差点右側に

妙義山道を示す妙義山常夜灯、道祖神

安中市指定重要文化財郷原の妙義道常夜燈の標柱などがあります。

常夜灯の台石には「是より妙義道」と刻まれており、妙義神社の参詣者のための道しるべとなっていました。

 

このY字路を左に入ります。

Y字路にはコンビニがあります。

中山道(県道216号)を進みます。

 

コンビニから300m程進んだ所に

 

荒木流拳法山中秀次道場跡 

※荒木流拳法(あらきりゅうけんぽう)は、安土桃山時代(天正年間)に荒木夢仁斎源秀縄(むにさい げんひでなわ)によって創始されたとされる古武道の流儀です。   

 

山中秀次道場跡から100m程先の右側に道祖神

 

「岐蘇路安見絵図」に「いちりつか人家の内に有り」と記されていてこの道祖神から700m程先の道祖神の間の辺りではないかと云われています。場所は特定されていませんが郷原村に一里塚があった事は間違いない。

江戸まで31里目の一里塚です。郷原の一里塚と云われています。

 

500m程先に

民家に「磯貝雲峰・・・・」と書かれた家形木札が立っています。

群馬県安中市出身の**磯貝雲峰(いそがい うんぽう・本名・由太郎 1865年 - 1897年)は、明治時代に活躍した新体詩の先駆的な詩人です。後の島崎藤村や土井晩翠といった象徴主義の詩人たちへの重要な橋渡し役を果たしたと云われています。

新島襄と同じ米国アーモスト大で学んだが、病気のため帰国。三十二歳で死去した。

 

先ほどの道祖神から700m程先に

 

道祖神と百番供養碑   

※百番供養碑は100箇所の観音めぐりを成就した記念碑

 

自性寺  真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)のお寺。

寺標に「慶光山 自在院 自性寺」 境内には、安中市の重要文化財に指定されている宝篋印塔(ほうきょういんとう)があるそうです。新島襄先祖の墓があるそうです。

 

 

自性寺の隣に日枝神社 明治44年に再建。一つの寺院だったものが、神仏分離によって分かれたようです。 

 

日枝神社前の畑に咲いていたピンクの花

 

100m程先の左側に

 

民家の庭先に馬頭観音 画像では分かりにくいが馬頭観世音と刻まれています。     

 

少し先の左側にめずらしい「つるべ井戸」

 

500m程先に道祖神

 

道祖神と石祠

 

さらに600m程先に

八本木戸長役場跡

※戸長役場 明治時代初期に戸長が戸籍事務などを行った役所のことをいい、現在の町村役場の前身にあたります。

 

500m程先に

 

八本木延命地蔵尊 

八本木地蔵堂  安中市指定重要文化財             

 ご本尊延命地蔵菩薩像は木像寄木造りで、総高1.15m、金箔半跏趺坐像で、室町時代初期の作と推定される。本尊は100年毎に御開帳されるそうです。
 

 

 聖徳太子孝養の像

  聖徳太子は、法隆寺建立など寺院建築史上でも大きな存在だったところから、建築関係の職人の信仰対象となり、職人たちの守護神として早くから崇められるようになりました。

 

安中最古の庚申石祠     寛永二年(1625)造立

 

広重の安中宿の絵

 

中山道に戻り坂を上ると右側に

 

八本木立場茶屋跡があります。         

「山田屋」と呼ばれ、山田卯兵衛家が代々茶屋本陣を務めていたと伝えられています。現在も山田家が所有する白壁・出梁造りの建物が残されています。

街道に面した側に「八本木旧立場茶屋」の表示が出ています。

 

 

二階建の蔵                    

 

原市町道路原標

 

 

明治天皇原市御小休所碑          

明治11年(1878)北陸東海巡幸の際9月5日御小休所となりました。

当時ここに茶屋本陣がありました。

同じ敷地に原市高札場跡

 

 

原市村戸長役場跡  碓氷郡原市村であった頃の役場跡です。

            

立派な構えの旧家があります。

 

