「詩」を読むということ(2) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 今回も前回に続いて、2冊の詩集アンソロジーをこの年末年始に読み返した感想の続きです。どちらも50年あまり前に、同一の編者によって、文学全集の1巻として刊行されたものです。
・伊良子清白(1877~1946)『孔雀船』(明治39年/1906年)
・蒲原有明(1876~1952)『有明集』(明治41年/1908年)
・山村暮鳥(1884~1924)『雲』(大正14年/1925年)
・萩原恭次郎(1899~1938)『死刑宣告』(大正14年/1925年)
・富永太郎(1901~1925)『富永太郎詩集』(昭和2年/1927年)
・安西冬衛(1898~1965)『軍艦茉莉』(昭和4年/1929年)
・北川冬彦(1900~1900)『戦争』(昭和4年/1929年)
・北園克衛(1902~1978)『円錐詩集』(昭和8年/1933年)
・伊東静雄(1906~1953)『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年/1935年)
・大手拓次(1887~1934)『藍色の募(抄)』(昭和11年/1936年)
・立原道造(1914~1939)『萱草に寄す』(昭和12年/1937年)
・中原中也(1907~1937)『在りし日の歌』(昭和13年/1938年)
・草野心平(1903~1988)『蛙』(昭和13年/1938年)
・村野四郎(1901~1975)『体操詩集』(昭和14年/1939年)
・小熊秀雄(1901~1940)『愛隣詩集(『流民詩集』より)』(昭和22年/1947年)
・金子光晴(1895~1975)『蛾』(昭和23年/1948年)
・吉田一穂(1898~1973)『暗黒系(『吉田一穂詩集』より)』(昭和27年/1952年)
・竹內勝太郎(1894~1935)『黑豹』(昭和28年/1953年)
・吉岡実(1919~1990)『静物』(昭和33年/1958年)
・鮎川信夫(1920~1986)『橋上の人(『鮎川信夫詩集』より)』(昭和30年/1955年)
・田村隆一(1923~1998)『四千の日と夜』(昭和31年/1956年)
・安東次男(1919~2002)『CALENDRIER』(昭和35年/1960年・昭和41年/1966年)
・入沢康夫(1931~2018)『季節についての試論』(昭和43年/1968年)
『現代日本文學体系93・現代詩集』篠田一士編・解説(筑摩書房・昭和47年/1972年4月刊)
・富永太郎『富永太郎詩集』(既出)
・安西冬衛『軍艦茉莉』(既出)
・逸見猶吉(1907~1946)『ウルトラマリン』(昭和15年/1940年)
・田中冬二(1894~1980)『海の見える石段』(昭和5年/1930年)
・竹中郁(1904~1982)『象牙海岸』(昭和7年/1932年)
・大手拓次『藍色の募(抄)』(既出)
・丸山薫(1909~1974)『物象詩集』(昭和16年/1941年)
・壺井繁治(1897~1975)『壺井繁治全詩集(抄)』(昭和44年/1969年)
・北園克衛(1902~1978)『黒い火』(昭和26年/1951年)
・谷川俊太郎(1931~)『二十億光年の孤独』(昭和27年/1952年)
・竹內勝太郎『黑豹』(既出)
・飯島耕一(1930~2013)『他人の空』(昭和28年/1953年)
・山本太郎(1925~1988)『步行者の祈りの唄(抄)』(昭和29年/1954年)・『山本太郎詩集(抄)』(昭和32年/1957年)・『単独者の愛の唄(抄)』(昭和36年/1961年)・『礼問者の惑いの唄(抄)』(昭和42年/1967年)・『死法(抄)』(昭和46年/1971年)
・大岡信(1931~2017)『記憶と現在(抄)』(昭和31年/1956年)
・会田綱雄(1914~1990)『鹹湖』(昭和32年/1957年)
・中村稔(1927~)『鵜原抄(『鵜原抄』より)』(昭和41年/1966年)
・谷川雁(1923~1995)『大地の商人』(昭和29年/1954年)
・鮎川信夫『橋上の人(『鮎川信夫詩集』より)』(既出)
・田村隆一『四千の日と夜』(既出)
・吉岡実(1919~1990)『僧侶』(昭和33年/1958年)
・清岡卓行(1922~2006)『氷った焔』(昭和34年/1959年)
・岩田宏(1932~2014)『いやな唄』(昭和34年/1959年)
・安東次男『CALENDRIER』(既出)
・天沢退二郎(1936~2023)『朝の河』(昭和36年/1961年)
・入沢康夫(1931~2018)『わが出雲 わが鎮魂』(昭和43年/1968年)
・石垣りん(1920~2004年)『表札など』(昭和43年/1968年)
・渋沢孝輔(1930~1998)『漆あるいは水晶狂い』(昭和44年/1969年)

