(3)「サド侯爵」の可能性 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


・サド侯爵の肖像画

 前々回・前回で強調したかったことは、通俗的には反逆的で生前には筆禍によって逮捕・収監されるほど過激なエロティシズム小説の作家として知られるマルキ・ド・サド(サド侯爵)ことアルフォンス・フランソワ・ド・サド(1740-1814)は確かに変態性欲全書と言えるほど徹底したエロティシズム小説を書いたには違いありませんが、それはサドにとって想像力の表れであり、社会や人間への憎しみを極端に表すにはエロティシズム小説という手段を取って最大の想像力を働かせた作家だったということです。その作品は当時にあっては国家検閲によって禁書とされるほど公序良俗紊乱的な、危険で異端的なものでしたが、サドは同時代の作家だった『パリの夜~革命下の民衆』1788-94のジャーナリスト作者ニコラ・レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(1734-1806)、『危険な関係』1782の作者フランソワ・ショデルロ・ド・ラクロ(1741-1803)のようなリアリストではありませんでした。数次に渡って投獄された貴族出身のサドには社会の裏も表もじっくり観察する機会があったでしょう。しかしサドの小説はサドにとって望ましい世界が書かれた一種の異世界小説であり、その限りにおいて一種のユートピア小説として書かれたものでした。暗黒小説の作家として暴露的なジャーナリスト作家だったレチフを、サドが軽蔑して憎悪していたのは当然です。レチフのような現実暴露を指向した作家は、むしろサドにとっては憎むべき社会の一員に属するものでした。匿名出版で作品を流布していたサドにはもちろん公序良俗紊乱の意図があり、読者を侮辱し、反発させ、挑発するのも目的ではあったでしょう。しかしサドは処女作『ソドム百二十日』を刊行の当てもなくバスティーユ監獄で書いていたように、想像力による精神的充足こそが作品執筆の目的だったと考えるのが妥当と思われます。それゆえにサドは自分の知性がおよばないことまでは想像力を広げられない限界をも抱えており、しかもみずからを相対化する視点を持ち得なかったサドはそれには気づいていなかったと思われます。これまでの回にも上げた、サドの生涯と主要作品の略年表を上げておきましょう。
・『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の挿画
◎1740年 : サド、伯爵家にて誕生。
◎1763年(23歳) : 七年戦争(1756-1963)の軍役から大戦終結にて除隊、結婚。2男1女を得る。
◎1776年(36歳) : 領地に劇場設立。
◎1777年(37歳) : 実父の逝去によって家督相続、祖父代を継ぐ侯爵位に就く。
◎1778年(38歳) : 死刑判決(宗教侮辱罪、殺人未遂罪、猥褻罪)、収監。処女作『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(~1785年、未完)。
◎1790年(50歳) : フランス革命(1789年7月~1795年8月)恩赦にて釈放。
1793年末~1794年末(53歳~54歳) : 収監(反共和制的言動による)。
◎1795年(55歳)~1802年(62歳) : 釈放、匿名出版専業作家活動。作品『閨房哲学』1795、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』1787-1797、『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』1797-1801。
◎1803年(63歳)~1814年(74歳) : 『美徳の不幸』『悪徳の栄え』の作者としてナポレオン命令による逮捕・終身刑、収監、獄死。

