(1)「サド侯爵」とは何か? | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


    
 これからお目にかける一文は、マルキ・ド・サド(サド侯爵)として知られるアルフォンス・フランソワ・ド・サド(1740-1814)にご興味がおありの方が知りたいこととは、ややかけ離れているかもしれません。その代表作『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』(1797-1801)は、姉妹作『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸(新ジュスティーヌ物語)』(1787-1797)とともに匿名出版で流布されるも、ナポレオン・ボナポルト(1769-1821)による投獄命令で指名手配され、裁判なしに1803年に精神病院に監禁されたサドは1814年の逝去まで事実上の終身刑を受けました。両親ともに貴族の伯爵家に生まれたサドは成人して貴族軍人となり、退役後にやはり貴族の夫人を迎え、実父の逝去による家督相続後後に祖父の代を継ぐ侯爵の座に就きました。領地への劇場設立など文芸界への野心があったサド侯爵が、乞食への暴行や娼家での媚薬(劇薬)使用の殺人未遂罪と鞭打ち、アナル・セックス強要罪(当時それは獣姦罪と同様の宗教的禁忌でした)で死刑判決を受け、ヴァンセンヌ城監獄からバスティーユ牢獄へと最初の投獄生活を送ったのは1778年(38歳)~フランス革命の恩赦によって釈放される1790年(50歳)のことです。この獄中でサドは幅12cm、長さ12mもの長大な処女作『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(1785年まで、未完)やさまざまな短編小説を書き継ぎ、フランス革命の動乱で1790年~1793年には自由の身になるも、反共和制的貴族と見なされ1793年末~1794年末までは再び投獄されています。背徳的な匿名出版作品で地下流通で文筆活動を行っていたサドが自由に専業作家活動を行っていたのは1795年(55歳)~1802年(62歳)までの間のみ(代表作『美徳の不幸』1797、『悪徳の栄え』1801がこの時期に成立・完結刊行されているのはそのためです)で、フランス皇帝に上りつめる直前のナポレオン総統の勅令によって事実上の終身刑命令が下され、逮捕・収監されて以降の1803年(63歳)~1814年(74歳)の没年までには、サド作品はナポレオンの皇帝在位(1804年~1815年)時代には刊行も流布も許されない禁書とされ、それは19世紀の終わりまで続きました。簡単な年表にしてみましょう。
・サド侯爵の肖像画
◎1740年 : サド、伯爵家にて誕生。
◎1763年(23歳) : 七年戦争(1756-1963)の軍役から大戦終結にて除隊、結婚。2男1女を得る。
◎1776年(36歳) : 領地に劇場設立。
◎1777年(37歳) : 実父の逝去によって家督相続、祖父代を継ぐ侯爵位に就く。
◎1778年(38歳) : 死刑判決(宗教侮辱罪、殺人未遂罪、猥褻罪)、収監。処女作『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』(~1785年、未完)。
◎1790年(50歳) : フランス革命(1789年7月~1795年8月)恩赦にて釈放。
1793年末~1794年末(53歳~54歳) : 収監(政治的理由による)。
◎1795年(55歳)~1802年(62歳) : 釈放、匿名出版専業作家活動。作品『閨房哲学』1795、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』1797、『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』1801。
◎1803年(63歳)~1814年(74歳) : 『美徳の不幸』『悪徳の栄え』の作者としてナポレオン命令による逮捕・終身刑、収監、獄死。

 代表作を絞った上でサドの生涯と作品をまとめれば、ほぼ以上の年表に尽きるでしょう。30代の終わりから晩年まで、サドは獄中に監禁されることによって本格的な創作家になった人であり、後半生のほとんどを逮捕瀬戸際の匿名出版と、最終的な獄中死によって終えた人でした。38歳から逝去する74歳までの36年間で、サドの入獄期間は総計31年に上ります。サド作品の内容は当時にあっては狂気の沙汰で、18世紀~19世紀の社会的規範(モラル)を真っ向から凌辱したものでした。20世紀の思想家ミシェル・フーコー(1926-1984)の提唱した生涯のテーマは権力・狂気・監禁・性でしたが、それはすでに18世紀のサドにおいて見定められていた領域と見なせます。

