ジェルマン・ヌーヴォー「最後のマドリガル」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Germain Marie Bernard Nouveau (1851-1920)
 最後のマドリガル
 ジェルマン・ヌーヴォー

ひょつと今晩死ぬとしたら
僕に好きな日は選べない
といってもわが身 ままよ思い切って
どっこい……そんなことする僕じゃない
とにもかくにも僕の死ぬ日に

親友たちよ 約束しておくれ
森は……兎にまかせておくと
それからも一つお願いだが
マッチ箱のマッチのように
樅の箱には入れずにおくれ

もしくは樽詰の鰊のように
鉛の蓋のその下の
詰物をした棺の中に
号砲一発とどろかせて
僕を長々と寝かさぬように

というのも僕には一切無用
棺桶は脚気 墓というのも
僕にはどうもぞっとしないや
銅像向きにも出来てはいない
駄目だ どんなにそれが綺麗でも

ここまで僕の願いも大したことなし
こいつはちっとばかし残念だが
いいかい 僕の声には嘘はない
僕は墓穴も欲しくはない
それは獅子や死人にまかせておこう

金もなければ力もない僕
とるに足らない僕 わんわん同然
可愛いエニシュのわんわん同然
どこの誰でもあとへとくっつく
老いぼれむく犬といった僕だ

鉄の囲いも要らなければ
大理石の飾りも要りはしない
望むはただただ埋められること
穴を掘られて……母なる大地に
これぞ熱烈たる僕の願い

ところで僕の葬式だが
一文かからぬ葬式だ
これぞシックではあるまいか!僕の夢は
そら豆みたいに腐り果てること
いでその場所を申し聞かそう

いいかい そうとも その墓地は
いつでも僕がお祈りしている
プーリエールの美しい村
小川のほとりにある墓地だ
しかり ヴァル県プーリエールさ

頭の下で手を組ませておくれ
左の目玉だけ開けとくように
そうすりゃ僕は平和この上なし
莢豌豆みたいに埋められて
まったくお祭りでもやらかそうよ

地面に穴を掘っておくれ
地下埋葬場の棺の下に
そこでは僕の親父の側に
ちいちゃなおふくろがもう眠っている
マダム・オーギュスティーヌ・ヌーヴォーが

それから……僕の上に土をさらさら
棺を直してオーギュスティーヌが
今まで通りに眠れるように
思うに僕らはぐっすり眠るだろうよ
たとえ片目で眠るとしても

そして……おふくろを仰向けにすること
というのもこいつを忘れちゃ困るが
僕らがたがいに顔見るために
すれば僕らは洞窟の中の二匹の虎
ただし愛し合ってる二匹の虎だ

地下埋葬場に平和あれ!入口は閉めろ!
僕は復活するよ 最後の審判の日に
両手の間におふくろを抱き
羽ばたく翼に乗せられて
天なる愛の国へと昇って行こう

おっと……一つ……大事なこと
諸君にはどうでも同じことだが
どんな種類の衣装だろうと
僕の身にはつけてくれるな
たとえ謝肉祭の衣装でも

黒い布地の屍衣もまとわず……
何と!この一行はまるでゴーチエ
経帷子も厭 シャツも厭
はっきり言わなきゃならないなら
裸だ 裸だ 裸にかぎる

鞘にはまらぬ剣のごとく
手袋つけぬ手のごとく
僕の眼の下の蛆虫のごとく
そしたら石の上に刻んでおくれ
たった一語 名前を ただジェルマン

身も魂もいかれた男
心もいかれた なんなら頭も
僕は遺言を作り終った 奥さん
どうかそれをあなたの手の中に
署名はすなわち ジェルマン・ヌーヴォー

 (原題"Le madrigal dernier", 福永武彦訳)