 最初の逮捕・収監(死刑判決!)は、おそらくフランス革命前夜の混乱した貴族派閥の抗争から、見せしめ的に行われたものと考えられます。38歳の逮捕・収監以降、最終的にナポレオン命令によって実質的な終身刑によって逝去する74歳まで、サドが収監されていた期間は総計31年間にもおよびます。サドが唯一比較的長期に自由な専業作家生活(ただし匿名の地下出版)を行っていた1795年(55歳)~1802年(62歳)に爆発的に書かれた代表作『閨房哲学』『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』は想像力による現実への復讐でもあれば、現実には実現不可能なサドの夢を載せた代償行為でもありました。フランス革命後の釈放期間のサドは爵位の貴族位だけでは生計が立たず、原稿料を生活の資とする必要もあったでしょう。しかしサドは1778年(38歳)から1790年(50歳)もの間、行動の自由を奪われた入獄生活をただ思考と想像力の自由だけで生き抜いてきた人です。生きることと書くことがサドほど一致した例は、おそらく一国の文化で世紀に数人しか出現しません。20世紀フランスで言えば、恐るべき『夜の果てへの旅』1932、『ろくでなしの死』1936のルイ=フェルディナン・セリーヌ(1894-1961)と、『花のノートルダム』1943、『薔薇の奇跡』1951のジャン・ジュネ(1910-1986)くらいのものでしょう。最底辺の汚辱の世界に生きていたスラム街の闇医者セリーヌと犯罪組織の男娼ジュネは、先駆的なサドの存在がなくてもその作品通りの小説創造にたどり着いたであろう、第一次大戦・第二次大戦のはざまに現れた20世紀のサドでした。サドほど生きることと書くことが一致した存在はありませんが、神による秩序が実在しなければ、サドの反逆や背徳は意味を失います。しかしセリーヌやジュネにはパスカルが提唱したような「神の実在への賭け」、またサドの時代にはまだあった秩序はあらかじめ失われていたので、サドよりもっと絶望的な位置から出発しなければならなかったのです。セリーヌは徹底したリアリズムによって絶望のどん底を生き続けた人でした。第二大戦にあってはフランス社会の崩壊を望みナチス・ドイツの占領を熱狂的に支持し、そのためみずから戦争犯罪者となって晩年まで放浪生活を招いたほどですが、一方一見サドに近いジュネはほぼ創作家など生まれてくる余地のない犯罪社会の男娼の視点から生きる自由を見出した人で、破壊的なセリーヌに対してジュネは見事な整合性に富み甘美ですらあります。ジュネは性愛体験による現実把握という点で絶望を希望に置き換え得たので、想像力と性の関係はサドよりもっと具体的です。もっとも性は存在の様態であるのに対し、想像力は行動の一形態ですから必ずしも対応するものではなく、ホモセクシュアルの犯罪者社会の中で開いた他人の肛門を薔薇の美しさと等価に見ることができたジュネの場合は、男娼作家という極端な境遇から生の汚辱を汚辱のままでユートピア化することができた例外中の例外例でしょう。セリーヌやジュネについてはサドとの比較は、かえって本質を見誤りかねない危険性があります。

 フランス革命の申し子サドは確かに巨大な存在ですが、ひるがえって日本では、サドとほぼ同時代の滝澤馬琴(1767-1848)の大作悪徳小説『近世説美少年録』1829-1832, 1845-1848(タイトル通り滅法面白い小説です)のように、古典的善悪の時代を集大成した人、という距離感(悪く言えば古くささ)も感じます。馬琴の超大作『近世説美少年録』は馬琴晩年の20年間にほぼ12年の中断をはさんで書かれた(この間馬琴は最大の大作『南総里見八犬伝』1814-1842を完成しています)未完の遺作で、馬琴作品中の代表作の一つに上げられます。毛利家の血を継ぐ善の美少年が毛利家と敵対する悪の美少年と決戦する話ですが、結末は善美少年が悪美少年を征伐する構想だったのを、悪美少年の悪ぶりに筆が乗りすぎて、結局悪美少年の悪行三昧を延々書き続けているうちに馬琴の死で未完に終わってしまったという怪作です。これまで明治時代や昭和初期に原文通りに復刻刊行され(特に昭和5年の日本名著全集版は江戸文学の碩学・山口剛による丁寧な校訂・解説で定評があり、かつ辞書ほどぶ厚い全1巻にまとめられて読みやすく、古書市場でももっとも入手しやすい版です)、戦後には現代語訳の抄訳も刊行されていますが、最新の小学館古典文学全集版は原文(もともと徳川時代末期の作品のため難しくなく、修辞に凝った文語・口語混交の泉鏡花作品よりも読みやすいくらいです)だけでなく現代語訳全対訳もついていて好評です。三島由紀夫の馬琴作品の戯曲版『椿説弓張月』もいいですが、徳川時代後期の小説家かつ日本初の職業小説家として馬琴作品は面白く、弓張月や八犬伝もラノベの元祖と言える古典ですが、現代の読者なら馬琴自身が悪乗りしてしまった悪漢小説『美少年録』がアピール度が高いと思います。