 サドの最初の逮捕はもともとフランス革命に先立つ貴族派閥の見せしめ的な意味が強く、死刑判決が下されたのに刑が執行されず13年に渡って監禁が続いたのもそれを裏づけますが(実刑が行われるとかえって告発者側が責を問われる可能性があるからですが)、それもサドのメイドへの性的暴行、娼館通いなどが貴族派閥で問題視され、複数事件から捏造されるようにして宗教侮辱罪、殺人未遂罪、猥褻罪の多重実行犯とされたのは貴族派閥、司直、娼館の裏取引によるものでしょう。たかだか性風俗店での合意的乱交ではないかと現在でなら言うことができますし、現在でも性的スキャンダルにはなるとも言えますが、死刑判決という極刑が下されたのは宗教侮辱罪という大きな問題がひかえます。サドが犯したとされる罪状は総合的にそれを形成するものでした。現代の日本人が感覚的に理解できず、18世紀のキリスト教国ならばこそのタブーと縁遠い感じを受けるのは仕方ありませんが、たとえばこれを神社仏閣、皇居などでの公然猥褻行為、排泄行為、性的行為などに置き換えたらいかがでしょうか。法的には一律に公然猥褻行為とされても、意図的な公序良俗紊乱目的と解釈されるのは明らかでしょう。この公序良俗が宗教的禁忌に当たる時、サドの私生活上の遊蕩は死刑に値する国家への反逆と見なされたのです。

 サドは長い間その性的異常性の側面でイメージが作られていたため、昭和34年(1959年)に『悪徳の栄え』の澁澤龍彦訳(抄訳)が現代思潮社によって刊行された時には刑法175条に抵触する、「猥褻文書販売、同所持」として刑事告訴されました。この裁判では日本ペンクラブが弁護団を用意し、徹底的に訳書を擁護する構えだったそうですが、被告の訳者自身が「サド有罪大いに結構」と裁判を遅刻するわサボるわで進展せず、弁護団代表の弁護士・詩人の中村稔氏も呆れてしまった、と澁澤氏本人が書いています。第一審無罪、検察側の控訴による第二審で有罪となり、5年がかりの昭和39年(1964年)の最高裁判決では有罪判決が決定し、被告も罰金刑と削除改訳を飲みました。もっとも最高裁判決でも裁判官の意見は割れ、数人の裁判官は思想史的な文学書としての出版を認めて猥褻文書刊行を不当判決とし、また民主主義下の思想・表現の自由の観点から無罪を支持する意見も公表されました。真っ当な見解を示した立派な裁判官もいたわけですが、この「『悪徳の栄え』裁判」の有罪判決によって以降の日本でのサド受容は、かえって「性と反逆の文学者」として特殊なバイアスが生じることになります。それはドイツ=オーストリアの性医学者・精神科医のクラフト=エビング(1840-1902)が1880年代に提唱した性的精神病理上の分類で、加虐的性癖をサド作品から「サディズム」、また被虐的性癖をザッヘル=マゾッホ(1836-1895)の作品から「マゾヒズム」と称し、通俗的に用いられるようになっていたこと(現在ではクラフト=エビングの分類とサド作品・マゾッホ作品の照応の妥当性には異論が優勢であり、また加虐的性癖と被虐的性癖の対概念はともに支配欲において共通しているために否定されています)、またサド作品が変態性欲全書的傾向を持つことに読者の目が向きやすいからでもあります(もっと閉鎖的なマゾッホにはサド作品のような包括性は稀薄で、マゾッホに先んじてマゾヒズム的要素はサド作品に含まれているとも見なせます)。クラフト=エビングの時代(19世紀=1880年代)にはまだサドは学術的研究が目的の専門的な研究者しか読むことを許されなかったため、読者は実際のサド作品は読み得ずクラフト=エビングのような精神医学者の解釈によってしか知り得ませんでした。そこでサドの名は極めて狭義のイメージから世間に浸透したのです。

