ボブ・ディラン「追憶のハイウェイ61」再訪(Revisited)・前編 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

◎Bob Dylan - Highway 61 Revisited (Columbia, 1965) 

 一定の訳語が定着できない英単語にRevisitedというやっかいなニュアンスを持った言葉があります。現代文学の古典の題を例に上げればスコット・フィッツジェラルドの「バビロン再訪 (Babylon Revisited)」(映画『雨の朝、パリに死す』の原作です)、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび (Brideshead Revisited)』(『青春のブライズヘッド』とも訳されています)などがありますが、これにも触れるとしたら前後編を割かなければなりません。今回対象にするのはボブ・ディラン24歳の時の楽曲「追憶のハイウェイ61 (Highway 61 Revisited)」です。フィッツジェラルドやウォーの名作の翻訳からRevisitedの訳語を借りれば、

「ハイウェイ61再訪」
「ハイウェイ61に死す」
「ハイウェイ61ふたたび」
「青春のハイウェイ61」

 --といったところですが、最後のはいくら何でも意味を限定しすぎて無理があります(アイロニーとしてはありとしても)。「ハイウェイ61に死す」というとまるでリルケの『マルテの手記』1909の、当時としては衝撃的な冒頭、

「人々は生きるために都会に集まるのだという。だがむしろぼくには、ここでは誰もが死ぬためにやってくるとしか思えないのだ」

 --を彷彿させもして(ハイウェイは生きるための場所であり、死ぬための場所ではないですから)、しかし自動車やバイクには危険はつきものですから(実際ディラン本人が翌'66年にバイクで首を骨折し、活動再開まで1年かかるほどの転倒事故に遭います)ディランがハイウェイを暗喩にした歌詞を書いたのはリルケ的な発想と言うことができ、先の引用文の「都会」を「ハイウェイ」に置き換えるとそれは明瞭です。ディランは『マルテの手記』など読んでいないでしょうし(その方が話としては面白くなります)、文学者の名前だけ知って仲間に知ったかぶりをするのが得意だったそうですから、リルケの名前だけ言ってたまたま『マルテの手記』という作品名だけは知っていたかもしれません。もともとディランが田舎からニューヨークに出てきたのはロックンローラーになりたかったからでしたが、ロカビリーの全盛期を過ぎビートルズもまだ登場以前でニューヨークではフォークが最前線だったため、あっという間にフォークを学んでフォーク歌手としてデビューした、といういきさつもあります。基本ディランはセックス・ドラッグ&ロックンロールの人であり、そういう人がどさくさ紛れに文学的なフォーク歌手ぶって書いた曲ですからどしどし面白いアルバムができたのです。どうせ話は脱線しますから早いうちに脱線しておきましょう。

 詩人リルケの唯一の長編小説『マルテの手記』は、この作品の発表された1909年をもってドイツ語圏文学は人間中心の文学ではなくなったと評される画期的作品で、ローベルト・ヴァルザー『ヤーコフ・フォン・グンテン』1909、ローベルト・ムージル『和合』1911、フランツ・カフカ『観察』1912、フーゴー・フォン・ホーフマンスタール『アンドレアス』1913と続き、ヘルマン・ブロッホ46歳の遅咲きの処女作『夢遊の人々』1932、ムージル畢生の大作『特性のない男』1930~1932までが当時のドイツの文学界では発表できる限界でした。1933年にナチスのヒットラー内閣が成立し、これらは退廃文学と目されたからです。ただ、明らかに『マルテの手記』以降の文学潮流に生まれながら、崩壊時代の文学にドイツ教養主義の伝統を蘇生させた驚くべき例もあります。それが極度の実験小説でありながらベストセラーを記録したアルフレート・デーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』1929でした。日本の横光利一「機械」『上海』、川端康成「禽獣」『浅草紅団』などが1930年前後ですから、文学における人間性の解体は国際的な思潮でした。もちろんディランはこれらの作者や作品はまったく知らずに、周囲の文学知ったかぶり仲間とハッタリで会話を交わしているうちに耳年増になったという方が実情だったとのちに本人が白状しています。また実際そういうタイプの才人だったという方が話は面白くなるので、ディランの歌詞の文学性(!)など最初から眉唾、しかし文学・現代詩自体が本来才人のハッタリでもいいではないかとして、この文章を続けます。