 サド作品を踏まえた現代文学として前回に上げたような作品は、途中ですぐサドが下敷きと気づきます。三島が「トーマス・マン、プルーストに並ぶ20世紀小説の大傑作」と絶讃したロレンス・ダレル(1912-1990)の四部作『アレクサンドリア四重奏』の第一部はそのまま謎の淫蕩なヒロインの名前を取って『ジュスティーヌ』というタイトルですし、トマス・ピンチョン(1937-)作品『V』1963は古代エジプトから現代(1950年代後半)にいたるあらゆる西洋文明の組織的陰謀・悪事・惨事をすべて一人(?)の謎の不老不死転生の災厄の魔女「V」(Victoria, Venus, Veronica, vicious, veracius, verify, version, void, V2 missileなど、あらゆるVのイニシャルがキーパーソンとなる厄災の魔女Vに結びつけられますが、ピンチョンは大学時代にジェイムズ・ジョイスの系譜を継ぐ言語遊戯と妄想力の作家、ウラジーミル・ナボコフの文学講義学生だったと判明しています)が尾を引いている、という陰謀妄想小説で、間接的続篇でさらなる超大作『重力の虹』1973も同様の構想から、さらに黙示録規模に拡張したものです。

 そのため、結果的にダレル作品もピンチョン作品もあまりにスケールが巨大なためどこまでが真相でどこからが妄想かわからない、「サド的な『悪』は20世紀では集団的想像力の中で肥大化・巨大化しすぎたあまり、一個人の想像力には断片的な認識にとどまり、全体像を認識することは不可能ではないか」というサド作品へのパロディ的オマージュになっています。『V』は朝鮮戦争後の青年復員兵の放浪生活と、謎の女Vの正体を調査する中年男の探求が並行して描かれますが、妄想に取り憑かれたように見える中年男が突きとめていく厄災の魔女「V」の実在が、中年男とは無関係な青年復員兵の放浪生活に徐々に出現してくる過程は読者を虚実の境に迷いこませます。『アレクサンドリア四重奏』四部作の『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーヴ』『クレア』1957-1960は、第一部『ジュスティーヌ』で描かれた背徳的恋愛模様が、語り手・視点を変えた第二部、第三部、第四部で第一部『ジュスティーヌ』が何重もの主観的解釈・客観的叙述で上書きされていく(淫蕩と見えたヒロインが実は国際的陰謀の中心にまで広がる)、迷宮的構造の大作です(ダレルの師ヘンリー・ミラーは『アレクサンドリア四重奏』を「ノーベル文学賞狙いの小説」と一笑に伏しました)。『アレクサンドリア四重奏』は1950年代末の文学読者必読の話題作になったので、大学の文学部でナボコフ(1899-1977)の薫陶を受けていたピンチョンが『V』を着想したのは、『アレクサンドリア四重奏』とナボコフの双方、さらに独自の文学観によるサド解釈(ダレル同様サド作品の下敷きを匂わせることによるフェイク効果の増幅)が下地にあったと思われます。ピンチョンは自伝的エッセイを序文とする初期短篇集が1984年に刊行されるまで一切のインタビューも写真もなく、『V』『重力の虹』のあまりのスケールの大きさ、該博さから、20世紀フランスの数学者グループ「ニコラ・ブルバキ」のように、ピンチョンを名乗る各種分野の専門研究家たちの集団創作とする説すら有力だったほどでした。