 サド作品には性的加虐行為のみならず、あらゆる残虐行為が快楽として描かれます。それは強姦はもちろん幼児姦、屍姦から人肉食までおよび、通常の意味での性的快楽行為の域を越えており、ひたすら放蕩と消費を目指すものです。サド作品では消費される犠牲者はいわば畜肉以下の存在でしかありません。人間性に対する最大の侮辱、というのは逆に作者のサド自身に返ってくるもので、サド作品のヒロイン、またヒーローたちはどれほど残虐を尽くしても真の満足に達することほありません。西洋史の人類史上で人間性や平等の概念が表れたのが西暦ではせいぜいヨハネ、またその弟子キリストによるユダヤ教改革が行われた紀元数十年以降にすぎず、多くの古代文化において人類史における人間は、ほんの一握りの貴族と執政職の他は、家畜と同等か生産性や汎用性について家畜以下の奴隷にすぎませんでした。キリスト教の成立以降も人間性の平等は普遍的な価値観とは言えず、キリスト教以前からのアジア的な汎神論に見られる涅槃的概念よりもさらに酷薄で散発的なものでした。その点で、サドは民衆に人間性の尊厳など認めない、野蛮時代の貴族の立場にいた存在でした。しかしフランス革命の申し子と言えるサドは民衆が人権を主張する新たな時代にも足をかけていたので、その作品は新旧どちらの時代にもまたがった、引き裂かれた性格を持つものになりました。学生時代に読んだ時には無知からわからなかったことですが、サドは文学史~思想史的には1830年代に定着するロマン主義の走りで、フランスの伝統的ユマニスム思想を裏返した立場にいた人だったと思えます。当時の基準で背徳的なことを書いていても物事の見方は現実的で、サド自身は体質的にはアンシャン・レジーム時代劇の生き残りであっても、新時代への認識から自己にも現実にも疑いはなかった、明晰な理性の時代の人でしょう。