 合わせて45冊分あまりの詩集を収録した、上記2冊の篠田一士(1927~1989)編『現代詩集』については前回に詳しく書きました。さて多くの読者、ことに詩人志願の方が「現代詩がわからない、『現代詩手帖』や『ユリイカ』などに載っている詩がわからない」とこぼすのはよく耳にしますが、それを言えば短歌や俳句、また美術・音楽、演劇、映画の世界はさらに厳しく、美術家や音楽家、劇作家や映画製作者なら美術史・音楽史、演劇史、映画史に精通するのが必須なのと同じく、短詩型ジャンルである短歌や俳句にあっても先行歌人や俳人の歌集・句集をそらんじるほど読みこんでこそ短歌や俳句も詠めないように、現代詩もまた膨大な読書を経て鑑賞眼を身につけ、優れた過去の詩人たちの達成に照らして、自分の読む詩(または書く詩)の良し悪しが「わかる」ようにならないと一人前の読者(また詩人)とはなれないものです。読者や詩人志願者にも山之口貘『思弁の苑』(昭和13年/1938年)や谷川俊太郎『二十億光年の孤独』(昭和27年/1952年)で理解が止まっている方も多いでしょう。「現代詩がわからない」というのは(篠田一士風に言えば)、単に読者の怠慢にすぎません。この2冊の『現代詩集』を熟読すれば、「現代詩がわからない」という方はほとんどいないでしょう。明治・大正から昭和45年(1970年)に至るほぼ65年間の選りすぐりの40人・約45冊もの詩集を読めば、時代の進展による現代詩の喩法や文体、テーマと書法の変遷が自然に学べ、日常的散文や小説とは異なる「現代詩」ならではの文学性を歴代の優れた詩集に即して鑑賞力が養えます。優れた詩に多く触れるほど、しかも詩集単位で各詩人の発想の真髄をつかむほど、最初は困難でも結果的には効率の良い、正統な学び方はありません。現代歌人が斎藤茂吉と北原白秋の歌集を、また現代俳人が山本健吉編著『現代俳句』の全句を暗記するように、篠田一士編『現代詩集』昭和42年版・昭和47年版の2冊は現代詩の代表詩集を思いきった斧鉞によって選抜(収録分量の制限では最善の吟味)した概ね公正な詩人と詩集によって、『藍色の募』の次は『ウルトラマリン』を、『黒い火』と『他人の空』を、『氷った焔』と『二十億光年の孤独』『記憶と現在』を、『僧侶』と『朝の河』『わが出雲 わが鎮魂』『漆あるいは水晶狂い』を一冊で読めるという、贅沢な読書体験を与えてくれます。

