川端康成全集の妖しさ | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。




 川端康成(1899~1972)については20世紀日本のもっとも重要な作家として多くの研究者が数多くの評伝、批評、研究書を刊行しています。昭和43年(1968年)のノーベル文学賞受賞、昭和47年(1972年)の謎の自殺がその神秘化に輪をかけています。しかし川端ほど自作に無頓着だった、あるいは厳しかった作家は珍しく、未完に終わったまま刊行された長篇が多い上に、生前の単行本に収められた作品は雑誌発表作品の6~7割にも及ばず、さらに生前刊行全集は生前刊行の単行本から全小説、批評、エッセイの半数以下に絞りこまれたものでした。また戦後の川端康成は用字改革に頓着せず、自筆原稿こそ歴史的かな遣い・正字で書き続けていましたが「掲載誌紙や単行本では新字・新かなでも良い」と、生涯歴史的かな遣い・正字にこだわっていた三島由紀夫とは反対の立場を取っていました。作品の完成度にすら頓着せず、長篇小説の代表作『浅草紅団』『雪国』『千羽鶴』『山の音』すら川端自身が未完作品と認めており、完結した長篇では『化粧と口笛』『虹いくたび』『舞姫』『少年』『名人』『みづうみ』『古都』が生前刊行開始の全集に収録されていますが、ノーベル文学賞受賞記念として全16巻を予定し昭和44年(1969年4月)から刊行開始された新潮社版第3次『川端康成全集』は昭和45年(1970年)10月刊の第14巻までで一旦中断し、著者の逝去によって晩年作品群を第15巻に、第16巻~最終巻までは当初16巻に抄出予定だった「文芸時評」を4巻に増補し、1974年3月までかかって全19巻で完結したものの、生前発表のエッセイもごく一部なら短篇小説、長篇小説とも川端自身が全集収録に値すると認めた作品に限られました。数多い少女小説からは『夕映少女』のみ、さらに過去2次に渡ってやはり新潮社から刊行された『川端康成全集』全16巻(昭和23年/1948年5月~昭和29年/1954年4月刊)、『川端康成選集』全10巻(昭和31年/1956年4月~9月)、『川端康成全集』全12巻(昭和34年/1959年11月~昭和37年/8月刊)に収録されていた作品も容赦なく割愛・抹殺されています。
 例えば長篇『女性開眼』(昭和12年/1937年12月刊)は、全16巻の第1次全集に収録されるも第3次全集では著者の意向により落とされています。さらに新聞連載小説『川のある下町の話』(昭和29年/1954年1月刊)、全4巻・全500回に及ぶ新聞連載小説『東京の人』(昭和30年/1955年1月~12月刊)、全2巻・250回に及ぶの新聞連載小説『女であること』(昭和30年12月・昭和31年/1956年2月刊)など戦後の新聞連載小説はことごとく生前全集未収録になっており、また「婦人公論」連載の『美しさと哀しみと』(昭和40年/1965年2月刊)も作者自選の第3次全集には採択されていません。昭和29年4月完結の第1次全16巻全集では未完だった『少年』の加筆完成や、少年時代から文壇デビュー時までの日記を基に単行本1冊分に相当する自伝的後書き『独影自命』が書き下ろされましたが(第3次全集で第14巻に集成)、その後昭和32年完結の第2次全集を挟んで、川端の自信作は長篇『みづうみ』(昭和30年/1955年4月刊)、『古都』(昭和37年/1962年刊)と中篇小説『眠れる美女』(昭和36年/1961年11月)、『片腕』(昭和40年/1965年10月刊)に絞られます。昭和39年(1964年)6月から文芸誌「新潮」に連載されるも昭和43年(1968年)10月掲載までで未完になった遺作長篇『たんぽぽ』も、冷感症を暗喩した「人体欠視症」という架空の心因性障害のヒロインとその恋人を描いた、『みづうみ』『眠れる美女』『片腕』の系譜を継ぐ奇怪な作品でした。昭和43年10月に川端康成はノーベル文学賞受賞が決定し、以降は晩年までの五年間はジャーナリズムへの対応に追われて創作活動は停滞し、『たんぽぽ』は文芸誌連載分の改稿のみで未完長篇になりました。川端の昭和47年(1972年)4月16日の自殺から文芸誌「新潮」は緊急臨時増刊の「川端康成読本」を組み、原稿用紙300枚相当の未完長篇『たんぽぽ』を巻頭に一挙掲載し、その後著者自身の連載誌書き入れ稿に従って昭和47年9月に単行本刊行がされました。ノーベル文学賞受賞後の川端は回想、エッセイ、近況など端々とした短文が多く、それらも多忙な依頼に口述筆記が大半を占めることになりました。