 さて、ボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」は同名アルバムのタイトル曲で1965年8月2日に録音され、アルバムは同年8月30日に発売されました。このアルバムは先行シングル「ライク・ア・ローリング・ストーン (Like A Rolling Stone)」が凄すぎて他の曲も良いけど横一列、みたいな印象がありますが、アルバム全曲の出来が良すぎてそうなった面が大きいのです。しかし、先行シングルのプロモーション効果は十分あったとはいえ、8月2日録音の曲が8月30日にレコード発売されるなど1967年以降では考えられません(アメリカのレコード業界は1967年が分水嶺になっています)。しかもアメリカ最大手のコロンビアにしてそうだったのは驚かされます。

 実は「追憶のハイウェイ61」はシングル・カットもあり、B面は1985年のボックスセット『バイオグラフ (Biograh)』までアルバム未収録になる「窓からはい出せ (Can You Please Crawl Out Your Window)」でした。公式ライヴ盤にはザ・バンドとの『偉大なる復活 (Before The Flood)』1974、ミック・テイラーとイアン・マクレガンを中心にイギリス人でバンドを堅めた『リアル・ライヴ (Real Live)』がありますが、初めてロックバンドをバックに従えて演奏し、観客から怒号が飛んだという1965年夏のニューポート・フォーク・フェスティバルのライヴ録音では、マイク・ブルームフィールドのレスポールが当時最強ギタリストの大爆発をクールに捉えており、ハードなブルース・ロックと呼んでも的外れではないサウンドになっています。
◎Bob Dylan with Mike Bloomfield - Maggie's Farm (Newport Folk Festival, 1965) :  

  しかしディランの歌詞は文学的で難解や容易に意味がくみ取れないという俗説があり、リスナーもそこを警戒して聴く(または歌詞カードを読む)ので敷居が高いものと思われがちで、実際に長い間、ディランの歌詞は取りつくしまがないものとして扱われてきました。かつての日本盤ライナーノーツや訳詞がそうしたイメージを助長してきた功罪があり、聴き手を遠ざけてきたのは否めません。

 この「追憶のハイウェイ61」のディランの歌詞は、全五連あるヴァースのすべてがHighway 61で締めくくられますが、直接Revisitedと結ばれることはありません。ハイウェイ61号線とRevisitedするのはこの曲を聴く、あるいは歌詞を読む受け手の側なのです。ディランへの先入観からこの曲の歌詞をお手上げとするか、別に文学的でも難解でもなくありのままに聴くかで、この曲は聴き手を突き放しもすれば楽しく聴ける曲にもなります。ただし従来、ディランはあまりにも特別視され、神格化され、難解さや韜晦そのものが別格なアーティストとされがちでした。実際にはディランの歌詞の難解さはサウンドとの相乗によるプラシーボ効果のようなものだったのですが、それは今でも完全には払底されていないように思われます。

 ディランの訳詞は、現在では中川五郎氏の正確で語感に優れ、日本語としてこなれた訳がありますが、LPレコード時代から聴いている人間には解説・中村とうよう、訳詞・片桐ユズルというのが擦り込まれてしまっています。訳詞を鵜呑みにしないで、原文と並列してご覧ください。誤訳ではありませんが、原文のあいまいさと訳詞のあいまいさに大きなギャップがあるのです。また、各連ごとにハイウェイ61をRevisitedするそのRevisitedの意味合い、ニュアンスははっきり異なります。各連は独立した小咄となっていることに注意して、一連ずつ楽しんでみましょう。一見でたらめながら、ちゃんと読めば合理的な解釈ができる歌詞なのです。それは後編で、拙訳とともに解釈をご披露したいと思います。恐縮ですが後編をお読みの際、もう一度この前編をRevisitedしていただけたら幸いです。まずはかつての日本盤アルバムのリスナーがかつての訳詞にいかに煙に巻かれてきたかを追体験(Revisited)ください。

