幻の大正詩人・高鍬侊佑 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

『高鍬侊佑全集』池谷竜編
令和4年(2022年)8月10日刊
『詩集  月に開く窻』
私家版・大正11年(1922年)8月6日刊

 月

蒼ざめて何處(いづこ)にゆくや、

指環(ゆびわ)、燃ゆる星、
地獄に墜つるその槍のひかり………。

山々、谷々、忘れられて靄(もや)に蔽(つゝ)まれ
姿見に虹は紫――――戀人は佇(た)つ。

蒼ざめて何處(いづこ)にゆくや。

 朝

(あかつき)の玻璃戸に夢を贈る
光の泡沫、銀の顫動は、
障壁に飛ぶ彈丸よりも細やかに惱めるわが胸を擊つ。

光燿の中に歌をおもひ
また竟(つい)に沈むべき船の行方を見送る
心の悲哀に、
曙の樹立(こだち)よ翳(かげ)れ。

わが想ふとき、薄紗(うすぎぬ)に蔽まるゝ戀人の像(すがた)
「朝」の掌のうへの小さい蠟燭だ!

私はそれを燃やさうか?
――――灰になつた戀人は冷からう。

私は萎れたヒヤシンスのやうな死骸を擁(いだ)くのであらうか。
否。否。否!

幻想を喚ぶ劃(かぎ)られた窓の世界よ。
私はみづからの戀を嘆き、
窓を閉ぢ、夢を葬る。………

「朝」は小靴(をぐつ)を穿いて遊ぶ。――――
「朝」は縛られた肉體と靈魂を哭(な)く。

(以上2篇、大正11年/1922年6月「瑯玕」、詩集『月に開く窻』収録)

 大正11年(1922年)8月6日に神奈川県鶴見町(現横浜市鶴見区)の奥付で限定100部・私家版・非売品として刊行された全14篇収録の詩集『月に開く窻』を唯一の著書とし、刊行と前後して夭逝した詩人・高鍬侊佑は、その後詩集の再刊もアンソロジー類への収録もなく、100年あまり忘れられていた詩人です。現存が確認される高鍬侊佑の全詩篇(『月に開く窻』全14篇、詩集未収録詩篇26篇)、没後に同人誌掲載された詩友(竹内隆二宛て、棚夏針手宛て、工藤誠宛て)書簡を集成した『高鍬侊佑全集』が気鋭の編者、池田竜氏によって刊行されたのは詩人没後100年を経た令和4年(2022年)になりました。高鍬侊佑の経歴・活動は当時の発表誌、同人誌類しか資料がなく、池田氏の文献調査によると生年は明治35年(1902年)前後、結核による病没は北原白秋が序詞を寄せた詩集『月に開く窻』刊行前後の大正11年(1922年)8月上旬~中旬と推定されています。享年満20歳で夭逝し、高鍬侊佑が創刊同人だった同人誌「瑯玕」第四号(大正11年12月)では「高鍬侊佑追悼號」が組まれ、詩集『月に開く窻』全14篇に加えて大正8年(1919年)から絶筆までに至る『高鍬侊佑詩全集』の予告が掲載されました。しかし「瑯玕」、また「瑯玕」同人が創刊した高鍬侊佑没後の同人誌「君と僕」同人によって大正12年(1923年)8月まで進められていた『高鍬侊佑詩全集』は、「瑯玕」以来の詩友・棚夏針手の第一詩集『薔薇の幽靈』の企画ともども大正12年9月1日の関東大震災によって刊行を見ずに終わってしまいます。関東大震災によって実現しなかった『高鍬侊佑詩全集』を包括する『高鍬侊佑全集』が100年を経て刊行された意義の大きさはそこにあります。