 川端康成没後に新潮社から昭和55年(1980年)2月~昭和59年(1984年)5月にかけて刊行された決定版『川端康成全集』では生前~没後にかけた第3次全集の3倍近い、各巻が分厚い全35巻・補巻2巻もの全集になり、例えば短篇「伊豆の踊子」に関する回想・エッセイだけで全集の1巻を占めるという断簡零墨まで網羅した全集になりました。決定版全集に先立って、昭和54年(1979年)5月には、従来の全集はおろか単行本化されるのも初めての長篇新聞連載小説『海の火祭』(昭和2年/1927年、地方紙連載)、『舞姫の暦』(昭和10年、地方紙連載)が刊行されました。「伊豆の踊子」の翌年作の『海の火祭』は『浅草紅団』(昭和4年/1929年~昭和5年/1930年)に先立つ幻の処女長篇、『舞姫の暦』は『雪国』(昭和10年1月~昭和22年10月)が集中的に書かれた時期に同時に連載された長篇です。通常処女長篇や脂の乗りきった時期の長篇すら生前に単行本化せず、全集にも収録しない例など川端康成以外にあったでしょうか。さらに全集未収録の新聞小説『東京の人』も単行本全4巻に及ぶ大作ですが、再刊以降は川端自身の意向で前半2巻のみで完結した作品とされています。一旦刊行した作品の後半を抹殺してしまうなど、川端以外に聞いたことがありません。
 いったい川端康成は20世紀イタリアの大作家、カルロ・エミリオ・ガッダ(1893~1973)に似たところがあって、ガッダも川端も文芸思潮的にはモダニズム時代の作家ですが、ガッダの二大代表作『メルラーナ街の恐るべき混乱』(1957年刊)、『悲しみの認識』(1963年刊)はともに20数年以上に渡って書かれ、少しずつ部分的に発表され、どちらも長篇小説3冊分あまりの分量まで書かれながら明らかに未完、または未完の印象を残します。註釈が本文と同じくらい多い傑作連作短編集『アダルジーザ』(1944年刊)も一定分量まで達して放り投げたようであれば、晩年にようやく刊行された『ラ・メカニカ』(1970年刊)はガッダ20代で書かれた処女長篇にして、やはり完結しているのか未完なのかよくわからないような作品でした。日本語訳のあるガッダ作品は上記の4作しかありませんが、およそ常識外れの作家だったのは以上の傑作群でわかります。『メルラーナ街の恐るべき混乱』はピエトロ・ジェルミ監督・主演のヒット作『刑事』(1959年公開)の原作となり、イタリアらしい哀感漂うすっきりとまとまった映画になりましたが、原作は犯罪ミステリの形を取りながら猥雑な下町模様を標準イタリア語ではない方言(辞書にも載っていない俗語だらけだそうです)で書きつつ、一つの町の人々全体を丸ごと描こうとしたもので、‘70年代初頭のイタリアの大ベストセラー小説『月曜日の女』の先駆となったものです。ガッダと川端康成ではガッダが6歳年長ですが、ドメスティックな感性をモダニズム的に、かつ自然発生的に描出する手法は兄弟のように似ています。もっともそれを言うなら、『失われた時を求めて』のプルースト、『ユリシーズ』のジョイス、『城』のカフカ、『ベルリン・アレグサンダー広場』のデーブリーン、『特性のない男』のムージール、『夢遊の人々』のブロッホ、『響きと怒り』のフォークナー、『U.S.A.』のドス・パソス、『マーフィー』のサミュエル・ベケット、『第三の警官』のフラン・オブライエンなど、モダニズムの小説家たちの発想はテーマはドメスティック、手法はモダニズムというものでした。『火山の下で』のマルカム・ラウリーのような異文化衝突のテーマに進んだ例外的存在もいますが、おおむねそうした指向は『V』のトーマス・ピンチョンや『百年の孤独』のガルシア=マルケスまで踏襲されています。