 フランス詩人、ジェルマン・ヌーヴォー(1851-1920)はフランス本国では1950年代になってようやく全詩集が刊行されましたが、日本ばかりかフランス本国以外の欧米諸国でもほとんど読まれていないようです。碩学、故・篠田一士氏編の『世界の名詩』(平凡社、1982年)は西東問わず古代から1982年時点での精鋭詩人まで外国詩を一人一篇、364詩人もの作品を集めた大アンソロジーで、唐詩はもちろん中世、ルネッサンスから20世紀の現代詩人まで巻末の収録詩人解説がそのまま世界の詩人辞典になっているほどで、思いつく詩人はすべて載っていますが、トリスタン・コルビエールは載っていてもジェルマン・ヌーヴォーは載っていません。この「最後のマドリガル」は河出書房刊の全六巻のアンソロジー『世界詩人全集』昭和29年(1954年)の第四巻「象徴派・世紀末」編から引用しましたが、単行詩集はおろか戦後の翻訳ブームでいろいろな出版社から刊行された世界文学全集・世界詩人全集類でも、辛うじて平凡社の『世界詩人全集』に選抄がある程度で、まとまったヌーヴォー詩集を含む訳書はないようです。この第四巻「象徴派・世紀末」の巻には55人もの詩人、うちフランス詩人は18人が収録されていますが、ヌーヴォーの4ページ・2篇はコルビエールと並んで収録詩人でも最小の扱いで(ランボーは24ページもの待遇を受けています)、編集委員かつヌーヴォーの2篇の翻訳を担当した故・福永武彦氏が「どうしても落としたくない詩人」として推挽したものと思われます。全集月報には編集部が「収録詩人の選択・収録分量は編集委員会でA+, A, B+, B, Cの五段階に分けて検討した」とあり、つまりランボーは文句なしのA+、ヌーヴォーはコルビエールとともにかろうじてCランクで収録されたのでしょう。

 フランス語版ウィキペディアにはともかく、ヌーヴォーは日本語版ウィキペディアにはランボーの項で名前が出てくる程度で項目はなく、英語版ウィキペディアにもごく簡略な項目しかありません。福永武彦氏の解説を引用すれば英語版ウィキペディアから足すことはほとんどないほどです。引用しておきましょう。

ジェルマン・ヌーヴォー(1851-1920)は象徴詩派のうち、不遇の一生を送った知られざる詩人の一人である。彼はランボーと共にイギリスに旅行したこともあるし、ヴェルレーヌとは最も交友が深く相互に影響し合った。彼がカトリックになったのはヴェルレーヌの母の感化による。軽妙なシャンソン風の作風から次第に宗教的作風に進んだが、常に風刺的自嘲的な影を持っている。或いはボヘミアンの生活を送り、或いは図画の教師などを勤めたが、晩年は乞食に近い隠者の暮しをして、故郷のプーリエールで死んだ。最近に及んでブルトンやアラゴンなどに大いに認められ、大詩人として再評価されつつあり、ムーケ及びブレンネルの校訂による全詩作が刊行され始めている。(福永武彦)

 フランス語版・英語版ウィキペディアによるとヌーヴォーがアルチュール・ランボー(1854-1891)と知りあったのは前年から詩作を始めていたランボーが文通ののちにパリのポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)を訪ねた1871年9月でランボーが17歳の誕生日を迎える前月、ランボーに先んじてパリでボヘミアン生活を送り、すでにヴェルレーヌと知りあっていたヌーヴォーはこの時20歳で、ランボーのパリ上京に刺激を受けてヴェルレーヌとランボーの勧めから処女詩篇「夏の歌」を書き、詩人として出発したヌーヴォーは、そのままパリに居着いてボヘミアン生活を送った3歳年下のランボーのもっとも心を許せる親友になります。その後ランボーに同性愛的執着を抱いたヴェルレーヌが最終的に泥酔中の痴話喧嘩からランボーを射撃・負傷させて逮捕され、詩作からの決別・詩人から輸出入商人への転身を考えていたランボーは2冊の詩集『地獄の季節』『イリュミナシオン』を書いて『地獄の季節』は自費出版するも流通を放棄、『イリュミナシオン』をヴェルレーヌ事件のあと同居していた詩友に託して外国商船に乗り、37歳の逝去まで再び詩作に戻らなかったのはよく知られた話ですが、ヴェルレーヌ事件のあとランボーと同居し、『イリュミナシオン』を託された詩友こそジェルマン・ヌーヴォーでした。『イリュミナシオン』の生原稿はヌーヴォーが清書を手伝ってすらいます。ランボーはヌーヴォーに出版社探しを兼ねて託すも、本人の詩集刊行すらないヌーヴォーには荷が思いと考え、懲役刑を送っていたヴェルレーヌが出所したのを知ってヌーヴォーにヴェルレーヌに原稿を渡すよう手紙で依頼し、大事に原稿を守っていたヌーヴォーはヴェルレーヌの許に『イリュミナシオン』を持参し、数年後にヴェルレーヌ経由でランボーに知らされることなく文芸誌に一挙掲載されました。ですから日本語訳でもランボー詩集を読んだ読者は、巻末解説やランボー年譜でヌーヴォーの名を見かけているのです。しかしヌーヴォーは生前刊行の詩集はなく、ヌーヴォー自身がまとめていた詩集も含めてすべて1950年代以降にまとめられた没後刊行で、詩人というよりヴェルレーヌとランボーの友人として知られた人でした。ひょっとしたらもう作られているかもしれませんが、70歳近くまで生き詩歴50年を数えながらぱっとせず「乞食に近い隠者」の晩年を送った日影の人・ヌーヴォーを主人公に、ランボーとヴェルレーヌという華やかな天才詩人に青春を振りまわされた19世紀末の一青年の伝記ドラマとして映画(映画は視点人物にはむしろ平凡なキャラクターの方が向いています)が成り立つかもしれません。