 伊良子清白、蒲原有明、山村暮鳥、萩原恭次郎、北川冬彦、伊東静雄、中原中也、立原道造、草野心平、村野四郎、小熊秀雄、金子光晴、吉田一穂ら大詩人と同等か、それに次ぐ詩人の代表詩集を収めた点で、明治以降の現代詩史をたどるには昭和42年版の方が広範かつ凝縮された内容です。『孔雀船』『有明集』は島崎藤村『落梅集』(明治34年/1901年)、薄田泣菫『白羊宮』(明治39年/1906年)と並んで明治現代詩最高の達成です。大正詩人が山村暮鳥、萩原恭次郎、富永太郎、大手拓次、竹内勝太郎の5人きりなのは手薄な観がありますが、北原白秋、高村光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫が全集各巻に収録されているため大正詩人はやや割りを食っています。口語自由詩最初の詩人の一人で富永太郎や中原中也に先立つ日本のラフォルグ、三富朽葉は遺稿全詩集しか残しておらず収録を見送られ、千家元麿『自分は見た』、日夏耿之介『転身の頌』、西條八十『砂金』なども昭和詩人に紙幅を割く分割愛せざるを得なかったという所でしょうか。一冊で富永太郎詩集、安西冬衛詩集、北川冬彦詩集、北園克衛詩集、伊東静雄詩集、中原中也詩集、立原道造詩集、草野心平詩集、小熊秀雄詩集、金子光晴詩集、吉田一穂詩集が読めるとは豪奢極まりありません。一方、昭和47年版は上記の詩人たちには流派ごとに巻が設けられているため、昭和期刊行の昭和45年までの詩集のみに絞りこまれているので、昭和47年版『現代詩集』の刊行時までほぼ半世紀の昭和時代に刊行された詩集27冊を展望できる利点があります。巻頭の『富永太郎詩集』に続き、入手困難な逸見猶吉生前唯一の自選詩集『ウルトラマリン』(アンソロジー『現代詩人集3』昭和15年所収)ほか単行本、全詩集や各社からの詩人全集、思潮社の「現代詩文庫」で揃えるのも手間のかかる戦前・戦後の昭和現代詩の代表詩集が集成され、谷川雁『大地の商人』、吉岡実『僧侶』、岩田宏『いやな唄』などまったく異なる個性を放つ詩人の代表詩集を一冊で交互に読み較べられるのは、現代詩の諸相を考える示唆を与えてくれます。この『現代日本文學体系93・現代詩集』は刊行から50年を経た現在も版を重ねており、収録詩集のすべてが現代詩の古典として定着しています。

 この3段組・400ページもの筑摩書房刊文学全集の『現代詩集』アンソロジーは単行本4~5冊分、詩集としては約30冊の収録分量があり、昭和42年版と合わせた約45詩集にさらに1970年代~1990年代の代表詩集を加え、現代詩の基本図書をなす10巻を越える詩人全集として筑摩書房得意の文庫化がされてもいい内容です。その際には割愛された重要詩集(西脇順三郎『Ambarvalia』や『失われた時』、『瀧口修造の詩的実験1927~1937』、吉岡実『サフラン摘み』など)を加え、さらに堀川正美『枯れる瑠璃玉』や三木卓『わがキディ・ランド』(昭和45年/1970年)、『馬渕美意子のすべて』や吉増剛造『頭脳の塔』、金井美恵子『マダム・ジュジュの家』(昭和46年/1971年)、岡崎清一郎『春鶯囀』(昭和47年/1972年)、『富岡多恵子詩集』(昭和48年/1973年)、飯島耕一『ゴヤのファースト・ネームは』や清水哲男『水瓶座の水』、鈴木志郎康『やわらかい闇の夢』(昭和49年/1974年)、荒川洋治『水駅』や井上輝夫『旅の薔薇窓』(昭和50年/1975年)、平出隆『旅籠屋』や稲川方人『償われた者の伝記のために』、山口哲夫『妖雪譜』(昭和51年/1976年)、岡田隆彦『生きる歓び』や石原吉郎『足利』(昭和52年/1977年)、伊藤比呂美『草木の空』(昭和53年/1978年)、佐々木幹郎『気狂いフルート』や正津勉『青空』(昭和54年/1979年)、ねじめ正一『ふ』(昭和55年/1980年)、藤井貞和『ラブホテルの大家族』や吉田文憲『花輪線へ』(昭和56年/1981年)、松浦寿輝『ウサギのダンス』や伊藤比呂美『青梅』(昭和57年/1982年)、吉岡実『薬玉』(昭和58年/1983年)、高貝弘也『中二階』や吉増剛造『オシリス、石ノ神』(昭和59年/1984年)、稲川方人『封印』(昭和60年/1985年)、さらに『山本陽子遺稿詩集』や『氷見敦子詩集』、川端隆之『古霊』(昭和61年/1986年)まで、すでに現代詩の古典と見なされた詩集が補われるのが望ましいものです。

