八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~
昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)
長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20210215/14/fifth-of-july/ad/75/j/o0300042314896795033.jpg?caw=800)
八木重吉の第一詩集『秋の瞳』全117篇(大正14年=1925年8月1日新潮社刊)が作者手控えの、大正10年春以来の詩稿をまとめた大正12年(1923年)1月~大正14年(1925年)3月までの小詩集40冊=1,455篇の中から、1篇も『秋の瞳』に選ばなかった14冊=641篇を対象外としても26冊=814篇から97篇を選択し、書き下ろしと見られる初稿不詳詩篇20篇を加えた成立事情は以前にご案内しました。全103篇からなる第二詩集『貧しき信徒』は八木が病床にあった昭和2年(1927年)5月頃に編集を終え、第一詩集でも新潮社からの自費出版の仲介をした年長の再従兄弟の小説家・編集者、加藤武雄に託されましたが、同年10月の八木の逝去には刊行が間に合わず、翌年2月に追悼出版となった遺稿詩集です。八木重吉が小詩集単位にまとめていた膨大な未発表詩稿からは、『秋の瞳』『貧しき信徒』未収録の未発表詩篇が徐々に『八木重吉詩集』(山雅房・昭和17年7月刊)、『八木重吉詩集』(創元社・昭和23年3月刊)、『信仰詩集 神を呼ぼう』(新教出版社・昭和25年3月刊)と増補改訂を経て『定本 八木重吉詩集』(彌生書房・昭和33年4月刊)に集成されます。同書は834篇を収録していましたが、その刊行直後にさらに未発表詩篇(小詩集11冊)が発見され、360篇を収録した『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』(彌生書房・昭和34年12月刊)が加わりました。しかし八木重吉の詩作の全貌がようやく明らかになったのは初の『八木重吉全集』全三巻(筑摩書房・昭和57年9月、10月、12月刊)にまとめられてからで、『八木重吉詩集(山雅房版)』から『定本 八木重吉詩集』では未定稿と見なされ、抄出に留められていた膨大な未発表小詩集が同全集で判明している限りほぼ完全に翻刻されたのです。詩集『秋の瞳』収録詩篇初出小詩集一覧は以前に掲げましたので、全集解題によって『貧しき信徒』の時期の小詩集も一覧にしてみます。
[ 詩集『貧しき信徒』収録詩篇初出小詩集一覧 ]
1◎詩稿 桐の疏林(大正14年4月19日編)詩48篇、生前発表詩4篇、『貧しき信徒』収録1篇
2◎詩稿 赤つちの土手(大正14年4月21日編)詩39篇
3◎春のみづ(大正14年4月29日編)詩8篇、生前発表詩5篇
4◎詩稿 赤いしどめ(大正14年5月7日編)詩32篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』収録2篇
5◎詩稿 ことば(大正14年6月7日)詩67篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』収録7篇
6◎詩稿 松かぜ(大正14年6月9日)詩18篇
7◎詩稿 論理は熔ける(大正14年6月12日)詩37篇
8◎詩稿 美しき世界(大正14年8月24日編、「此の集には愛着の詩篇多し、重吉」と記載)詩43篇、生前発表詩10篇、『貧しき信徒』収録11篇
9◎詩・うたを歌わう(大正14年8月26日)詩27篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』収録7篇
10◎詩・ひびいてゆこう(大正14年9月3日編)詩21篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』収録3篇
11◎詩・花をかついで歌をうたわう(大正14年9月12日編、「愛着の詩篇よ」と記載)詩34篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』収録8篇