 高鍬侊佑の詩作発表は大正8年(1919年、17歳)に始まり、同年には「文章世界」に1篇、「赤い鳥」に3篇が入選しています。「文章世界」への投稿は桑井野十手名義、「赤い鳥」への投稿は高鍬重朝名義でした。翌大正9年(1920年、18歳)には西条八十主宰の「詩王」への投稿も広げ、「詩王」に2篇、「文章世界」に5篇、「赤い鳥」に2篇と9篇もの入選を果たしています。大正10年(1921年、19歳)には「赤い鳥」に1篇と寡作ですが、大正11年(1922年、20歳、8月逝去)にはこれまでの投稿で知遇を得た同世代の詩友と同人誌「瑯玕」を創刊して逝去する8月にまでに3篇を発表、また西条八十主宰の詩誌「白孔雀」にも2篇を発表しています。以降、『高鍬侊佑詩全集』の企画とともに「瑯玕」とその後継誌「君と僕」に大正12年(1923年)8月まで未発表遺稿が発表されますが、同年9月の関東大震災で『高鍬侊佑詩全集』の企画も流れ、まだ残されていたかもしれない遺稿詩篇も失われてしまいます。高鍬侊佑が筆名を「高鍬侊佑」に定めたのは大正11年6月の同人誌「瑯玕」創刊第一号からで、「瑯玕」第一号に詩集『月に開く窓』の巻頭の2篇「月」「朝」が発表されていることから、この時点で詩集『月に開く窻』全14篇は実質的に書き下ろしで成立していたと推測されます。「瑯玕」創刊号の入稿が前月とすれば、高鍬侊佑唯一の自選詩集『月に開く窻』は肺結核で逝去する最晩年の3か月に、遺稿詩集になることを覚悟して一気に創作されたものでした。実家から詩集刊行費用援助を得て、知人のつてで装丁は岸田劉生に、序詞は北原白秋に依頼し、巻末には高鍬侊佑への追悼詩を同人誌「瑯玕」仲間の竹内隆二、添田英二、棚夏針手が寄せ、また編纂や刊行は「文章世界」で高鍬侊佑(当時の筆名は桑井野十手、または桑井野十郎)の投稿を採用し、親切な指導を行っていた西条八十が助言しています。北原白秋は大正11年10月の芸術誌「誌と音楽」に高鍬侊佑への追悼文「月に開く窻――――月光微韻餘香」を発表し、大正11年12月の「瑯玕」第四号「高鍬侊佑追悼號」では「瑯玕」同人、詩友仲間とともに西条八十が追悼文を寄せました。しかし、白秋や八十ほどの一流詩人にその才を惜しまれるほどでありながら、関東大震災をはさんだ復興後の現代詩の潮流は急激にアナーキズム詩、モダニズム詩、プロレタリア詩らに席巻され、ロマン派~象徴主義~高踏主義的な夭逝詩人・高鍬侊佑は生前の知友にのみ記憶されながら、高鍬侊佑が白秋、三木露風、西条八十、日夏耿之介とともに愛読した『詩集  奥ゆかしき玫瑰花(はまなす)』(籾山書店・大正10年(1921年)1月19日刊)の詩人・長谷川弘(明治31年/1898年5月3日生~大正9年/1920年12月1日病没、享年23歳)と同様に、再評価の声が上がることはなかったのです。

 詩集未収録詩篇を集成した『高鍬侊佑全集』を読むと、詩集『月に開く窻』収録の全14篇と『月に開く窻』以降の遺稿の高踏主義的作風に対して、桑井野十手、または桑井野十郎名義で「文章世界」「詩王」に投稿された詩篇、また高鍬重朝名義で「赤い鳥」に投稿された童謡詩では作風に相違が見られます。川路柳虹(1888-1959)とともにもっとも早い口語詩人、三富朽葉(明治22年/1889年生~大正6年/1917年事故死、享年27歳)は生前刊行詩集がなく、大正15年(1926年)10月刊の増田篤夫編『三富朽葉詩集』が全詩集、訳詩集、批評・詩論・研究、書簡を集成した全集となり昭和初頭の若手詩人に広く読まれましたが(春山行夫は三富朽葉を「無詩学時代の唯一の詩学詩人」とし、中原中也も日記に、日本の現代詩人として「岩野泡鳴/三富朽葉/佐藤春夫/高橋新吉/宮澤賢治」と記しています)、三富朽葉の全遺稿詩集は三富自身によって四期に分けられ、習作期を明治40年(1907年)~明治41年に河井醉茗の「文庫」寄稿家時代の文語詩(これは増田篤夫編全集では割愛され、昭和4年/1929年の新潮社版『現代詩人全集・第6巻/石川啄木集・山村暮鳥集・三富朽葉集』で初めて増補され、昭和53年/1978年の牧神社版、矢野峰人・杉本邦子編『三富朽葉全集』で集成されました)、第一期の『第一詩集』を創刊同人となった同人誌「自然と印象」発行時期の明治42年(1909年)~明治43年の口語自由詩篇41篇とし、第二期『第二詩集  営み』を早稲田大学卒業の明治44年(1911年)~大正元年(1912年)の結婚、大正3年(1914年)の結婚の破局までの口語定型詩篇14篇と定め、第三期を大正3年に4篇、大正4年~大正5年の詩論・批評の集中的発表を経て、没年の大正6年(1917年)に1篇が書かれた長篇散文詩集『生活表』としています。散文詩集『生活表』はボードレール、マラルメ、ランボーの散文詩を摂取した先駆的な作品ですが、「文庫」に依った文語詩時代は習作として、朽葉自身、また全集編者で朽葉に師事した増田篤夫がもっとも完成度が高いとする『第二詩集  営み』の口語定型詩を指向した佶屈さより、口語自由詩ならではの可能性、柔軟さ、風通しの良さは『第一詩集』に現れていると思えます。同じことが高鍬侊佑にも言えて、詩集『月に開く窻』収録詩篇の重々しさに較べて大正10年までの桑井野十手、または桑井野十郎名義の詩篇はもっと若々しい青春の倦怠感が詠われ、密度においては薄くても発展の可能性は高く、やはり倦怠感をテーマとした三富朽葉の『第一詩集』に似た、より自由で率直、かつ柔軟な感覚が好ましく感じられます。