 せめてヴェルレーヌが象徴詩人評伝集『呪われた詩人たち』1884(マラルメ、コルビエール、ランボー、ヴァルモール、リラダン、そしてヴェルレーヌ自身)にヌーヴォーの章を設けていればヌーヴォーの認知度もだいぶ変わったはずですが、友人としてはともかくヴェルレーヌにとってヌーヴォーの詩才はマラルメ、ランボー、コルビエールはもちろん、ヴェルレーヌが象徴主義の先駆と見做した女性詩人ヴァルモールや耽美主義作家リラダンとも較べるべくもなかったということでしょう。この「最後のマドリガル」(マドリガルはイタリア風歌謡詩の意味)はヌーヴォーが生前まとめていた未刊詩集『ヴァランチーヌ』からの詩篇で、ヌーヴォー家の墓に思いを凝らして自分もいつかこの墓に入るのだ、と「風刺的・自嘲的」なヌーヴォーの作風のよく出た、5行18連の作品です。90行も費やしていながらくり返しや冗漫で平凡な発想が目立ち(「歌曲詩」ですから平易でくり返しが目立つのは意図的な技法でもあるでしょう)、それがこの詩の軽妙さと哀感になっていますが、トリスタン・コルビエール(1845-1875)やジュール・ラフォルグ(1860-1887)、また突然変異的な散文詩人ロートレアモン伯爵(1846-1870)ら、象徴詩の夭逝傍流詩人たちほどの才気はなく、それゆえにヌーヴォーは「群小詩人ではなく大詩人だ、ランボーと匹敵するほどに」(ルイ・アラゴン)と愛される存在になったので、フランスではかつてヌーヴォーが住んだのにちなんで全国に三か所「ジェルマン・ヌーヴォー通り」があるそうです。外国文学の翻訳、ましてや詩集の訳書などほとんどマニア向けになってしまった昨今ですが、全詩集からのほんの抄訳でもまとまった単行詩集で日本語訳『ジェルマン・ヌーヴォー詩集』1冊くらいあってもいいじゃないか、たぶん(当然)ヴェルレーヌやランボーと較べれば「やっぱり二流・三流の詩人じゃないか」というようなものであっても、人類みながトップ・アスリートではないのと同様、この凡庸ながら愛らしい詩篇「最後のマドリガル」はヴェルレーヌやランボーには求められない緩く呑気な作風と詩才の乏しさをわきまえた詠みぶりによって、これはこれで代えの利かない、70年もの生涯を手の届かない夢に手を伸ばし続けた、ヌーヴォーならではの味わいに富んだ詩です。ヌーヴォー作品のような平凡な、しかし真心のこもった詩を読む喜びも、詩の世界には確かにあるのです。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)