杉並木   江戸期には700本余りの杉並木があったが残された杉は立派で、国の天然記念物に指定され現在は10数本を残すのみとなっている。

 

 

天然記念物安中原市杉並木の標柱 

 

    ​​​​​​杉並木説明板があります。​

大きな料理屋さんの向かい側に安中原市杉並木説明板があります。

「今や枯死寸前の杉並木ではあるが、市民の関心と理解、行政の協力により、後世に伝えていかなければならない」と訴えています。

 

500m程先の 

 

「ホテルルートイン安中」の前に道祖神があります。

 

ここから200m程先の「ゴルフクラブ修理アーバン4」の辺りが一里塚跡と云われています。この辺りは一里山と呼ばれていました。江戸まで30里目の一里塚です。一里山の一里塚と云われています。

 

18号線を横断し500m程進むと右側にまた天然記念物安中原市杉並木の標柱。

 

天然記念物安中原市杉並木の標柱の先に新島襄旧宅入口の碑道祖神があります。

 

                     

新島襄旧宅

新島襄は明治7(1874)年11月29日、この家で10年ぶりに父母姉妹と再会しました。ここは新島襄が脱国から米国での苦学の経験を活かし、日本での活動を始める第一歩となった場所です。その後、襄は京都に同志社英学校を設立し、キリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23(1890)年1月23日に神奈川県大磯で亡くなりました。

(安中市HPより)

 

中山道に戻り5分程進んだ左側に常夜灯があり奥に愛宕神社があります。  

   

さらに5分程進むと右側に竜昌寺の案内 があります。今回は通過します。  

 

50m程先の右側に 便覧舎址があります。

湯浅治郎は明治5年(1872)、私費を投じて和漢や西洋の古書や新刊書を購入し、約3千冊の本をそろえて通俗図書館便覧舎を創設しました。

民間人が創設した最初の図書館です。

その後、便覧舎は明治20年(1887)の火災で全焼しました。

 

便覧舎址の向かい側に醤油専門店の有田屋があります。

 有田屋の蔵  醤油醸造元          

江戸末期・天保3年(1832)に味噌・醤油醸造元として創業。かつては安中藩の御用達を勤め、味噌・醤油の醸造の他、穀物、油脂、肥料、塩等を扱う商家として営業をしてきました。 

  

有田屋店舗と工場

      

 300m程先の左側に蔵造のサカウエ薬局があります。                    

 その先右側に

安楽寺山門があります。天台宗のお寺です。

 

安楽寺の斜め前に

長徳寺があります。時宗のお寺です。 

時宗は、一遍上人を宗祖、真教上人を二祖として両祖の教えを基に、名号「南無阿弥陀仏」を拠りどころにする浄土門の一流です。総本山は東海道藤沢宿の遊行寺。

 

信号交差点に東和銀行があります。

案内板に従い左に進みます。

 

長徳寺を過ぎて信号交差点を左折し、その先の信号交差点を左折し安中藩武家長屋へ

工事中で見学できませんでした。

 

 

交差点に戻ると安中市指定重要文化財の     旧安中藩郡奉行役宅

旧安中藩郡奉行役宅があります。

この建物は 、幕末から明治初年にかけて猪狩幾右衛門懐忠(やすただ)が安中藩の郡奉行として住んでいました。
 

中山道に戻らずに交差点を直進すると左に   

日本キリスト教団 安中教会 新島襄記念会堂があります。          

 

1878年に新島襄から洗礼を受けた30名によって安中教会が創立されました。新島襄が亡くなって30年後にあたる1919年(大正8年)、彼の功績を記念して会堂が建てられました。

 

その先に旧碓氷郡役所があります。

大正15年7月1日碓氷郡役所は廃止となりました。

現在残っているのは碓氷郡役所の建物だけです。

平成8年度から地域文化財保全事業により、改修、保全し公開されています。

 

旧碓氷郡役所の前で右折して中山道に戻ります。

右折して下り坂の途中に「使者場入口」の立札があります。

安中城の城門は、東門、大手門、町口門、坂口門、中門、西門などがありました。
お城は、明治六年の廃城令によって、取り壊されました。

 