12◎詩・母の瞳(大正14年9月17日編)詩24篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』収録5篇
13◎詩・木と ものの音(大正14年9月21日編)詩24篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』収録1篇
14◎詩・よい日(大正14年月日)詩41篇、生前発表詩2篇
15◎詩・しづかな朝(大正14年10月8日編)詩40篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』収録2篇
16◎詩・日をゆびさしたい(大正14年10月18日編)詩34篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』収録6篇
17◎雨の日(大正14年10月編、自薦詩集、推定約20篇・現存10篇、既出小詩集と重複)
18◎詩・赤い寝衣(大正14年11月3日)詩43篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』収録6篇
19◎晩秋(大正14年11月22日編)詩67篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』収録3篇
20◎野火(大正15年1月4日編)詩102篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』収録7篇
21◎麗日(大正15年1月12日編)詩32篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』収録4篇
22◎鬼(大正15年1月22日編)詩40篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』収録2篇
23◎赤い花(大正15年2月7日編)詩54篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』収録3篇
24◎信仰詩篇(大正15年2月27日編)詩115篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』収録9篇
25◎[ 欠題詩群 ](大正15年2月以後作)詩29篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』収録3篇
26◎[ 断片詩稿 ](推定大正14年作)詩15篇
27◎ノオトA(大正15年3月11日)詩117篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』収録6篇
28◎ノオトB(大正15年5月4日)詩19篇
29◎ノオトC(大正15年5月)詩5篇
30◎ノオトD(大正15年6月)詩24篇
31◎ノオトE(昭和元年12月)詩29篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』収録5篇
32◎歿後発表詩(原稿散佚分)詩38篇
――以上、第一詩集『秋の瞳』編纂完了後に始まる八木重吉の手稿は小詩集(病床ノオト)32冊分(うち25、26は未整理分で、32は生前発表された詩篇中小詩集に出典がないもの)を数え、総数では1,213篇(17は全編重複により除外)に上ります。そのうち生前発表詩にも『貧しき信徒』にも採られていない小詩集(病床ノオト)が7部あり(2、6、7、26、28、29、30)、7部で157篇ですが、これを分けて小詩集32冊=1,213篇とし、選出対象小詩集25冊=1,056篇・未選出7冊=157篇としても、『秋の瞳』の時期の小詩集40冊=1,455篇、うち選出対象小詩集26冊=814篇・未選出14冊=641篇とは取捨選択の比率が大きく異なります。筑摩書房版『八木重吉全集』での調査では、詩集『貧しき信徒』の収録詩編全103篇の制作時期は、
・大正14年(1925年)4月~12月=62篇
・大正15年(1926年)1月~3月=28篇
・大正15年3月~昭和2年(1927年)の病床ノオトより=11篇
・年代不詳=2篇