 ピンチョン作品は文学史上のサド知識を、いわば作中基準で虚実取り混ぜてミスディレクションとして巧みに利用したものでしたが、ピンチョンに先立つアメリカのポスト・モダン小説作家ジョン・ホークス(1925-1998)の『人食い』1949や『罠』1961、『もうひとつの肌』1964、『ブラッドオレンジ』1970を始めとする諸作では、ゴシック小説とジェイムズ・ジョイス(1882-1941)、フランツ・カフカ(1883-1924)からの影響を混交させてさらに「信用できない語り手」「意図的な虚偽叙述」などのメタフィクション構造によって、サド作品の誇張を下地にしています。ホークスを始めとする戦後アメリカのポスト・モダニズム作家たちが一様にサドを直接想起させる作品を書いているのは偶然ではないでしょう。フランス革命の申し子サドは本質的には可能性の時代に生きた人であり、見かけに反して頽廃とは逆の、溢れる想像力を謳歌した快楽文学者でしたが、戦後アメリカ作家たちはサドとは逆に戦後の文化崩壊期をサド的想像力によって反映しようとしたのです。

 それはやはり、全七部・標準的な長篇小説なら20冊(日本語訳で原稿用紙1万枚相当!)もの大作になるマルセル・プルースト(1871-1922)の『失われた時を求めて』(1913-1922年)が先駆をなしていて、上流ブルジョワ階級の語り手はパリ社交界のあらゆる頽廃と背徳を幼少期から老年までの数十年をかけて横断していきますが、伝統的なフランス恋愛心理小説の見かけを取った第一部『スワン家の方へ』、第二部『花咲く乙女たちのかげに』(大東亜戦争前の戦前に日本語訳され、堀辰雄らが読んでいたのはそこまででした)から一転して上流社交界の頽廃に踏みこんでいく中盤の第三部『ゲルマントの方』、第四部『ソドムとゴモラ』(プルーストの生前刊行部分はここまででした)、第五部『囚われの女』の巻をピークに(この第五部と、第六部『消え去ったアルベルチーヌ』、第七部『見出された時』は推敲・完成前の未定稿段階でプルーストの没後刊行になりました)、バイセクシュアルに目覚めていく語り手は伝聞や推測混じりに、断片的にしか人間関係が知り得ないのと、年を経るにつれ人物たちの性格や関係性も変わっていき、語り手自身がバイセクシュアル体験にまみれて過去の認識が上書きされてしまうため、客観的な全容がつかめない眩惑感が深まっていく仕組みになっています。プルーストがサド作品を踏まえて純潔と淫蕩の交差する社交界の頽廃と背徳を描いたのは明らかで、サドの特徴が「放蕩と消費」なら『失われた時を求めて』はそれを「固執と累積」妄想に置き換えた、極めつけの20世紀型頽廃小説として、18世紀フランス革命最中のサド作品と、19世紀末~20世紀初頭のフランス社交界を接続しました。それは20世紀の作家たちにサドの新たな読み直し、サド作品の明晰な反転勧善懲悪の図式がすでに不可能になった時代の現代文学のあり方と、それゆえのサド解釈の可能性を決定的に促進することになりました。

 以上に上げたのはほんの一例、見通しのしやすいサド作品の現代文学への影響にすぎません。またプルーストはもちろん、詳しく上げませんでしたがやはりサド作品を踏まえたトーマス・マン(1875-1955)、ジェイムズ・ジョイス、遺稿長篇『アメリカ(放浪者)』『審判(訴訟)』『城』のフランツ・カフカ、未完の大作『特性のない男』1930-1942のロベルト・ムジール(1880-1942)、『王倫の三跳躍』1915、『ベルリン・アレクサンダー広場』1929から『ハムレット―あるいは長き夜はおわりて』1956にいたるアルフレート・デーブリーン(1878-1957)、ジョイス、ムジールとデーブリーンの影響下から出発し『夢遊の人々』1932から『ヴェルゲリウスの死』1945にいたるヘルマン・ブロッホ(1886-1951)、イタリアのナボコフと言うべき『ラ・メカニカ』1928-1930、『悲しみの認識』1936-1941、『メルラーナ街の恐るべき混乱』1946-1956のカルロ・エミリオ・ガッダ(1893-1973)らの諸作は、20世紀文学の古典としてさらに評価を高め、現代文学の古典とされる巨峰の位置にあります。これらはすべてサド作品との照応においていっそうその真価が測れます。さらにセリーヌ、ジュネのような怪物的作家について言えば、サド没後の19世紀になおサドが巨大な謎だったように、現在でもその文学的評価は揺らいでいます。今日サド作品に作者の想像力の腐敗を見る読者はいないでしょうが、セリーヌまたジュネが捉えたのは確実に現実の腐敗に根ざした文学的創造でした。サルトルからフーコー、ドゥルーズ、デリダらポスト・モダンの思想家・哲学者らが思想史・文学史的に位置づけようとしても、セリーヌやジュネは今なお解明されない次元にその現実認識と想像力を変異させた存在と見なせます。