 日本語版ウィキペディアの「現代詩」の項は、

「私秘性、難解性から現代詩は生命力を失い、各詩人が孤立して先細るという状態が現れ、それを打破しようと集団無意識や民俗の世界に回帰しようという動き、形式的な伝統詩を復活させようという動き、インターネットを利用としたコラボレーションの動きが見られるが、その行き先は未明である。

 オンライン詩の傾向としては、相対主義や競争否定の考えから、詩に優劣はなく、名人も素人も同等であるとする平等主義が強い。一方そのような考えは芸術の堕落であり、より高質な詩を目指して精進すべきだという考えは紙メディアを中心にして、熟練者を中心に根強い。

 その結果として、詩壇はさらに大衆詩と芸術詩の間の亀裂を深めている」

 と現代詩の現状を結論づけていますが、日本の現代詩は明治20年代の揺籃期から伝統詩(漢詩、和歌、誹諧)との断然、読者大衆との乖離(ウィキペディアの概要による「大衆詩」と「芸術詩」の「亀裂」)、その不毛さを批判されてきました。ウィキペディアは「私秘性、難解性から現代詩は生命力を失い、各詩人が孤立して先細るという状態」を「芸術詩」の現状と決めつけ、「オンライン詩」を近年の「大衆詩」の例に上げていますが、安易で甘く調子の良い(また通俗的で道徳的な)「投稿詩(恋愛・感傷/人生教訓詩・童謡詩)」は、島崎藤村の『若菜集』(明治30年/1897年)の達成から間もなく始まっていたのです。そのようなものが文学とは呼べないことはどの国家、どの言語でも歴史が明らかにしてきたことで、詩とは文学の低俗化への不断の抵抗・闘いとして書かれてきた文学形式です。詩を失った民族は文化においても生活においても堕落します。それは忘れてはならないことです。そしてもちろん、人生には詩より大切なことが山ほどあります。萩原朔太郎の詩篇「無用の書物」(詩集『氷島』昭和9年/1934年6月)の一節にあるように、それを必要としない読者には、詩集など「見よ!これは無用の書物/一銭にて人に売るべし。」にすぎません。

 報告 (ウルトラマリン第一)
 逸見猶吉

ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
ソレダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
 《血ヲナガス北方 ココイラ グングン 密度ノ深クナル
 北方 ドコカラモ離レテ 荒涼タル ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――――》
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ 舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ轉落スル 鴉ト時間ト アトハ
サガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク
凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ 野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鐵柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ
苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地點カラ標的ニサレタオレダ
アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覺デアツタラウカ
彈創ハスデニ彈創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉體ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ齒ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク 彌漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ オレノヤリキレナイ
イツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
アゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ スベテ痩セタ肉體ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
 《ドコカラモ離レテ荒涼タル北方ノ顔々 ウルトラマリンノスルドイ目付
 ウルトラマリンノ底ノ方ヘ――――》
イカナル眞理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ

(『現代詩人集3』内『ウルトラマリン』山雅房・昭和15年/1940年7月刊収録)

 犀と獅子
 丸山薫

犀が走つてゐた
その背に獅子が乗り縋つてゐた
彼は噛みついてゐた
血が噴き上り 苦痛の頸をねぢつて
犀は天を仰いでゐた
天は蒼くひつそりとして
昼間の月が浮んでゐた

これは絵だつた
遠く密林の国の一瞬の椿事だつた
だから風景は黙し
二頭の野獣の姿もそのままだつた
ただ しじまの中で
獅子は刻々殺さうとしてゐた
犀は永遠に死なうとしてゐた

(詩集『物象詩集』河出書房・昭和16年/1941年2月刊収録)

 繋船ホテルの朝の歌
 鮎川信夫

ひどく降りはじめた雨のなかを
おまえはただ遠くへ行こうとしていた
死のガードをもとめて
悲しみの街から遠ざかろうとしていた
おまえの濡れた肩を抱きしめたとき
なまぐさい夜風の街が
おれには港のように思えたのだ
船室の灯のひとつひとつを
可憐な魂のノスタルジアにともして
巨大な黒い影が波止場にうずくまっている
おれはずぶ濡れの悔恨をすてて
とおい航海に出よう
背負い袋のようにおまえをひっかついで
航海に出ようとおもった
電線のかすかな唸りが
海を飛んでゆく耳鳴りのようにおもえた

