アルベール・カミュ再読 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


 と記事タイトルにはしましたが、筆者がアルベール・カミュ(1913~1960)の生前発表の主要作品を最後に読み返したのは12年ほど前、病状悪化でサナトリウムへの入退院をくり返していた数度目の入院の時でした。そう多くの私物は持って行けませんから、入院のたびに分厚い文学全集を2、3冊持っていき、1回あたり3か月のサナトリウム入院に同じ本を何度も読み返していました。いちばん多く携帯したのは夏目漱石の全小説を収録した全集本と『大杉栄全集』『梶井基次郎全集』『花田清輝全集』の縮刷版、角川書店刊の1巻本の第二次中原中也全集でしたが、カミュも主要生前刊行作品は8ポイント2段組各巻720ページもの分厚い文学全集「新潮世界文学」48巻・49巻(新潮社・昭和43年刊)でほぼ全部読めるので、入院中の3か月間にカミュ全作品を10周読む、という夏休みの大学生のような入院生活を送りました。文学少年の例に洩れず筆者が図書館の新潮社版翻訳カミュ全集を読んだのは中学生から高校生にかけてで、カミュ作品はガキのはしかのようなものかよと生意気な感想を抱きましたが、文庫化されている主要作品はやはり気になり古本で見かけるたびに揃えていきました。「図書館でしか読めない本は図書館を利用したが、古本でも買える本はなるべく買って読んだ。同じ本でも借りて読むのと買って読むのではカロリーが違う気がしたからだ」というのはソール・ベローの自伝的長篇小説『オーギー・マーチの冒険』の一節ですが、確かに自分の蔵書にして読み返すカミュ作品はカロリーが違いました。『異邦人』の犯罪サスペンス小説としての巧みさ、『ペスト』の集団パニック小説としての面白さ、『転落』の実験的(「信用できない語り手」の導入)ブラック・ユーモア性、短篇集『追放と王国』の確かな小説的手腕(アンドレイ・タルコフスキーの名作『ノスタルジア』はこの短篇集の巻末作品で随一の傑作「生い出ずる石」の本案です)に気づき、その後大学生になって全集未収録の没後発表の習作長篇『幸福な死』、創作ノート『カミュの手帖 1935-1959 (I『太陽の讃歌』、II『反抗の論理』)』、未完の遺稿長篇『最初の人間』を読んでさらに考えを改め、特に好きな作家になったとまでは言えませんがこの作家の思考の跡はしっかり辿っておきたいと思うようになりました。幸い新潮社刊「新潮世界文学」48巻・49巻は全10巻の翻訳カミュ全集を圧縮した、文庫化されていない作品を含む内容だったので、古本で購入して時々気になる箇所を読み返していましたが、まさか入院生活の際に役に立つとは何とも皮肉なものでした。
 文学全集「新潮世界文学」のカミュ編をなす48巻・49巻はカミュ生前刊行の主要作品をほぼ網羅した編集で、この2冊を読んでいればカミュのほぼ全貌はつかめる、という準全集です。収録作品は、
◎第48巻・カミュI (エッセイ、全小説)
・表と裏 (長篇連作エッセイ、1937年刊)
・結婚 (長篇連作エッセイ、1939年刊)
・夏 (長篇連作エッセイ、1954年刊)
・異邦人 (中篇小説、1942年刊)
・ペスト (長篇小説、1947年刊)
・転落 (中篇小説、1956年刊)
・追放と王国 (短篇集、1957年刊)
◎第49巻・カミュII (主要戯曲、主要評論)
・カリギュラ (戯曲、1944年刊)
・誤解 (戯曲、1944年刊)
・戒厳令 (戯曲、1948年刊)
・正義の人々 (戯曲、1949年刊)
・シューシポスの神話 (長篇評論、1942年刊)
・反抗的人間 (長篇評論、1951年刊)

 生前発表の長篇連作エッセイは1957年刊の『ギロチン』が未収録ですが、共作、翻案以外の戯曲は上記4篇で全作、長篇評論も上記2作ですから、文学全集のカミュ編2冊、各巻720ページで生前のカミュのほぼ全業績は尽きています。やはり43歳で生前最後の自選全集全5巻(同様に8ポイント2段組、各巻平均1,200ページ)を刊行した三島由紀夫の2/5以下にしかなりません。カミュのノーベル文学賞受賞は1956年、カミュ43歳の年ですから、文学全集で2冊に収まる上記の著作でカミュはラドヤード・キップリング(1865~1936、イギリス作家では初受賞、1907年受賞、41歳)に次ぎ、シンクレア・ルイス(1885~1951、アメリカ作家では初受賞、1930年受賞、45歳)を抜く、史上最年少ノーベル文学賞受賞作家の一人になったのです。ちなみに1968年のノーベル文学賞は日本人作家を初受賞させる、というスウェーデン・アカデミーの趣旨で川端康成が受賞し、川端とともに候補に上がっていた43歳の三島由紀夫は「次の日本人作家の受賞は25年後だ、どうせ大江(健三郎)の奴が受賞するんだ!」と酒席で荒れた(そして三島の予言は的中しました)という証言が残されています。キップリング、シンクレア・ルイス、カミュと並べれば、1965年の谷崎潤一郎没後の日本人文学者の中で三島は十分ノーベル文学賞受賞に値する業績があり、所詮ノーベル文学賞も水物という観を深くします。カミュのノーベル文学賞受賞も、シンクレア・ルイス受賞時のアメリカ国内での反応同様(この時の最終候補はルイスより15歳年長の真の大家、セオドア・ドライサーでしたが、ドライサーは共産主義への関心を表明していたため反共産主義的なスウェーデン・アカデミーに落選させられました)、当時サルトルとの論争で保守化したと評価を落としていたフランス国内では冷淡な反応でしか受け取られなかったと言われます。
