三冊の「評伝・三島由紀夫」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。



 三島由紀夫については雑誌ライター時代に何度かコラムを依頼されたことがあって、本来ならば筆者のような(元)三文雑文ライターが文学について書くのはおこがましいのですが、雑誌というのはテレビのようなものですから編集者も少しの割合で教養記事を載せるのが慣習になっています。フリーライターになった当初から仕事仲間の編集者には筆者は芸術関係、特に文学と映画と音楽には詳しいと誤解されていたので、依頼されたら何でも書きました。雑文以外に能がなく、他に生計が立てられなかったからですが、出版界の仕事は八割方がハッタリと知ったかぶりで、筆者もまたバルザックの描いた「人間喜劇」に登場するジャーナリスト志願の青年ウージェーヌ・ラスティニャックのような気分を味わうことになりました。たいがいの著名作家、映画、音楽家については次から次へと書いたはずです。それこそヴィトゲンシュタインからグレン・グールドまでコラムの種にしました。一例をでっち上げると、

「戦後クラシック界のカリスマ、グレン・グールドはポップス音痴で、『ビートルズなど「抱きしめたい」と「イエスタデイ」しかないではないか』とわざわざ引き合いに出した上で、『ぺトゥラ・クラークはビートルズより良い』とポップス時評で断言しました。もっともグールドはのちに再びビートルズに触れて、『「イマジン」は良い』とつけ足しましたが、ぺトゥラ・クラークの良さはともかくとしてもビートルズ批判は滑稽です。ビーチ・ボーイズの「サーフス・アップ」を絶讚したレナード・バーンスタインの柔軟さが改めて思い出されますが、カラヤンとともに戦後クラシック界の二大指揮者と名高いバーンスタインは大ヒット・ミュージカル『ウエスト・サイド物語』の作曲者でもありました。グールドのビートルズ批判については、ヴィトゲンシュタインの命題「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」が教訓となるようなものでしょう。」

