映画を変えた大傑作『最後の人』(ドイツ, 1924) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

『最後の人』(監=F・W・ムルナウ, ドイツ, 1924)
『最後の人』Der letzte Mann (監=F・W・ムルナウ、UFA, 1924.12.23)*101min, B&W, Silent; 日本公開大正15年(1926年)4月1日(90分版)キネマ旬報ベストテン外国映画2位 :  



 前回の『裏町の怪老窟』のご紹介でも触れた通りに『裏町の怪老窟』の翌月に本作『最後の人』が公開されたのは映画史上のもっともダイナミックな展開のひとつと言ってよく、本作の登場には同時代のドイツ監督のみならず世界中の映画人・映画好きの観客みんながひっくり返ることになります。本作の成功からハリウッドに招かれたムルナウの『サンライズ』'27は第1回アカデミー賞最優秀作品賞(芸術映画部門)に輝き、アメリカ映画界は『サンライズ』の撮影技法に追いつき追い越せで躍起になりますが、内容的にはリアリズム映画といえる地味な題材の『最後の人』は脚本こそあれコンテなしの即興演出・撮影によって、ループ・ピックが1924年1月公開の『除夜の悲劇』でカメラマンのカール・フロイントによって導入していた手持ちカメラ撮影をさらに一人称ショット、無人称ショットにも用い、さまざまな視点の交錯する多彩なモンタージュによってリアリズム映画でもあれば主観的な幻覚映画にもなるような多義的な映像の流れを生み、アルフレッド・ヒッチコックもハワード・ホークスも本作からの影響を明言してもいれば、フランソワ・トリュフォーはD・W・グリフィス以来の「遠近法モンタージュ」を覆した「斜めのモンタージュ」を開拓した作品として本作と『市民ケーン』(監=オーソン・ウェルズ、アメリカ, 1941年)を映画史上の画期的な転換点としています。本作のムルナウとフロイントの業績はD・W・グリフィスとビリー・ビッツァー、チャップリンとレイモンド・トサロー、さらにヌーヴェル・ヴァーグの名手ラウール・クタールとゴダールやトリュフォーに匹敵する映画監督とカメラマンの精神的感応を感じさせます。また本作は、映画末尾のエピローグ的シークエンス前にただ1枚のエピローグを示す字幕が使われる以外はクレジット・タイトル以外の字幕は一切ない徹底無字幕映画でもあります。



 本作の内容自体はベルリンきっての豪華ホテルの名物ドアマンが老齢のためにトイレの番人に格下げされ、自慢の制服を脱がされて絶望し、それが最後の勤務日になるまでの二日間の出来事を描いた非常に単純化された物語であり、同じマイヤー脚本表現主義映画『カリガリ博士』『ゲニーネ』どころか、室内劇悲劇無字幕映画三部作『破片』『裏階段』『除夜の悲劇』、マイヤー原案の無字幕映画『蠱惑の街』よりもさらにドラマ性の稀薄な内容です。老人の住むアパートの隣の叔母と結婚式を上げたばかりの新婚の姪夫婦、さらに意地の悪いアパートの隣人の主婦たちの陰口の伝播がリアリスティックに描かれるのはこれまでのマイヤー脚本にない俗っぽさと風刺性ですが、それが映画を低俗にするのではなく現実的な主人公の落魄を強調し、庶民生活の模様への等身大の位置からの観察の広さになっているのも、それまでのマイヤー関連作にはなかった平易で誇張のない内容につながっています。本作は公開されるやアメリカでも自国映画の最新ヒット作に匹敵する国際性をそなえた画期的名作と即時に古典視された作品になり、ムルナウはすでに企画が進んでいた『タルチュッフ』'26、『ファウスト』'26の完成後にハリウッドに招かれ、またすでに国民的俳優だった主演のエミール・ヤニングスもハリウッド俳優になります(ただしヤニングスは英語が達者でなかったため、トーキー時代の到来とともに帰国することになりましたが)。やや遅れた日本公開でも本作は大絶賛を博し、キネマ旬報ベストテンでは1位がチャップリンの『黄金狂時代』'25だったため2位でしたが、この渋く、かつ大胆な映像実験に成功した作品の対抗馬が、大衆性に富んだ大ヒット作でチャップリンの集大成的傑作『黄金狂時代』なら、事実上の1位タイも同然でしょう。本作は実験的無字幕映画、映像技法の抜本的改革(ほとんどグリフィス以来の革新)を抜きにして市井の庶民の人情映画としても観られるので、キネマ旬報近着外国映画紹介でもあらすじだけ抜き出せば普通の人情映画になるのです。引いておきましょう。