「追憶のハイウェイ61」
 片桐ユズル訳

おお 神アブラハムにいわく「おれのために息子を殺せ」
アブラハムいうのに「そんなこといって おれをかつぐんだろう」
神いわく「ノー」アブラハムいわく「何と?」
神いわく「すきなようにするがよいさ
だがこんどおれを見たら逃げるがいいぞ」
ではアブラハムいうのに「どこで殺したらいいか」
神いわく「ハイウェイ61で」

ところでジョージア・サムは赤鼻だった
福祉局は彼に着物をくれなかった
彼はハワードにきいた「おれはどこへいったらよかろう」
ハワードはいった「一個所しかしらねえが」
サムはいった「はやくいってくれ おれはにげなくちゃならねえ」
オールド・ハワードはただ鉄砲でさして
いった「あっちへ行きな ハイウェイ61へ」

ところで マック・ザ・フィンガーはルイ王にいった
「おれは四十本の赤白青の靴ひもと
鳴らない千の電話があるが
これらをすてられるところはないか」
するとルイ王は「ちょっとまってくれ
そうだ それはかんたんにできる
なんでももっていけ ハイウェイ61に」

そして十二夜に五番目の娘が
第一の父にいった「どうもよくない
わたしの顔色は白すぎる」
彼はいった「ここへきて明るいところへきてごらん フーム たしかにそうだ
第二の母にこれはすんだといってやろう」
だが第二の母は第七の息子といっしょで
ふたりとも ハイウェイ61にいた

そして さすらいのギャンブラーはとてもたいくつして
次の世界大戦をつくろうとしていた
そしてプロモーターをみつけたが かれはほとんど床からおちるところだった
彼がいった「こんなことをするのははじめてだが
きっとすごくかんたんにできるとおもう
ただ日向に外野席をぶったてればいいんだ ハイウェイ61に」

 "Highway 61 Revisited"

Oh God said to Abraham, “Kill me a son”
Abe says, “Man, you must be puttin’ me on”
God say, “No.” Abe say, “What?”
God say, “You can do what you want Abe, but
The next time you see me comin’ you better run”
Well Abe says, “Where do you want this killin’ done?”
God says, “Out on Highway 61”

Well Georgia Sam he had a bloody nose
Welfare Department they wouldn’t give him no clothes
He asked poor Howard where can I go
Howard said there’s only one place I know
Sam said tell me quick man I got to run
Ol’ Howard just pointed with his gun
And said that way down on Highway 61

Well Mack the Finger said to Louie the King
I got forty red, white and blue shoestrings
And a thousand telephones that don’t ring
Do you know where I can get rid of these things
And Louie the King said let me think for a minute son
And he said yes I think it can be easily done
Just take everything down to Highway 61

Now the fifth daughter on the twelfth night
Told the first father that things weren’t right
My complexion she said is much too white
He said come here and step into the light, he says hmm you’re right
Let me tell the second mother this has been done
But the second mother was with the seventh son
And they were both out on Highway 61

Now the rovin’ gambler he was very bored
He was tryin’ to create a next world war
He found a promoter who nearly fell off the floor
He said I never engaged in this kind of thing before
But yes I think it can be very easily done
We’ll just put some bleachers out in the sun
And have it on Highway 61

(旧記事を手直しし、再掲載しました。。原詞はボブ・ディラン公式ホームページ、訳詞はアナログ盤時代の日本盤ブックレット歌詞対訳によりました。)

Copyright 1965 by Warner Bros. Inc.: renewed 1993 by Special Rider Music

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)