坂を下り伝馬町交差点を左折しで中山道に戻ります。

100m程先の右側に郵便局があります。

郵便局の前庭に「安中宿須藤本陣跡碑」があります。江戸時代、敷地は1000坪ほどの広さでした。

天保14年の記録では本陣1,脇本陣2,旅籠屋17軒でした。

 

この先の信号交差点手前に熊野神社参道があります

この交差点が安中宿下木戸跡です。

 

この先、「下野尻」信号交差点で国道18号線に合流し歩道橋を渡り左側の歩道を歩きます。

 

                     

碓氷川に架かる久芳橋を渡ります。

 

右斜面に東邦亜鉛株式会社 安中精錬所がみえます。

 

久芳橋を渡るとすぐ左に下りる階段があります。細道を抜け中山道に出ます。

 

中山道の案内表示が無いので心配しながら進みました。結局道を間違えて歩いていました。どうにか県道171号線「中宿(なかやど)」交差点に出ましたが途中にあった中宿の一里塚を見落としました。江戸まで29里目の一里塚です。

引き返すだけの気力がありませんでした。

 

後日地図を調べたところ、中宿の一里塚はここから1分程の所にあったのにえーん

野尻の里農産物直売所

 

中山道はこの171号線に合流します。

交差点の向こう側に神社があります。

 

諏訪神社                  

諏訪神社本殿

創建は安土桃山時代の天正年間(1573~1591)で、中宿の鎮守です。
御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、菊理比咩命(くくりひめのみこと) 等です。

 

 

碓氷川に架かる鷹巣橋を渡ります。 

 

橋からのぞくと大きな鯉(?)が泳いでいます。     

 

板鼻宿碓氷の渡し場跡 

 

橋を渡り「鷹巣橋東」信号交差点を右に進みます。

左側に鷹巣神社の社標があります。

 

鷹巣神社 参道は県道171号で消えています。   

 

古久屋旅館の前を通ります。

 

 

板鼻堰用水 碓氷川と九十九川の合流地から取水し、高崎市西部へ流れる用水です。

 

300m程先に    

忠魂碑 隣の建物は八坂神社神輿収納庫。

 

忠魂碑から100m程先に

ちょうちん屋跡   土蔵造りの家です。

 

隣に

板鼻公民館入口  駕篭の形のモニュメントに「中山道板鼻宿」と刻まれています。

 

板鼻宿本陣跡   今は碑があるのみです。 

跡地は公民館になっています。皇女和宮の宿泊地にもなった所です。

天保14年の記録では、本陣1、脇本陣1、旅籠屋54軒でした。旅籠屋が多いのは碓氷川の流量による川留めがある事と、隣の高崎宿が城下町で規制が厳しかったことにより、高崎宿を通過して板鼻宿で宿をとる人々で繁盛したようです。

 

 

「板鼻宿」信号交差点に「板鼻町道路元標」

  

板鼻宿の古民家

 

 

第九中仙道踏切をわたります。    

 

入沢製作所の脇に庚申塔と地蔵尊があります

 

 

双体道祖神                 

 

板鼻橋を渡ります

 

県道に合流する手前に

 

金井方平翁頌徳碑と板鼻土地改良記念碑 

 

「板鼻下町」信号交差点で18号線に合流

 

 500m程先に寒念仏橋(かねつはし)供養塔があります。
「坂東 秩父 西国 橋供養」と刻まれています。
                                                                                          

高崎宿まで4.6kmです。この辺りまでが板鼻宿です

 

八幡大門信号交差点から見た八幡宮の大鳥居

上野國一社八幡宮の鳥居。天徳元年(957年)の創建。境内敷地は約9,000坪で、源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていました。

 今回は通過することにしました。

 

英泉の板鼻宿の絵

 

手持ちの資料では八幡大門信号交差点を右折して18号線の側道を進み「小林山入口」交差点で18号線に合流しますが史跡らしきものは無い道ですので、18号線をそのまま進みます。