 サドと同時代にロマン主義の先駆者になった異端的文学作品を残した存在には、ニコラ・レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(1734-1806)、『危険な関係』1782の作者フランソワ・ショデルロ・ド・ラクロ(1741-1803)がいました。恐るべき巧緻なプロットを持った背徳陰謀小説『危険な関係』は現代フランス、現代アメリカに置き換えた翻案的映画化もされているように、文学的にはサドとは比較にならないほどの高い完成度で人間性の欺瞞と背徳、陰謀を描き出した古典です。サドはラクロ作品の存在は知らなかったか、古典的な恋愛心理小説として無関心だったようですが(『危険な関係』はサド最初の、13年間におよぶ入獄時の5年目に刊行されました)、しばしば日本の世界文学全集類でサドと相巻にされる職業作家レチフ(筑摩書房版『世界文学大系』、講談社版『世界文学全集』ではサド作品とレチフ晩年の自伝的代表作『ムッシュー・ニコラ』1794-97が組み合わされています)には憎悪を抱いていました。作家歴30年で50作あまり(巻数にして250巻以上)の多作家だったレチフはジャーナリスト的側面が強い小説家で、当時の出版基準には抵触しない程度に扇情的な題材を採りあげ読者に人気を博した、暗黒小説の作家でした。岩波文庫に収録されている代表作に『パリの夜~革命下の民衆』1788-94がありますが、これは取材と誇張でフランス革命下のパリにはびこっていた犯罪(強盗、墓荒らし、誘拐など)をセンセーショナルなノンフィクション風に描いた連作小説であり、サドの釈放時代に連続刊行されていたものです。ラクロがスタンダールの祖とすればレチフはさながらバルザックの祖と言えますが、すでにバスティーユ監獄で『ソドム百二十日』を書いていたサドが、レチフのノンフィクション風暗黒小説(それ自体は今なお文学的な面白さを失っていないものです)に激しい憎悪を抱いたのは当然だったでしょう。現実に死刑囚として13年もの間監禁されていたサドにとって、『ソドム百二十日』は唯一持ち得た想像力の自由によって幅12cm、長さ12mの巻紙にびっちり書きこまれた作品でした。サドから見ればレチフ作品などは扇情的なジャーナリストの偽文学でしかなかったでしょう。『閨房哲学』『美徳の不幸』『悪徳の栄え』と続くサド作品もまたサドの想像力がつむぎだしたものでした。サド侯爵とは何か。それは何よりサドが想像力の人だったことに尽きます。
・『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の巻紙原稿
 サドの想像力は現実憎悪が基調で、しばしば想像力自体がインフレーションを起こし単調に陥る傾向がありますが、そこにこそサド作品の限界と可能性があります。サドが攻撃して止まなかった18世紀フランスのカトリック文化のモラルは、それ自体は歴史的な事象であり時代や文化圏によって変動するものでしかありません(ラクロの天才的な知性の中で見事に完結している作品『危険な関係』の普遍的な背徳性におよばないのはその点です)。文化的規範は動きます。しかし想像力の持つ力は動きません。サドの真価は過酷にして長期な監禁状態の下で、唯一の精神的自由として想像力を維持し続け、釈放後も想像力の怪物として巨大な力を作品に注ぎこんだことでした。人間にとって最大の苦痛は行動の自由を奪われることですが、行動の自由を奪われた人間にとってなお可能なのは思考の自由、想像力の自由しかありません。サド作品が禁書の難を解かれ読まれるようになった20世紀以降、18世紀の宗教道徳的規範への反逆という時代的制約を越えて、文学の持ちうる巨大な想像力の源泉、怪物的な想像力の産物として再び脚光を浴びることになり、権力・狂気・監禁・性をめぐる思想史的にも、文学史的な特異点とも見なされるようになったのは、サド作品の持つ徹底的な想像力への指向以外にはありません。自分自身で考え、既成の通俗的イメージの追認以上の認識を得るにはサドの想像力の働きを追って、自分自身に照らしてみるより他にすべはありません。そこでサドはゴーゴリやゾラばかりか、プルーストやバタイユにもつながり、ナボコフにもつながり、ロレンス・ダレルやトマス・ピンチョンばかりかベケットにもつながる(比較することでますます見え方が変わる)、現代文学の起点に当たる存在になったのです。ゴーゴリ(1809-1852)の狂死による『死せる魂』完結篇草稿の焼却、ベケット作品「想像力は死んだ、想像せよ」1965などは異なる事情(解釈)においてサド的な永久機関的想像力に対応するものと言え、ゴーゴリやベケットにその意図がなくても、サド的な想像力の蕩尽を文学の終着点にあるものとしてこそ表れた現象でした。背徳と人間性への徹底的侮辱、変態性欲と反キリスト教の作家に見えるサドの実態は、歴史的限界を引けば想像力の暴走にすぎないものであり、ジャーナリスト作家レチフや社交界の寵児だった軍人ラクロのように洞察力と実証的観察から書かれたものではありません。そこにこそ収監下で想像力にすべてを賭けた禁書作家、サドの優位性はあったのです。サドが辛うじてサド作品を読み得た19世紀作家、サドの復権とともに創作活動を始めた20世紀作家に与えた影響はそうしたものでした。サド侯爵とは何か、それはサディズムを始めとする性的乱脈ではなく(そもそも30代末以降をほとんど獄中に監禁されていたサドは、50代から10年ほどの釈放機関を、現実には実行不可能な代償行為として『閨房哲学』『美徳の不幸』『悪徳の栄え』などの代表作で描いていたと考えるのが妥当でしょう)、人間存在と想像力(自由な思考=想像力を奪われた人間は同時に一切の希望も失います)という、絶体絶命の存在条件を賭けた創作の始祖となったのです。これは前置きで、本当にサドについて語りたいことは、のちの作家たちはサド作品を踏まえていかにして新たな想像力の刷新を試みたかですが、それは次回以降で触れていきたいと思います。サドは怪物的な想像力の作家でした。それ以外、今回書いたことはちょっと詳しく触れてみただけにすぎません。また想像力においてすべてが平等であるならば、サディズムという性的精神病理上の分類はほとんど意味を失います。今回は結局サドの生涯の略伝中心になってしまいましたが、次回からはもっと直接かつ率直に、サドがいかに同時代小説と照応し、かつまた現代小説に直接・間接のインスピレーションと影響を与えたかを当たってみたいと思います。またかつて日本におけるサド研究の第一人者だった特異な文学者、故・澁澤龍彦氏のサド紹介を改めて振り返ってみるつもりです。

 ただし留意しておきたいのは、17世紀の哲学者ブレーズ・パスカルはすでに遺稿『パンセ』1670で、「理性によって神の実在が証明できないとしても、神の実在に賭けても人は何も失わず、より生きる意味を増すことができる」という「神の実在への賭け」を提唱しました。サドの場合、もし神の実在が自明のことでなければその反逆も背徳も意味を失ってしまう点で、思想的には1世紀あまり前のパスカルにおよばない、むしろ後退しているとも言えることです。そこに形而上学的概念を持ち得たパスカルと実践的創作家の域にとどまったサドの違いがあります。サドほど生きることと書くことが一致した例はめったにありませんが、神による秩序が実在しなければ、神へのサドの反逆や放蕩、背徳は意味を失ってしまいます。そのサドの限界は、それでもサドを擁護しようとした20世紀中葉のジョルジュ・バタイユまで気づかれず、おそらく多数の現代の読者にも閑却されたままですが、バタイユが看破したのは、そしてその限界にもかかわらず擁護したのは、サドが純粋な想像力の人であるその一点においては疑いない得なかったからです。

(以下次回)