今日も吉祥寺に行きましたが、学生時代に住んでいた井の頭線の久我山の駅に電車が停まった時、久し振りに過去の記憶が蘇りました。数年前に訪れたこの町を思い出したのです。
昔ここから早稲田に通っていました。近くの三鷹台には立教の女子高があり、電車の中で「A子ちゃん、500円貸してあげる」と言って財布を開けている女子高生。こっちは300円しか持ってないのに。お金持ちのお嬢さんなんだなって溜息をついたり。50年以上も昔の話です。
井の頭線の線路の北側には都立西高があります。息子が西高に通っていたので、当時妻は時々久我山に来ていました。チャタレー裁判(今の若い人には何のことか判らないと思う)でおなじみの作家、伊藤整の家も高台の上にありました。
線路の南側には今はない東郷青児の豪邸がありました。その豪邸の前を通って4~5分進むと、私の住んでいた家が表通りの角にありました。一戸建ての住宅でした。クーラーも電話もなく、唯一、電報が迅速な伝達手段でした。「サイフカラカネオクレ」なんて送ったものです。パソコンなんてないし、メールもなく、電卓もなく、コピーもない。全て手書きでした。渋谷にまだ「恋文横丁」があった時代で、ラブ・レターも勿論手書き。どこの家にも水洗トイレがなかった時代でした。東中野の妻の実家には当時自家浄水式の水洗トイレがありました。いま思うと不便な時代だったんですね。
<緑が多く、玉川上水はすっと下を流れる>
更に進むと、太宰治が入水自殺(実際は三鷹の辺りですが)をした玉川上水の流れがあり、川を渡ると岩通があります。その先は国学院と久我山病院の結核療棟がありました。
現在は久我山駅と西高と国学院と岩通以外何も残っていません。当時開業したばかりの久我山薬局が駅前にまだありました。更に書店が昔のまま残っていました。店の女主人にこの辺の様子を訊いてみましたが、代が変わって昔のことは判らないと言う。
50年で町はすっかり変わってしまい、住んでいた場所の特定も不可能でした。木造家屋が多い日本では仕方がないのでしょう。石の住居が基本のヨーロッパのようにはいかない。杉並区は戦災を免れたところが多く、東京市などと書かれた戦前の表札が残ってた静かな町でした。
<家があったのは、この辺りらしい>
諦めて、駅まで戻りました。駅の近くに喫茶店が朽ちて昔のままに残っていましたが、人影がなく無人でした。ここの奥にあった銭湯が消えて空き地になっていました。
この喫茶店には銭湯の帰りによく立ち寄ったものです。綺麗な娘さんが店に出ていました。ここのお嬢さんですが、来る客は彼女がお目当てでした。何かむなしい思いだけが残り、青春時代の記憶が消えた久我山を去りました。今は急行が停まる駅になっています。
年配の皆さんも若い頃に住んでいた場所を訪れたりしますか。50年といわず、20年、30年過ぎればかなり違った町になっていませんか。思い出は消えるのみです。
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ
