思い出の「ねじ式」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 つげ義春(1937年10月30日生~)の短篇マンガ「ねじ式」は、昭和43年(1968年)6月10日に刊行された「月刊漫画ガロ」6月増刊号「つげ義春特集」に発表されましたが、発表即古典視され、各種のアンソロジーに再収録される定番となった作品です。小学校高学年の頃の筆者も「図書館に置いてあるマンガ」と『つげ義春作品集(現代漫画の発見1)』(後述)でこの短篇をうっかり読んでしまい、いまだに初めて読んだ時の衝撃力は消えません。つげ義春は「ガロ」の同特集号に3篇の新作を発表する予定だったと後で知りましたが、結局1篇だけ発表された新作「ねじ式」は誰もが予想しなかった画期的作品になったのです。「ねじ式」の作風は必ずしもつげ義春の典型的作風とは言えないものですが、もっともらしいことを言えば、この23ページの短篇マンガ「ねじ式」ほど毀誉褒貶に包まれながら、日本のマンガ表現史の上で無視できない作品はありません。

 つげ義春は小学校卒業後、メッキ工場で働きつつ生計の足しのために独学でマンガ執筆を始めて手塚治虫を訪ね、17歳の昭和29年(1954年)10月に芳文社の「痛快ブック」に1ページの「犯人は誰だ!!」、4コマの「きそうてんがい」を発表、翌年の昭和30年(1955年)には若木書房から貸本マンガ『白面夜叉』(5月、128ページ)、『涙の仇討』(6月、128ページ)、『愛の調べ』(9月、128ページ)、『片腕三平』(10月、128ページ)、ひばり書房から『戦雲のかなた』(11月、144ページ)を発表、原稿料は買い取りでメッキ工場の月給7000円の4か月以上になる1冊3万円を受け取り多作家となりましたが、実家を離れマンガで自活するようになったのは20歳になった昭和32年(1957年)秋のことでした。その後は貸本マンガの多作時代が続くも、貸本マンガ業界が不景気になり行き詰まりになったのは27歳の昭和39年(1964年)で、この年にも3冊の描き下ろし単行本を発表していますが、活路が開けたのは翌昭和40年(1965年)のことで、この年に前年から創刊されていた青林堂の成年マンガ誌「ガロ」に執筆者として招かれ(「ガロ」編集長の長井勝一は貸本時代からつげ義春に注目し、つげ義春の連絡先を「訊ね人」欄で探していました)、白土三平、水木しげるの知遇を得て自作発表のかたわら白戸三平の取材旅行への協力や、水木しげるのアシスタントを務めることになります。
 つげ義春は「ガロ」への初発表作品「噂の武士」(昭和40年8月、13ページ)を経て、翌昭和41年(1966年)から私小説的な意欲作「沼」(2月、14ページ)、「チーコ」(3月、18ページ)を発表、当初不評に終わるも以降の「ガロ」発表作品は名作・佳作・異色作の連続となって評判を呼び、昭和42年(1967年)・昭和43年(1968年)には年に7篇ずつ話題作を発表、昭和43年には描き下ろし短篇「ねじ式」の初出となる「月刊漫画ガロ」6月増刊号「つげ義春特集」が組まれるほどになりました。昭和44年(1969年)にはのちの夫人・藤原マキを知り、同年は水木しげるのアシスタントのみを務めて発表作品はありませんが、単行本は『つげ義春作品集(現代漫画の発見1)』(青林堂、4月)、『つげ義春初期短篇集』(幻燈社、9月)、『つげ義春集(現代コミック8)』(双葉社、12月)が刊行され、翌昭和45年(1970年)にかけて「つげ義春ブーム」が到来、これまでにない印税が入るとともに夫人と結婚、エッセイストとして「アサヒグラフ」の紀行文の連載を依頼され、一躍時の人となりました。一方同年からマンガ作品は寡作になり、「ガロ」への新作発表も昭和45年の2月・3月に前後編で掲載された「やなぎ屋主人」(40ページ)で終わっていますが、つげ義春の「ガロ」発表時代は樋口一葉晩年の(「大つごもり」から「裏紫色」に至る)「奇跡の14か月」に相当するものと言っていいでしょう。1965年~1970年というとちょうど日本のポピュラー音楽界ではグループ・サウンズの発祥(スパイダース、ブルー・コメッツのデビュー)から終焉(タイガース、テンプターズの解散)の時期に当たるのは、不思議な暗合を感じさせます。
 以降つげ義春は年に1~4篇の新作短篇マンガをたびたびの休筆期間を挟みながら断続的に発表するとともに、主に旧作の再単行本化による印税を頼りにエッセイとイラストが中心の執筆活動になり、50歳の昭和62年(1987年)の短篇マンガ2篇が現在まで最後のマンガ発表になっています。平成4年(1992年)にはつげ作品の初の映画化『ゲンセンカン主人』(石井輝男監督)が行われ、平成5年(1993年)から平成6年(1994年)には筑摩書房から全9巻の全集『つげ義春コレクション』(「ガロ」発表以降の作品は全篇収録、貸本時代の作品は自選集)が完結するも、平成9年(1997年)には夫人が胃癌を発病、精神的な危機に襲われます。平成10年には石井輝男監督による映画化第2作『ねじ式』が公開、またテレビ東京でテレビドラマ「つげ義春ワールド」(全12回)が放映されるも認知症の母、入院中の夫人の看病に追われ、平成11年(1999年)には1月に母が逝去、2月には夫人・藤原マキが闘病の末逝去し、マンガ執筆の意欲も失います。以降は数次に渡る再編集単行本の刊行のたびに海外でも評価が高まり、83歳の令和2年(2020年)にはフランスのアングレーム国際コミック・フェスティヴァルで初の本格的原画展(250枚以上を展示)が行われ初の海外渡航、同年4月より貸本時代の全作品まで収めた全22巻の完全版全集『つげ義春大全』(講談社刊)が刊行開始されています。また令和4年(2022年)3月1日にはマンガ家初の芸術院第ニ部会員(第一部は美術、第二部は文芸、第三部は音楽・演劇)に、ちばてつや(1939~)とともに就任しました(令和6年/2024年3月1日には3人目の芸術院会員マンガ家として萩尾望都が就任)。
 以上、つげ義春の経歴だけ追って23ページの短篇「ねじ式」についてはほとんど触れていませんが、「『つげ義春特集号』のために3篇の新作を依頼されたがまったくアイディアが浮かばず、締め切りギリギリになって1篇だけやけくそで、屋台のラーメン屋で眠りこんだ時に見た夢を描いた」と作者が証言する同作は各社からのマンガ文庫類には必ず収録されており、「ガロ」時代の代表作として昭和42年(1967年)の「紅い花」(10月、16ページ)と並んでもっともよく知られた作品ですので、新刊本でも電子書籍でも古書でも容易に入手できます。大友克洋(次に芸術院会員入りするのはこの人か、吉田秋生でしょう)の『童夢』(昭和58年/1983年)とともに、手塚治虫に始まる現代マンガの表現方法を一変させた画期的な1作です。日本語版ウィキペディアにも短篇マンガとしては異例なほど詳細な研究ページが割かれ、英語版ウィキペディア(「Screw Style」Japanese: ねじ式, Hepburn: Nejishiki)では「戦争のイメージが全編に散りばめられ、日本人の戦争体験を暗喩した作品」との独自研究がなされていますが、そういうものでもないでしょう。のちの大友克洋作品『童夢』(1983年)同様あまりにインパクトが強烈で、独創的なイメージがくり広げられるため、パロディや模倣作を続出させ、同作の技法がマンガ界全般にもたらした影響も『童夢』と並ぶ、屈指の作品でもあります。電子書籍化もされているため、携帯電話に入れておけばすぐに何度でも読み返せます。平成30年(2018年)には昭和40年~昭和45年の「ガロ」発表作品全23篇を雑誌原寸大で収めた『改訂版ねじ式・つげ義春作品集』(青林工藝舎、1月)で2色カラー復刻・「ガロ」掲載型のまま読めますので、貸本時代の全作品まで含む全22巻の『つげ義春大全』(講談社刊)は荷が重いとしても、文庫化もされてロングセラーになっている全9巻のちくま文庫版自選全集『つげ義春コレクション』の全巻揃いと、青林工藝舎版『改訂版ねじ式・つげ義春作品集』(今回掲載したのは同書の初出型によるもので、「眼医者」のコマでは上手の看板が「眠社」になっています)まで手を伸ばして悔いはないのを保証します。一見難解で前衛的に見えながら、これほど無類に面白く、何度でも読めるマンガはありません。