おれたちの夜明けには
疾走する鋼鉄の船が
青い海のなかに二人の運命をうかべているはずであった
ところがおれたちは
何処へも行きはしなかった
安ホテルの窓から
おれは明けがたの街にむかって唾をはいた
疲れた重たい瞼が
灰色の壁のように垂れてきて
おれとおまえのはかない希望と夢を
ガラスの花瓶に閉じこめてしまったのだ
折れた埠頭のさきは
花瓶の腐った水のなかで溶けている
なんだか眠りたりないものが
厭な匂いの薬のように澱んでいるばかりであった
だが昨日の雨は
いつまでもおれたちのひき裂かれた心と
ほてった肉体のあいだの
空虚なメランコリイの谷間にふりつづいている
 
おれたちはおれたちの神を
おれたちのベッドのなかで締め殺してしまったのだろうか
おまえはおれの責任について
おれはおまえの責任について考えている
おれは慢性胃腸病患者のだらしないネクタイをしめ
おまえは禿鷹風に化粧した小さな顔を
猫背のうえに乗せて
朝の食卓につく
ひびわれた卵のなかの
なかば熟しかけた未来にむかって
おまえは愚劣な謎をふくんだ微笑を浮かべてみせる
おれは憎悪のフォークを突き刺し
ブルジョア的な姦通事件の
あぶらぎった一皿を平らげたような顔をする

窓の風景は
額縁のなかに嵌めこまれている
ああ おれは雨と街路と夜がほしい
夜にならなければ
この倦怠の街の全景を
うまく抱擁することができないのだ
西と東の二つの大戦のあいだに生れて
恋にも革命にも失敗し
急転直下堕落していったあの
イデオロジストの顰め面を窓からつきだしてみる
街は死んでいる
さわやかな朝の風が
頸輪ずれしたおれの咽喉につめたい剃刀をあてる
おれには堀割のそばに立っている人影が
胸をえぐられ
永遠に吠えることのない狼に見えてくる

(初出『荒地詩集‘49』昭和24年/1949年・詩集『鮎川信夫詩集』荒地出版社・昭和30年/1955年11月刊収録)

 夜の要素
 北園克衛

その絶望
把手

のある
の胸
あるひは穴
のある
の腕

偶像
にささへられ
た孤独
の口

ひとつ
眼へ
ひとつの
智恵

あるひは
肥えた穴
のなか
永遠
を拒絶
する
恋へ
図形

憂愁
をやぶる
恋人
陰毛

その
暗黒
幻影

その
幻影
陶酔
黒い砂
あるひは
その
黒い陶酔
骨の把手

(詩集『黒い火』昭森社・昭和26年/1951年7月刊収録)

 他人の空
 飯島耕一

鳥たちが帰って来た。
地の黒い割れ目をついばんた。
見慣れない屋根の上を
上ったり下ったりしていた。
それは途方に暮れているように見えた。

空は石を食ったように頭をかかえている。
物思いにふけっている。
もう流れ出すこともなかったので、血は空に
他人のようにめぐっている。

(詩集『他人の空』書肆ユリイカ・昭和28年/1953年12月刊収録)

 商 人
 谷  川 雁

おれは大地の商人になろう
きのこを売ろう あくまでにがい茶を
色のひとつ足らぬ虹を

夕暮れにむずがゆくなる草を
わびしいたてがみを ひずめの青を
蜘蛛の巣を そいつらみんなで

狂った麦を買おう
古びておおきな共和国をひとつ
それがおれの不幸の全部なら

つめたい時間を荷造りしろ
ひかりは桝に入れるのだ

さて おれの帳面は森にある
岩蔭にらんぼうな数学が死んでいて

なんとまあ下界いちめんの贋金は
この真昼にも錆びやすいことだ

(詩集『大地の商人』母音社・昭和29年/1954年11月刊収録)