 川端康成は批評家としても新人発掘の目利きでした。旧版全集でもその業績は4巻にも及ぶ「文芸時評」にまとめられていますが、中里恒子や北条民雄、『綴方教室』の豊田正子など、川端の慧眼が世に送り出した才能は枚挙に暇がありません。また、敗戦による文学界の動揺まで、横光利一(1898~1947)と川端は、年少の堀辰雄、太宰治を押さえて戦前~戦中までの昭和文学の二大小説家でした。敗戦後に堀辰雄、太宰治の名声は急激に上がり、横光利一と川端康成の地位も逆転しましたが、そこでも川端の態度は盟友・横光や堀辰雄、太宰治を賞揚し労る、潔癖な人格が自然に発露したものでした。急進的な戦後文学の思潮にあって、むしろ川端が明治以来の近~現代日本文学の伝統に払っていた敬意は小島信夫、吉行淳之介ら「第三の新人」の立場を先取りした観があります。

 いまなお川端康成の業績で評価保留になっているのは、端的に言って「代作疑惑」です。傑作『みづうみ』のあと、自選全集でも『眠れる美女』『古都』『片腕』と一部の短篇しか収録作品に選ばれていないように、谷崎潤一郎と並んで戦後文壇の巨匠となった川端は谷崎と違って新聞連載小説でも人気を博しましたが、生前企画の自選全集でもそれらを未収録としたように『川のある下町の話』『東京の人』『女であること』などは門下生による代作を下敷きにしたものではないかと疑われました。「婦人公論」連載の『美しさと哀しみと』もそうです。実際、戦前の昭和12年(1937年)に「少女の友」に連載された少女小説『乙女の港』は川端門下の新人作家、中里恒子が下敷きを書いたものなのは文壇では公然の秘密とされていました。また昭和25年(1950年)の『新文章讀本』も文壇では代作と見なされていました。また『みづうみ』以後の『古都』はともかく、異色の力作『眠れる美女』『片腕』も傑出した出来から、かえって代作疑惑を囁かれる問題作になりました。『古都』と同時構想の野心的長篇『美しさと哀しみと』が生前企画の自選全集から省かれているのも奇妙です。

 周知の通り川端康成は日本人文学者で初めてのノーベル文学賞受賞者ですが、ノーベル文学賞は国別で受賞作家が選ばれますから、1960年代には日本人文学者が受賞候補に上がるという噂が洩れていました。谷崎潤一郎、西脇順三郎、川端康成、三島由紀夫が具体的に名前の上がっていた候補作家でした。昭和40年(1965年)に谷崎が没し、西脇順三郎は海外訳の少ない詩人であることから候補から下ろされ、川端康成と三島由紀夫が最終候補になっていると報じられるようになりました。川端より25歳あまり若い三島は川端の讚美者で川端の推挽で世に出た作家でしたが、キップリング、シンクレア・ルイス、カミュらが40代でノーベル文学賞を受賞したように、川端より外国語訳の多い40代の自分が受賞するのを念願していたと伝えられます。川端のノーベル文学賞受賞の報に、友人に「これで俺はもう獲れないんだ、どうせ30年後に大江(健三郎)が獲るんだ」と漏らしたという三島は、以後没年まで川端から距離を取るようになりました。論者によっては「三島は『みづうみ』以後の川端作品をすべて代作と見なしていた」と極端な推定をする意見も見られます。実際ノーベル文学賞受賞記念に受賞翌年から刊行された川端の第3次全集は、全著作の1/3程度しか収録されていないように、代作疑惑のある作品はあえて抹殺した全集とも言えるのです。全集収録作でも川端は「『末期の眼』と『禽獣』は大嫌いだ」とくり返し放言しています。また「伊豆の踊子」がいかに綺麗事しか書かなかったかを強調して止みません。自選全集でも自作のほとんどを失敗作と見なし、積極的に力作と自負し自信を表明しているのは囲碁観戦記の『名人』だけと言っていいくらいです。

 川端は丹念に自信作を精選して系統立った生前全集を編んだ谷崎潤一郎、三島由紀夫とはまるで異なるタイプの作家でした。谷崎、三島も没後に決定版全集が編まれていますが、晩年作品を除けば主要作品は生前刊行の自選全集に尽きるものです。川端康成全集は一度は収録した作品を抹消したり、また再収録したりと気分次第です。処女長篇『海の火祭』すら生前単行本刊行せず、代表作『雪国』と同時連載していた脂の乗った時期の新聞連載長篇『舞姫の暦』すら生前刊行していません。そもそも川端のほとんどの小説自体が途中から始まって未完に終わっているようなものばかりです。なかなか日本を代表する作家どころではないのです。しかも川端康成の小説は、谷崎や三島よりも女性読者がついています。これは川端と表裏一体の存在だった横光利一には考えられないことで、川端はその曖昧性で謎めいた作家であり続けています。