「悪魔に魂を売った男」の音楽 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Arnold Schönberg (1874-1951)

 昔読んだ音楽批評家の許光俊氏の一文に「好きな作曲家=邪悪な作曲家、好きな演奏家=狂暴な演奏家。どちらも暗くないと駄目だ。」という発言があって、氏はクラシック音楽の批評家ですから、これには眼から鱗が落ちるようでした。音楽が現実を越える強度で独自の世界を築くためには、それほどの覚悟が必要なのです。そこで、究極の実験音楽のひとつに上げられるのは、いまだにアルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951)の作曲作品群でしょう。後期ロマン派究極の作曲家マーラーの弟子から無調性音楽でスタートし、いまだにリスナーから受けいれられているとは言えない十二音技法にたどり着いたシェーンベルクの音楽は、初期の無調性音楽の『浄夜』1899あたりではまだしも抒情的性格を湛えていましたが、1912年の連作歌曲『月に憑かれたピエロ』ではリスナーを突き放すような作風に転換します。アルバン・ベルク(1885-1935)、アントン・ヴェーベルン(1883-1945)ら天才的な弟子に恵まれ(シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの三人を称して「ウィーン三羽烏」とも呼ばれました)、有意義な相互影響を取り交わしながら、シェーンベルクは畢生のオペラ作品『モーゼとアロン』(1930-1932、未完)を生み出します。

 またシェーンベルクは前衛芸術グループ「青騎士」にも属していましたが、旧約聖書のユダヤ人の歴史に材を取ったオペラ『モーゼとアロン』作曲の時期には、反ユダヤ主義者だった「青騎士」の盟友の画家ワシリー・カンディンスキー(1866-1944)と激しい応酬の上(当時はすでにナチス党が台頭していました)決裂しています(ストローブ=ユイレのセミ・ドキュメンタリー映画「シェーンベルクの書簡」『歴史の授業』1972参照)。ストローブ=ユイレ(夫人のダニエル・ユイレは2006年に亡くなっていますが、ユイレ没後にいよいよ多作になっていたジャン=マリー・ストローブも先日2022年11月20日に亡くなりました)が映画化もした『モーゼとアロン』は、ユダヤ系ドイツ人のシェーンベルクがライフワークとして着手し、晩年まで推敲を重ね完成の意図を持ち続けながらも、あまりの構想の雄大さに遂に未完に終わったオペラ作品でした。

 ベルクやヴェーベルンが丹精に一作一作を仕上げていった作曲家だったのに対して、シェーンベルクは貪欲な創作意欲から、作曲家としての円熟を自分から打ち崩していくような、キャリアを重ねるほど決定的な代表作のない、ひたすら実験にのめり込んだ作曲家でした。第二次世界大戦中にアメリカに亡命したトーマス・マン(1875-1955)は『ブッデンブローク家の人々』1901(ノーベル文学賞受賞対象作)、『太閤閣下』1909、『魔の山』1924、『ワイマールのロッテ』1939、『ヨセフとその兄弟(四部作)』1933-1943に次ぐ晩年の大作、『ファウストゥス博士』1947(ジェイムズ・ジョイス研究家の文芸批評家ハリー・レヴィンは同書を「第二次大戦後唯一の西洋文学の傑作」と絶讃しました)をシェーンベルクの技法を解読した音楽・文芸批評家テオドール・アドルノの十二音技法研究からマッド・サイエンティスト的芸術家像として、音楽のために「悪魔に魂を売った」主人公の作曲家を二つの世界大戦を経た現代ヨーロッパ史の混迷と絡めて描き、図らずもやはりアメリカ亡命していたシェーンベルクの戯画像となったためシェーンベルクの怒りを買ったほどです。シェーンベルク自身が最晩年まで完成を目論みるも第二幕第三場までの作曲と草稿で未完に終わった、十二音技法で書かれたオペラ『モーゼとアロン (Moses und Aron)』は、作曲後90年経ってもいまだにポピュラー音楽のリスナーには騒音ならば、演奏される機会が続く限り半永久的に騒音であり続けるでしょう。ただしシェーンベルク自身は自作こそストイックな作曲家でしたが、柔軟な音楽観を持ち続けており、第二次大戦中にアメリカに亡命した際はシェーンベルクに弟子入りを懇願したジョージ・ガーシュインに「君ほどの作曲家に教えることは何もないよ」と率直にガーシュインの才能を認めた懐の深い音楽家でもありました。

 現代音楽作曲家にして民族音楽研究家のバルトーク・ベーラがシェーンベルクの音楽に疑問を持ち、綿密な民族音楽考証から指摘したように、自然発生的な音楽は基本的には一定の旋法を備えた調性音楽であり、無調性音楽や十二音旋律は自然発生的音楽には存在しないことを解明しています。そのように人工的音楽の極地と言えるこの現代音楽オペラは、未完とはいえ書かれた部分ですら長大で全編演奏されることが少なく(ヘルマン・シェルヘンは第二幕第三場のみをレパートリーにしていましたが、それだけでも33分半と協奏曲や交響曲並みの長さです)、完成部分以外に草稿部分も含むためテキストも一定せず、いずれもこれが決定版とはいえない演奏ですが、YouTubeの試聴リンクを引いておきます。トーマス・マンが「悪魔に魂を売った男の音楽」とした、その実物をお聴きください。特にストローブ=ユイレの映画『モーゼとアロン』1975はコルネイユの戯曲を映画化した『オトン』1970と並び、1970年代のヨーロッパ映画を代表する、シェーンベルク・オペラの映画化にとどまらない傑作です。 1時間48分にもおよぶオペラ映画で英訳字幕すらついていませんが、ここで描かれているのは国土を持たない試練を神に課された難民民族古代ユダヤの民族内権力闘争(そしてユダヤ系ドイツ人シェーンベルクにとっては20世紀の当時でも続くユダヤ民族の試練であり、ストローブ=ユイレの作品はそのシェーンベルクの想像力を映像化したものでした)なので、旧約聖書に親しいキリスト教圏のリスナーでなくても、日本語版ウィキペディアでシェーンベルク作品『モーゼとアロン』の解説を読めば歌詞がわからなくてもストーリーは追えます。音楽、映像ともあまりに難解かもしれませんが、オペラ『モーゼとアロン』、また同作の映画版は21世紀の現在でもいまだ渦中にある民族紛争(国連承認によって強引に成立したユダヤ民族人工国家イスラエルと周辺中近東諸国の紛争はおそらく今後数世紀を経ても終息しないでしょう)を古代ユダヤ民族難民に託して、生々しく描いたものであり、それを伝えるためには大衆性を犠牲にしてまで排除した、極度に人工的な抽象化・様式化を経なければならない現代音楽家・現代映画作家の桎梏を痛々しいほど露わにしたものです。