 といった具合で、気の効いたことを言っているようで中身は空っぽ、ただの引用の組み合わせです。こんな軽佻浮薄かつ牽強附会なものは上っ面の読書好きなら筆者でなくても書けるので、いわば誰でもできるような作文を雑誌媒体に合わせて提供していただけです。筆者は子供の頃から綿密に日記をつけ、また思春期以降はつきあっていた女の子にこれでもかというくらいラブレターを送りつけていましたが、雑誌ライターの仕事をしていた頃はお金になる以外の文章は一切書きませんでした。それが崩れたのは結婚して娘を授かり、保育園への連絡帳に入念な育児・成長記録をつけるようになってからですが、それはまた別の話になります。それに、ここまでで前置きとしては冗長すぎるほど無駄話を書いてしまいました。ライター時代の悪い癖が抜けていない証拠のようなものです。
 つい2週間ほど前、三島由紀夫(1925~1970)生前最後の自選全集全5巻(1962年~1968年刊)について記事を載せましたが、それから三島由紀夫についての文献6冊をじっくり読み返しました。写真で辿る評伝『新潮日本文学アルバム・三島由紀夫』(新潮社・1983年刊)、三島についての代表的なエッセイ、回想、批評を集成した『文芸読本・三島由紀夫』(河出書房新社・1980年刊)、『群像・日本の作家~三島由紀夫』(講談社・1990年刊)をそれらのシリーズの川端康成、横光利一の巻(この両作家は堀辰雄、太宰治と並んで、10代までの三島がもっとも注目していた戦前~戦中の大家です)とともに読み、三島の友人だった三人の文芸批評家、佐伯彰一(1922~2016)の『評伝・三島由紀夫』(原著=新潮社・1978年刊)、松村剛(1929~1994)の『三島由紀夫の世界』(原著=新潮社・1990年刊)、奥野健男(1926~1997)の『三島由紀夫伝説』(原著=新潮社・1993年刊)を入念に読み返しました。いずれも原著刊行社が新潮社なのは、三島の生前著作集(『三島由紀夫作品集』全6巻・昭和28年~29年、『三島由紀夫選集』全19巻・昭和32年~34年、『三島由紀夫戯曲全集』『三島由紀夫短篇全集』『三島由紀夫評論全集』『三島由紀夫長篇全集 (I, II)』昭和37年~昭和43年)や第2長篇『愛の渇き』から『潮騒』『金閣寺』、晩年のライフワーク『豊饒の海』四部作、没後全集『三島由紀夫全集』(全35巻+補巻1・昭和48年~51年)に至るまで三島作品をもっとも多く刊行していたのが新潮社であり(没後30周年記念に2000年~2005年に刊行された『決定版 三島由紀夫全集』全42巻+補巻=補遺・索引も含め)、佐伯彰一と村松剛は第一次『三島由紀夫全集』の編纂委員でした。またアメリカ文学者だった佐伯氏、フランス文学者だった村松氏に対して現代日本文学の批評家だった奥野健男は三島と交遊を結んだのが佐伯親友や村松氏より早く、昭和27年の批評家デビュー以来三島から新作の献呈を受けて新作刊行のたびに書評・批評を発表しており、奥野の処女出版『太宰治論』(近代生活社・昭和31年)には三島由紀夫が別冊解説を寄せているほど、三島からの信頼と共感を得ていた、肝胆相照らす仲でした。また三島由紀夫評伝に着手したのも奥野がいちばん早く、文化総合誌「自由」に昭和48年から2年をかけて『評伝三島由紀夫』を連載するも、掲載誌の編集方針の変化から原稿用紙1千枚分で未完に終わっています。アメリカ文学者の佐伯彰一、フランス文学者の松村剛は奥野健男より数年遅れて昭和33年創刊の文芸誌「批評」によって三島との交流が始まりましたが、アメリカ文学者の佐伯氏は三島が朝日新聞の文化特派員としてアメリカ~南米~ギリシャ~ヨーロッパを周った昭和27年には同時期に面識はないながらアメリカ留学しており、交流以降の佐伯氏は三島作品の英語圏への紹介者として信頼を得ます。村松の場合はもっと特殊で、村松氏の母堂は三島由紀夫こと平岡公威の母堂と小学生時代からの親友で、官僚家系の三島に対して村松氏は医家の家系でしたが、江戸時代から続く山の手の上流階級としてほぼ似通った(しかも生家が近所の)生育環境を送っています。
 また戦時下に育った三島にとっては生年の差や戦争体験も佐伯、奥野、村松の三氏への胸襟の開き具合の差となって表れており、佐伯氏は三島より3歳年長、村松氏は三島より4歳年少で佐伯氏・村松氏ともに学究の徒(大学教授)だったのに対し、奥野氏は三島より1歳下で在野の文芸批評家であり、戦時中に軍国少年だった体験と昭和10年代作家、ことに三島が影響と反発を同時に抱いていた太宰治、留保なしに最大の尊敬を抱いていた坂口安吾に傾倒していたことでも、三島が同世代の批評家として率直かつ身近に信を置く人物でした。映画監督と映画批評家の例ですが、大島渚と佐藤忠男氏の関係が三島由紀夫と奥野健男の関係に近いものでしょう。それは佐伯、村松、奥野氏各氏の評伝にも表れていて、三氏の中でいちばん単行本にまとめられるのが早かった佐伯氏の『評伝・三島由紀夫』では三島の自決への社会的反響をまとめた時評文の集成から始まり、当時まだ未完だった奥野氏の評伝を援用しながら文壇デビューまでの三島の道のりをたどり、代表作の各論は評伝というよりブッキッシュな創作家・三島由紀夫の代表作を古今のヨーロッパ文学との比較文学的研究で読み解いて三島の変遷をたどっており、三島との私的な交遊関係のエピソードは最小限に抑えられています。村松氏の『三島由紀夫の世界』はむしろ三島にかこつけた村松氏の自伝的回想と言うべきもので、村松氏が属した戦後日本のエリート文学者界隈、アカデミズム的視点から三島のゲイ体験を捏造と疑い、代表作以外の作品への言及を退け、村松氏が晩年の三島といかにして袂を分かったかまでを冷静に証言しています、村松氏の回想は生々しく強烈で、決別近い時に村松氏は三島から「ふーん、きみにも日本語がわかるのか。フランス語しかわからないと思っていた」と痛烈な皮肉を浴び、「そのことばは撤回してほしいとぼくがいうと、--きみは頭の中の攘夷を、まず行う必要がある。//目を据えて三島はいった」と貴重な証言にあふれています。そしておそらく未完の雑誌連載から22年間を要して擱筆・刊行された原稿用紙1,400枚もの奥野健男の『三島由紀夫伝説』(1993年刊)は、佐伯彰一『評伝・三島由紀夫』(1978年刊)、村松剛『三島由紀夫の世界』(1990年刊)をも眼光を紙背に徹して、本格的デビュー作『仮面の告白』(昭和24年/1949年7月刊)までの形成期に前半15章、続く『愛の渇き』『純白の夜』『青の時代』(3作とも昭和25年刊)から遺作『豊饒の海』四部作(昭和40年~45年)の完成とともに割腹自殺に至るまでの長篇小説、短篇小説、戯曲のほぼ全編と主要評論・小品、後半生の評伝に後半15章を費やした、「太宰治を母に、坂口安吾を父に、三島由紀夫を兄に」批評活動を行ってきたと宣言していた奥野氏自身にとってもライフワークとなった大作評伝になりました。すでに晩年の病床に着いていた奥野氏の記述は身振りが大きく、『仮面の告白』を「世界文学史上の傑作」、『金閣寺』を「世界的文豪の座に着いた」作品としています。そこにはまだ壮年期に死んだ親友・三島との友情の思い出や在野の批評家として生涯を貫いた(それには三島作品批評家としての後押しが多大だった)奥野氏の感傷も大きいでしょう。またこの『三島由紀夫伝説』は三島由紀夫没後50年・奥野氏没後3年を経た平成12年(2000年)に文庫化されましたが、あまりに厚翰かつ多岐に渡る内容のため全30章を20章に、奥野氏に私淑した編者によって割愛圧縮・再編集されて文庫に収められました。奥野が心血を注いだ完全版に較べると、2/3以下、しかも短縮され所々脈絡の抜けた文庫版はいかにも物足りないものです。結局今回も本題(佐伯彰一、村松剛、奥野健男による三島由紀夫評伝への個別の感想と、読み較べて見えてきたもの)までたどり着けずに1回の記事としては長くなってしまいましたが、筆者は三島由紀夫ゆかりの地に少なからず縁があり、また大学生時代に学んだ大学の先生たち(三島と同世代の方々ですからその後間もなく退官され、今はすでに故人です)から三島についての回想を少なからずうかがいました。そうした証言、評伝から浮かんでくる三島由紀夫像についてはまた回を改めて書いてみたいと思います。