 最後につけ加えたいのはプルースト研究から直々に『ユリシーズ』1922のジェイムズ・ジョイスに師事して、文学的想像力の臨界点に向かったアイルランド出身のフランス作家サミュエル・ベケット(1906-1986)の存在です。1930年代から創作活動を始めていたベケットは、サドの提起したテーマを真正面から受けとめた『無神学大全』1949、『エロティシズム』1957のジョルジュ・バタイユ(1897-1962)や、バタイユの秘書から出発した『ロートレアモンとサド』1949、『来るべき書物』1959のモーリス・ブランショ(1907-2003)と同じ問題意識から文学的想像力への根本的懐疑に進んでいきましたが、『ゴドーを待ちながら』1952、『モロイ』三部作(『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけられぬもの』)1951-1953、『事の次第(別邦題「それはいかにして」「どんなふう」)』1961ではサドの想像力の蕩尽とは真逆に、徹底的な想像力の削ぎ落としに向かいました。正体不明の人物ゴドーを二人の男が一本の木の下で待つ、ゴドーはやって来ない、翌日もそれをくり返すというだけの戯曲『ゴドーを待ちながら』、謎の放浪者モロイとモロイを追う探偵父子のドタバタ喜劇『モロイ』、何もない部屋で主人公マロウンが絶命するまで書き綴られる手記『マロウンは死ぬ』、状況すら不明の中で語り手のモノローグが続く『名づけられぬもの』を通って、ベケット最後の長篇小説『事の次第(別邦題「それはいかにして」「どんなふう」)』は泥濘の中を漂う旋毛虫のような無名の存在の語り手の、句読点すら排した曖昧な意識が描かれ、泥濘を進むうちにカップルらしき存在とすれ違い、ついでピムと呼ばれる存在と邂逅して分かれていくだけの物語です。これがベケットのたどり着いた究極の長編小説のプロット(!)です。ベケットはサドとはまったく真逆に、またマンやプルースト、ジョイスの豊穣さも放棄し、ジョン・ケージ(1912-1992)に師事するも袂を分かったモートン・フェルドマン(1926-1987)の数時間に渡って最弱音で反復演奏される室内楽のように、ほとんど沈黙に近い作風にいたりました。その構成要素はぎりぎり作品を提示するためのもので、本質的には消滅と無を指向するものです。その戯曲作品やラジオドラマ脚本も後期に行くほど短くなり、ほんの数分どころか数十秒に圧縮・簡略化されます。断片的エッセイとも無人称小説の一部とも取れる1965年刊行の短篇断章は「想像力は死んだ想像せよ (Imagination Dead Imagine)」と題されています。これは東洋思想的な虚無=涅槃の状態ではなく、サドから一巡した発想と見ることで文学を限りなくゼロの地点に引き戻した考察と言えるものです。ピンチョン作品の遍在する不老不死の厄災の魔女Vのように、古典文学、世界文学、日本文学(もっともサド的な想像力に恵まれたのは、中国文学研究者出身の武田泰淳だったでしょう)について、サドとの関連はまだまだ語れます。しかしサミュエル・ベケットに触れたことで、この一文も一応円周を閉じる頃合でしょう。

(未完)