――となり、全103篇中90篇が生前に各種の詩誌・新聞雑誌に発表されていたのが判明しました。『貧しき信徒』未収録の生前発表詩も29篇ありますから(うち24篇は小詩集から、残り5篇は直接雑誌発表)、ほぼ4年間に渡る制作時期から同人詩誌などの発表舞台を経ずに完全未発表の117篇が選ばれた第一詩集『秋の瞳』と、大正14年春~大正15年春までの1年間の制作から発表詩90篇を中心に103篇を集めた第二詩集『貧しき信徒』は制作期間も詩集成立過程も大きく異なるものでした。
八木重吉は詩誌への投稿も同人詩誌活動への参加もまったくせず、再従兄弟の加藤武雄のつてで第一詩集『秋の瞳』を自費出版した詩人でしたが、同詩集は精力的だった中堅詩人の佐藤惣之助の目にとまり、八木は佐藤の勧誘から佐藤主宰の同人詩誌「詩之家」に同人参加することになります。佐藤に遅れてもっと若い世代の草野心平から草野の主宰する詩誌「銅鑼」へ誘われますが、こちらへは「詩之家」への義理立てから同人参加はせず寄稿者に止まりました。もっとも商業詩誌だった「詩之家」と違って、自費出版詩誌「銅鑼」の場合は同人参加費の負担もありかけ持ちを止まったかもしれません。「銅鑼」「学校」「歴程」と続く草野の主宰誌は高村光太郎でさえも同人費を払って参加し成り立っていたほどでした。また詩誌に作品を発表するようになっても、家庭を持ち中学校の英語教師だった八木は詩人たちとのボヘミアン的な交際はまったくなく、詩人仲間との交際もほとんど詩集の寄贈や礼状、近況報告やお祝い、連絡程度の手紙のやり取り程度だったようです。それは第一詩集『秋の瞳』刊行から半年ほどで肺結核の発症があり、2か月間の入院を経て絶対安静の病床生活になったからでもありました。八木が逝去したのは昭和2年10月ですが、絶筆と言える詩篇が同年5月ですから晩年の重篤と、昭和2年3月~5月に編纂された第二詩集『貧しき信徒』がいかに八木にとって最後の力をふりしぼったものかを示すようです。大正15年=昭和元年は年末に元号が変わったためにややこしいのですが、簡略な年表にすると、
・1925年(大正14年)8月=『秋の瞳』刊行
・1926年(大正15年)3月=結核発症により休職、5月より重篤化
・1926年(12月、大正15年→昭和元年改元)
・1927年(昭和2年)3月=病床で『貧しき信徒』編纂開始(~5月完成)
・1927年=5月絶筆、10月26日逝去
――この年表に照らすと、
[ 詩集『貧しき信徒』収録詩編初出小詩集一覧 ]
24◎信仰詩篇(大正15年2月27日編)詩115篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』収録9篇
25◎[ 欠題詩群 ](大正15年2月以後作)詩29篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』収録3篇
26◎[ 断片詩稿 ](推定大正14年作)詩15篇
27◎ノオトA(大正15年3月11日)詩117篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』収録6篇
28◎ノオトB(大正15年5月4日)詩19篇
29◎ノオトC(大正15年5月)詩5篇
30◎ノオトD(大正15年6月)詩24篇
31◎ノオトE(昭和元年12月)詩29篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』収録5篇
――が、結核の発症で倒れる前後の最後の作品群に当たるのがわかります。また小詩集からの生前発表詩の選出がほぼそのまま詩集『貧しき信徒』に生かされていることからも、詩集編纂に先立って八木にとっての自信作選出はほぼ出来上がっていたと思えます。第一詩集『秋の瞳』刊行以降絶筆までの1年半に八木重吉が制作した詩篇は現存するだけで総数1,213篇に上り、生前に詩誌・新聞雑誌に発表した詩篇は119篇、うち90篇は没後刊行を見た全103篇収録の第二詩集『貧しき信徒』に採録されました。『貧しき信徒』未収録の生前発表詩が『貧しき信徒』収録詩篇に次ぐか、同等に重要と見られるゆえんです。また詩集収録詩篇ではなく単独に雑誌発表詩篇として読むと、これらは意外に詩集収録詩篇よりも独立性の高い詩編と取れるのです。これら詩集未収録生前発表詩篇は八木自身によって詩集『貧しき信徒』補遺として併せて読まれるだけの精選を経ていると見てもいいでしょう。