500m程先の「小林山入口」交差点左角にダルマ屋さんがあります。 

塗装前の白いダルマが並んでいる。 

 

ダルマ屋さんから500m程先の左側茂みの中に 藤塚一里塚跡

群馬県下で、唯一現存する一里塚跡

道路が広く交通量も多くて向こう側にわたれません。

 

「上豊岡」信号交差点を左に入り500m程進むと、「日石灯油」の看板の出ている米屋さんの手前に「湯沢のお地蔵様」があります。

宝暦三年(1753)、飯野家が建立し、安政三年(1856)に再建しました。

戦時中は召集令状を受けた者が必ず地蔵に参拝し、全員無事帰還したそうです。

中央の如意輪観音は女人講として造立され、女性病平癒や安産祈願と結びついています。右側は「二十二夜塔」です。

 

 

 

和宮が休憩をした上豊岡の茶屋本陣     

 

まつもと商店 だるま工房

 

すぐ先の右側の飯野石材さんの手前角に庚申塔。

 

豊岡小学校の手前右側に若宮八幡宮。

江戸末期には江戸火し消新門辰五郎、明治期には乃木将軍が参拝され、当時は参拝客が絶えなかったそうです。

 

若宮八幡宮から1km程進み国道に406号線に合流する手前左側に中山道高崎追分と八坂神社があります

下豊岡みちしるべ

烏川を渡って中山道を西へ進むと、右に折れる道が信州街道で、古くは「信州みち」、草津温泉へ通じることから「草津みち」とも呼ばれていた。現在の八坂神社付近がその道筋で、かつて2つの道しるべがあり、その一つ「下豊岡の道しるべ」は高さ198cm・厚さ36cmの安山岩製尖塔角柱で、草津温泉など温泉地への案内を目的に建てられたと考えられる。

 

国道406号に合流し200程先の左側に

     

石神社があります。

境内には道祖神や石祠があります。

 

「君が代橋西」信号交差点で国道18号線に合流します。

 

 新君が代橋を渡ります。

 

君が代橋から榛名山系が見えます。榛名山系中央部付近の富士山のような形をした山が榛名富士です。右端が浅間山です。

 

 広重の高崎宿の絵

 

橋を渡ったのは良かったのですが 道路が複雑に交差して中山道が何処にあるのか分かりません。

どうにか中山道に戻りましたが20分程時間ロスしました。

 

杉並木を通り、ボーリング場の前を通ります。

 

 

「常磐町」信号交差点角に「山田文庫」があります。

 

 

明治・大正・昭和と高崎の産業界で中心的な役割を担った山田昌吉、山田勝次郎らの居宅でした。

1974年に勝次郎が創設した(財)山田文庫の図書館として、現在は一般に公開されています。
 

 

右側に岡醤油醸造(株)があります。     

 

番所跡  今は赤坂公民館です。

 

番所跡の向かい側に長松寺があります。

三代将軍家光の弟忠長は家光との確執により父秀忠の死後高崎城内に幽閉され寛永10年(1623)28歳で自刃して果てた。この自刃した部屋が長松寺に移設されています。
 

恵徳寺

恵徳寺を開山した大光普照禅師は直政公( 高崎城初代城主 )の信任厚く、 ある時 「和田の名称を松崎と変えたいが」 の問いに 「松は枯れるが高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」 と進言。直政公多いに喜び『高崎』と命名したと云う。

(曹洞宗恵徳禅寺の由緒・開山説明板より)

 

高崎神社

もとは熊野神社といい、紀州の熊野の神を祀っている。伊邪那美の神を主神とし、その他に速玉男神と事解男神とが合わせ祀られている。伊邪那美の神は、伊邪那岐の神と夫婦の契りを交わし、結びの神と崇められている。

 

本町1丁目、2丁目を通過し3丁目を右折、九蔵町交差点を左折して九蔵町の一里塚

に行くところを直進して高崎駅方面に進んでしまいました。えーん

江戸まで26里目の一里塚です

 

 

 

 

次は 改訂版 高崎宿から新町宿まで」です。