[ 解説 ]「カリガリ博士」「ジルフェスター」等の作者カール・マイヤー氏が書卸した脚本により「ファントム」「ジェキル博士とハイド」等と同じくF・W・ムルナウ氏が監督したもので、主役は「ピーター大帝」「快傑ダントン」等主演のエミール・ヤニンクス氏でマリー・デルシャフト嬢、マックス・ヒルラー氏、ゲオルク・ヨーン氏等が助演している。無声。
[ あらすじ ] 大都会ベルリン。大通りに面した宮殿の様に立派なホテルの豪壮な玄関に年老いた門番(エミール・ヤニングス)が立っていた。彼は金ピカの制服を着て得意然としていた。彼はがっしりとした大男で軍人らしい頬髭をはやしていた。将軍にも見まごう自身の姿に誇りを感じ、金モールの制服を何よりも愛した。こうしてこの姿で裏町の我家に帰って来る時程幸福なことはなかった。悪戯小僧達が羨望の眼を以て彼を仰ぎ見るから。しかし重い荷物を持ちあぐねている姿を支配人(ハンス・ウンターキルヒャー)に見咎められて、地下室のトイレ係に左遷された。彼は何よりも金モールの制服を着ないで家に帰らねばならないのが悲しかった。だが娘(マリー・デルシャフト)の結婚式にはどうしても制服で出席せんと思い悩んだ末、とうとう制服を盗むに至る。やがて全ての事実が明るみとなり、裏町の人々や娘からも嘲笑の的にされる。彼は苦しみ嘆き、残すはひっそりとした死を待つのみであった。そこへ運命はこの老人に思いもかけない遺産を授けた。彼は一躍して門番どころか富豪として立派な服を着ることが出来た。かつて自分を嘲笑した支配人の驚く顔を見ながら、シャンパンの盃を傾け、呵々大笑するのであった。



 ――これもアメリカ経由の日本公開版は意図的に姻戚関係を変えてあったようで、現行ヴァージョンでは結婚式を上げるのは叔母(エミリー・クルツ)の娘の姪(マリー・デルシャフト)で娘ではなく、娘の方が姪よりわかりやすいだろうと変えられたのでしょう。姪の新夫(マックス・ヒルラー)や叔母は門番からトイレ番に左遷された主人公に冷淡ですが、姪はヒロインらしく優しく涙にくれながら主人公の境遇をいたわります。主人公は夜中のトイレで番人をしながらうずくまり、夜警(ゲオルク・ヨーン)がうずくまる主人公にコートをかけていたわりますが、主人公がうずくまったままの場面で一旦映画は終わります。「現実の人生ならこれで終わるが、脚本家はあえて別の結末をつけ加えた」と本作唯一の説明字幕が入り、主人公が突然ホテルのトイレで急死した大富豪の遺産相続人になってからが描かれます。大富豪は「最後を看取った者」(本作のタイトル「最後の人」の由来。英題では本作はもっとくだけて『The Last Laugh (最後の笑い)』となっています)を全遺産の相続人として遺言状を残していたため主人公が新聞の大見出しを飾る時の人の大富豪になり、かつて働いていたホテルで贅沢三昧の晩餐を友人となった夜警と取り、トイレ係の老給仕をねぎらって自分の豪華送迎車に乗せて終わるおとぎ話のハッピーエンドですが、これはあくまで蛇足の夢物語と断り書きがされているから嫌みなく観られるので、財力=高い社会的地位=強者が弱者を見下すのが人間社会とする点ではドラマ本編の観点は変わりなく、仮に主人公に金銭運の僥倖が舞いこんだらというだけの話で、本来なら仮構(たられば)の夢物語でなければ低俗きわまりない結末です。



 しかしその低俗なハッピーエンドも夢物語という前提だからこそコメディの範疇に収まるので、落魄していく主人公を不安感をあおる手持ち撮影で伝えていたカメラはこのエピローグでは固定ショットのどっしり悠然とした映像でご満悦の主人公を映します。その対照もこの本来なら蛇足のエピローグでは効いていて、これを「これで終えては身も蓋もないので、あえて蛇足のハッピーエンドをつければ」とはっきり明示した字幕タイトルで区切った意味が生きてきます。完全に無字幕映画にして、トイレにうずくまった主人公のカットが溶暗し、次にいきなり数日後の新聞の大見出し「新億万長者生まれる!」で続けることも前記の理屈(財力=社会的強者という前提)からはできたでしょう。あえて結末を仮構とした字幕によって本作は巧妙に嫌味になるのをかわしていますが、トイレ番にさせられて悲惨、巨万の富を得て逆転という構図は変わりません。そういう意味では本作は体制的価値観温存下の人情コメディで、映画手法の革新性に対して内容は他愛ないとも言えますが、それが不足感になっている映画ではなく、この小さな題材だからこそ成功した名作です。また本作ほどの成功があれば無字幕映画の実験もこれ以上の屋上屋を重ねる必然はもはやなくなったことでも、一作で表現主義~無字幕映画のアヴァンギャルド手法に一気にとどめを刺した作品と言えます。ムルナウ自身はすでに企画が進んでいた翌'26年の2作『タルチュッフ』『ファウスト』まで表現主義時代の構想を作品化しますが、それらも表現主義を謳う必要もないほど非常に抑制の効いた優れた作品になっており、ムルナウを唯一ライヴァル視していたドイツ映画の二大巨匠フリッツ・ラングが四時間半を越える一大歴史スペクタクル『ニーベルンゲン』二部作(1924年)から製作期間3年・三時間のSF超大作『メトロポリス』1927に進んでいたのとは好対照をなすものです。