八木重吉詩集『貧しき信徒』
●詩集『貧しき信徒』未収録生前発表詩29篇
いきどほり
わたしの
いきどほりを
殺したくなつた
かけす
かけす が
とんだ、
わりに
ちひさな もんだ
かけすは
くぬ木ばやしが すきなのか、な
路
消ゆるものの
よろしさよ
桐の 疏林に きゆるひとすぢに
ゆるぎもせぬこのみち
丘
ぬくい 丘で
かへるがなくのを きいてる
いくらかんがへても
かなしいことがない
(以上4篇、大正14年7月17日「読売新聞」)
椿
つばきの花が
ぢべたへおちてる、
あんまり
おほきい木ではないが
だいぶ まだ 紅いものがのこつてる
じつにいい木だ
こんな木はすきだ
心
死のうかと おもふ
そのかんがへが
ひよいと のくと
じつに
もつたいない こころが
そこのところにすわつてた
筍
もうさう藪の
たけのこは
すこし くろくて
うんこのやうだ
ちつちやくて
生きてるやうだ
春
ふきでてきた
と いひたいな
あをいものが
あつちにも
こつちにもではじめた
なにか かう
まごまごしてゐてはならぬ
といふふうな かんがへになる
顔
悲しみを
しきものにして
しじゆう 坐つてると
かなしみのないやうな
いいかほになつてくる
わたしのかほが
絶望
絶望のうへへすわつて
うそをいつたり
憎くらしくおもうたりしてると
嘘や
にくらしさが
むくむくと うごきだして
ひかつたやうなかほをしてくる
雲
いちばんいい
わたしの かんがへと
あの 雲と
おんなじくらゐすきだ
断章
ときたま
そんなら
なにが いいんだ
とかんがへてみな
たいていは
もつたいなくなつてくるよ
春
あつさりと
うまく
春のけしきを描きたいな
ひよい ひよい と
ふでを
かるくながして
しまひに
きたない童(コドモ)を
まんなかへたたせるんだ
(以上9篇、大正14年8月「文章倶楽部」)
原つぱ
ずゐぶん
ひろい 原つぱだ
いつぽんのみちを
むしやうに あるいてゆくと
こころが
うつくしくなつて
ひとりごとをいふのがうれしくなる
松林
ほそい
松が たんとはえた
ぬくい まつばやしをゆくと
きもちが
きれいになつてしまつて
よろよろとよろけてみたりして
すこし
ひとりでふざけたくなつた
(以上2篇、大正14年9月「文章倶楽部」)
栗
あかるい、日のなかにすわつて
栗の木をみてゐると
栗の実でももいで
もつてゐたいやうな気がしてくる
よい日
よい日
あかるい日
こゝろをてのひらへもち
こゝろをみてゐたい
山
あかるい日
山をみてゐると
こゝろが かがやいてきて
なにかものをもつて
じつと立つてゐたいやうな気がしてくる
(以上3篇、大正14年11月「詩之家」)
竹を切る
こどものころは
ものを切るのがおもしろい
よく ひかげにすわつて
竹をきりこまざいてゐた
とんぼ
ゆふぐれ
岡稲(おかぼ)はふさぶさとしげつてゐる
とんぼがひかつてる
おかぼのうへにうかんでる
(以上2篇、大正14年12月「近代詩歌」)
冬
あすこの松林のとこに
お婆さんがねんねこ袢襦を着て
くもつて寒い寒いのに
赤い頭布の赤ん坊を負ぶつてゐるのがうすく見える
ほら 始終ゆすつてゐるだらう
あれにひき込まれそうにわくわく耐らなくなつてきた
朝
門松の古いのを庭隅へほつておいたら
雀がたくさんはいりこんでゐる
ひどい霜で奴等弱つてゐるな
冬
真つ赤な子供が
どこかで素裸で哭いてゐる
そつと哭いてゐるがとても寄りつけない
冬
外へ出てゐたが
明るいのがさびしくなり
家へはいつて来た
冬
朝から昼
それから晩と
うつつてゆく冬の気持ちは
つい気づかずにしまふ位かすかではあるが
一度親しみをもつと忘れられない
冬
しづかな日に
ぼんやり庭先きの葉のない桜などみてゐたら
なんだかうつすらした凄い気持ちになつた
冬
桃子とふざけながら
たのしい気持でゐても
ときたま赤いような寂しさをみたとおもふ
(以上7篇、大正15年3月「詩之家」)
暗い心
ものを考へると
暗いこころに
夢のようなものがとぼり
花のようなものがとぼり
かんがへのすえは輝いてしまう
(大正15年9月「詩之家」)
無題
藪田君が今日見舞に来てくれてうれしかつた
(昭和2年5月「生誕」、絶筆)
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)