 部屋

夕方唯一人ゐると、
部屋は僕に恐しいものになつてくる。
時圭(とけい)はしづかな吐息で、しとやかに
長い常春藤(きづた)を斷つてゆくが、
飛び得ない心が、
象牙の階(きざはし)に躊(ためら)ひ、――――
ふくやかな日の光が飛び去つたあと
額縁に眠る吉丁蟲(たまむし)よ、黄ろい背が
昵と入日の景色を夢想する。

寂寞の野よ、
遙かなる山の薄黄に
雲影は五月の華のごとく、
さゞめくは蒼い水路、
光は水のごとく空をゆく。――――
一時に溢れ出づる遠き歎き、
哀惜、苦痛、
又は並べられた棋を仆した姫君の右の小指か、
果知らぬ國をゆく旅人の瞳のうるみか、

夕方唯一人ゐると、
部屋は僕に恐しいものになつてくる。――――

(大正9年/1920年9月「詩王」、筆名・桑井野十手、詩集未収録)

 夏の部屋

人の居ない
この部屋に、
夏は圓味を殘して
行く。

そつと
接吻けた寫眞を、
遠のかせて、
テーブルの上に剝きかけた林檎を見る。

カーテンに映る白楊(ポプラ)の影。
林檎の皮は燃えるやうに紅い。
今、海岸の砂の上の一人の戰慄が僕につたはる。………

夏は
あゝ夏は、
飮み倦きたコツプを擲げつけて。
去る。

(大正9年/1920年10月「文章世界」、筆名・桑井野十郎、詩集未収録)

 高鍬侊佑が残した全40篇の詩篇は、必ずしも自選遺稿詩集『月に開く窻』14篇が佳汁のすべてではなく、詩集未収録詩篇26篇を併せていっそう詩人の貌が浮かんでくるものでしょう。また北原白秋、西条八十に傾倒した高鍬侊佑の詩は白秋や八十より薄味で、そこが好ましくもあれば個性の稀薄さも感じさせ、北原白秋や西条八十とは別に独自の作風を確立していた、順調な発展をたどれば萩原朔太郎が就いた地位に十分届き得る詩才を備えていた三富朽葉の、確たる方法論に支えられた創作力に及ばない限界も認められずにはいられません。「夏の部屋」の選評で、西条八十は「いつもながらこの作者の絢爛な詩筆はホフマンスタールにも比さるべきものである。たゞもすこし単純化が欲しい。私は一段他の寄書家諸氏に対しては『出来るだけ概念を感覚にて包め』と勧告するが、この作者に向つてはその反対を勧めたい。君の感覚はすこし忙しすぎる」と評しています。ホフマンスタールとの比肩は過褒ですが、八十の選評は静謐な設定に空想的感覚を広げる高鍬侊佑の発想をよく見抜いています。それはより重厚な修辞が目立つ書き下ろし遺稿詩集『月に開く窻』でも本質的には変わらないので、27歳の夭逝まで次々と辛苦を舐めながら作風の変遷を経た三富朽葉と思い合わせても、高鍬侊佑は十分な成熟の時間が与えられなかった詩人という印象が強いのです。 

池谷竜・編著作目録

『雄鶏とアルルカン: ジャン・コクトーの音楽小論』2019年10月17日
『不死者の不幸: ポール・エリュアール詩画集』2020年11月18日
『愛の紋章: ポール・エリュアール中期詩選集』2021年5月1日
『棚夏針手全集  上巻』2021年6月1日
『山田一彦全集』2021年8月15日
『棚夏針手全集  下巻』2021年9月1日
『吉田眞之助全集 上巻』2021日9月12日
『井口蕉花全集』2021年11月17日
『長谷川弘詩集』2022年6月21日
『高鍬侊佑全集』2022年8月10日
『北村初雄詩集 上巻』2022年10月12日
『北村初雄詩集 下巻』2022年12月2日
『北村初雄詩集 補巻』2022年12月2日