 カミュについて早くから日本語訳された評伝では、イギリスの批評家フィリップ・ソディの『アルベール・カミュ』(原著1961年刊、翻訳1968年刊)、フランスの批評家アンドレ・ニコラスの『カミュ』(原著1966年刊、翻訳1970年)があり、どちらもカミュ没後(1960年1月に交通事故死)の原著刊行ですが、「現代の哲学者叢書」のシリーズの一冊として刊行されカミュの思想的側面に集中したアンドレ・ニコラスの論考より、ジャーナリスト的観点で幅広く戦後文学者カミュの変遷を辿ったフィリップ・ソディの考察に軍配は上がります。ラテン系の発想は解剖学的、アングロ・サクソン的発想は社会学・生態学的(さらにゲルマン的発想は分析的、ロシア的発想はイデア的)とよく言われますが(例えばシマウマについて、ラテン系学術では「胴体は馬、首は麒麟、脚(蹄)は~」と解剖学的に分析していくのに対し、イギリス的学術ではシマウマの生態環境学から分析を始めます)、カミュのような時代の寵児・旗手的立場に立たされた作家の場合はドライな社会学的観察で文業を辿る方が示唆する所は大きいと感じられます。思想家としてのカミュに焦点を絞ったニコラスの著作がカミュの全著作を哲学的評論『シューシポスの神話』の発展として全作品を『シューシポスの神話』との照応によって論じているのに対し、ソディの評伝はむしろ作品毎に暗中模索を重ねた、時には日和見主義者にさえ見えるカミュ像を親身に論じています。特にソディの筆鋒はカミュ最大の野心的長篇評論『反抗的人間』で冴えていて、やはりカミュの小説中最長で雄大な構想を誇る『ペスト』の大成功と対照的に、なぜ『反抗的人間』が(『ペスト』同様国際的ベストセラーになるも)論旨は粗く説得力に欠け、一方的な総括化が目立つ混乱した長篇評論になったかを、的確に解きほぐしています。ソディは先に長篇の『サルトル論』の著作があり、『アルベール・カミュ』はカミュ生前にほぼ完成されていたものが、カミュの急逝に急遽追加取材され刊行されたらしく、交通事故死については最終章の末尾数行で触れられているだけですが、おそらく原著の増補改訂版があれば没後刊行作品や、何よりカミュ急逝に対するジャーナリズムの反応が付け加えられたと思います。
 フランス人批評家ニコラスの論考はカミュの全著作を『シューシポスの神話』と関連づけて論じる、という典型的な解剖学的発想なのに対して、ソディの考察は1930年代に端を発したポピュリズム的市民戦線(これはナチス・ドイツの影響で右傾化する政治事情に対する親社会主義的な市民運動でした)と実存主義文学的風潮という背景でカミュの出発点を捉え、常に変転する戦時中~戦後の社会的・文学的風潮の中でカミュ作品を解読する、という社会学・生態学的手法でカミュを論じています。そうしたソディの論法は規模の大きい作品を対象にするほど生きるので、コンパクトな原論的作品『異邦人』や『シューシポスの神話』より、『ペスト』や『反抗的人間』のような、カミュ自身が自己の領域を拡張しようとした野心作を論じる際にもっとも生彩を放つのです。思想家・哲学者としてカミュを論じたアンドレ・ニコラスの論考も有用なものですが、あまりに思想と哲学の面でカミュ作品を読もうとするあまり、実物大以上にカミュを誇張しようとしている観がぬぐえません。一方フィリップ・ソディの評伝はカミュの限界と可能性をソディ自身の文学観や読者の反応、ジャーナリズム評価に照らして冷静かつ丁寧にカミュ作品を読みほぐす姿勢に貫かれており、カミュ作品自体はソディのような読み方もニコラスのような読み方も、どちらも呼びさますようなものでしょう。筆者自身がカミュ作品については、創作ノート『カミュの手帖 1935-1959 (I『太陽の讃歌』、II『反抗の論理』)』、ソディとニコラスの評伝を読み返して、確かめるように作品に当たるという読み方をすることの方が多いのです。カミュ作品でもっとも面白いのは大作『ペスト』『反抗的人間』だと思いますが、小説家として円熟した手腕に到達したのは『転落』、短篇集『追放と王国』、ことに真に神話的領域まで見事に描き得た傑作短篇「生い出ずる石」で、ノーベル文学賞受賞後に着手されるも事故死によって未完に終わった『最初の人間』もカミュの長篇小説の最高傑作になった可能性があったと思われます。今回もまた語り尽くせなかったので、うさんくささと紙一重のカミュ作品については、また回を改めて楽しみたいと思います。