 聖家族
 吉岡実

美しい氷を刻み
八月のある夕べがえらばれる
由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
微笑する母娘
母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
一人の老いた男を絞めころす
かみ合う黄色い歯の馬の放尿の終り
母娘の心をひき裂く稲妻の下で
むらがるぼうふらの水府より
よみがえる老いた男
うしろむきの夫
大食の父親
初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
肉体の処女の痛みを注ぐ
すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
母親は海のそこで姦通し
若い男のたこの頭を挟みにゆく
しきりと股間に汗をながし
父親は聖なる金冠歯の口をあけ
砕けた氷山の突端をかじる

(詩集『僧侶』書肆ユリイカ・昭和33年/1958年11月刊収録)

 碑銘
 安東次男
 
建てられたこんな塔ほど
死者たちは偉大ではない
ぼくは死にたくなんぞないから
ぼくにはそれがわかる
ところでなぜぼくは
こんなところに汗を垂らしてうつむいて
いるのだ一篇の詩がのこしたいためか
似たり寄つたりの連中のなかで
生まれもつかぬ片輪の子を生んで俺の
子ではないとなすりつけ
あいたいためかぼくにはそれがわかる
建てられたこんな塔ほど
死者たちは偉大ではない
 (Aout)
 
(詩集『CALENDRIER』書肆ユリイカ・昭和35年/1960年4月刊収録)

 陽気なパトロール
 天沢退二郎

ぼくらは出発した旗を旗竿に巻き
煉瓦にキスを投げジュークボックスを堕胎させ
小学校に顔そむけ蜜をたべ電車を轢き
青ぞらに殺され
少女たちのパンティの隙間に殺されず
刑事を留置所にノン・ストップで叩きこみ
レールを逃げて誂えた店でジャズを聴き
床屋を密告してカミソリでコーヒーを沸かし
老人は蹴とばし眼鏡だけはこわさず
からすを見つけるとみんなで壁にもたれて合唱し
からすに懸賞金をつけ
橋を笑わせランプを掘り出して怒らず
交番(バンコ)の前ではこっちが笑い
マカロニは反吐が出るのでひとつひとつ孔を塞ぎ
はぎしりする馬とペッティング
水たまりはかならず撮影し
郵便ポストの歯をみがいてやり
花屋に小銃打ちこみネクタイの喪章を捧げ
みんな手を握り小便はたれ流し
食事のときは立ったまま指を使わず鼻で食べ
いつも手をつなぎ
けっして乗物に乗らず
眼は捨てられたタバコのように
口は肉屋のプリンスのように
髭は泥よけ耳は運河のリボンのように
すてきなスモッグのスタイルで
ぼくたちは出発したすてきな
スモッグのレストランから

(詩集『朝の河』国文社・昭和36年/1961年3月刊収録)

 弾道学
 渋沢孝輔
 
叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難かしい
凍原から滑り落ちるわるい笑い
わるい波わるい泡
波さわぐ海のうえの半睡の島
遙かなる島 半分の島 半影の島
喉につかえるわるい沈黙
猫撫で声のわるい呪い
血の平面天体図をめぐるわるい炎
きみは鋏のように引きちぎられて
わたしの
錠前がその闇のなかで静かに眠ることもなく
おまえはだれ鬼はだれわるいだれ
でもその木霊をすこしかしてくれ
わたしの中心の燃える円周となれ
涜神の言葉となってはじける歌
狂暴なサヴァンナで
有毒の花 癲癇の朝 首刎ねられる太陽の歌

(詩集『漆あるいは水晶狂い』思潮社・昭和44年/1969年10月刊より)

 見附のみどりに
 荒川洋治

まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉さきのかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ

かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向う肌の押しが
さやかに効いた草のみちだけは
うすくついている

夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た

いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。

(詩集『水駅』書紀書林・昭和50年/1975年6月刊収録)

 空洞
 高貝弘也

茶碗の内側は闇。闇の内部に在る空洞。

空洞に存在を融かし込むカイコ。吸湿剤。

壊死(エシ)。頭部から胸部まで。

声に於ける喪失。縮れた髪の毛。

分娩。隔世遺伝の意味。

夢と眠れないこと。云い換えて、現実と眠れないこと。

信条。影と影との隔離。

物理的空間の持つ限界性。其の接線に座り込む。

奥行き。全て空洞である。

矮化剤。

(詩集『中二階』洗濯舟石鹸詩社・昭和59年/1984年4月刊収録)