少し前、年末に、『八甲田山死の彷徨』 新田次郎 新潮文庫を読んだ。
子どもの頃、雪の中で旧軍人が「天は我々を見放した~」という少し怖い映画のCMが流れていた。雪中行軍、雪の中を軍隊が行軍する練習の中で多くの人が命を落としたことが、理解できず、さらに旧日本軍の軍服をTVで見るだけで怖かった私は、八甲田山の事件が何を意味するのかずっと疑問に感じていた。古本屋で見つけたとき、読んで見なくてはいけないと思い手に取った。
1902年、日露開戦がほぼ決定的になった日本。世界一の軍事大国ロシアを相手に、絶望的な戦争に頭を悩ましていた軍部。青森の師団では開戦後、津軽海峡に侵入してくるロシア艦に、青森と太平洋側の八戸の鉄道を遮断された際、迂回し連絡経路を確保することが課題となっていた。特に冬季は豪雪地帯で知られる山脈をどう越えるかが最重要課題だった。又厳寒の満州・シベリアでの戦闘を想定した場合の装備の研究等も必要だった。師団には青森の第5連隊と弘前の第31連隊があった。師団の思いつきでこの2連隊から、それぞれ31連隊からは徳島大尉、5連隊からは神田大尉が抜擢され、装備、行軍の規模、旅程を自由に決めさせることにした。図らずも両連隊を競わせる形になり、これが後に重大な結果を招くことになる。
神田大尉は、当時ではまだ珍しい、士族、華族以外からのたたき上げの軍人。能力はあったが、引け目も感じていたというのが人物像。ただ、重大な使命を帯び、すすんで徳島大尉に勉強を請い、徳島大尉も快く、以前実施した岩木山踏査の例も教えた。雪の八甲田山での再会を約束した二人だったが・・・・・・・・。
徳島大尉が20人、現地の住民を案内に立て、遅すぎるくらいの、わずかづつ進む旅程を組んだ。それに対して、神田大尉も、ほぼ勉強会で習ったとおりの編成にしようと思ったが、本来関係ない大隊本部の山田少佐が、オブザーバーとして参加することになり、実質の指揮権を奪っていき、200人規模、わずか数日での踏破、現地住民の案内は立てないという強行軍を実施した。雪の恐ろしさを知らない隊員はわずかな装備のみであわただしく出発することになる。
「一面の銀世界」や、「ホワイトクリスマス」といった親しげに、語りかけてくる雪は、そこにはなかった。八甲田の雪は。昼でも暗い重く立ち込める雲の下、ほんのわずか先を行く人間を見失わせるほどの酷さ、吹き荒れる嵐が地面の雪を再度吹き上げ打ち付けてくる。わずかな装備の油断を突き、手足の指は寒さで麻痺、血の通わない凍傷にさせ、食料も氷の塊に変える。当時は北日本には記録的な寒波がやってきており、この期間、北海道旭川では、日本の最低温度記録マイナス41度を記録している。冬の八甲田は住民でも遭難する魔の山。そこ江、記録的寒波の襲来という悪条件が重なり、5連隊は、雪の中で立ち往生することになる(方位磁針が効かない)。神田大尉の引き返すという決断も、山田少佐に覆され、次に、とどまり夜を明かすか、夜を突っ切って引き返すかでも、山田少佐にイニシアチブをとられてしまいそれが、後手後手に廻る。凍ったせいで食事を取れなかったものはさらに体力を消耗し、寄り添い寒さをしのごうとするが、外側の兵士から力尽きていく。帰営を決断した後も、道に迷い、崖や沢に行き当たっては立ち往生、脱落したり、母親の名を呼び発狂し川に飛び込むものらが続出する。後に遺体が発見されたときには、様々な方向に散在する状態だった。
5日目、青森から来た捜索隊が、雪の中に直立した仮死状態の伍長を発見。ここに始めて神田大尉をはじめとし隊が遭難したことを知る。師団は大々的な捜索隊を指揮し、生存者救出を行う。生き残ったのは山田少佐をはじめとする士官等、11名のみ。山田少佐はその後、収容された病院で自決。生き残った11人も、日露戦争の満州の激戦地で死んでいく。
冬山を甘く見たこと。装備、行程計画が不十分だったこと。指揮系統に矛盾があったこと。さらには記録的な寒波という悪運に見舞われたこと。これらが重なりこの悲劇は生まれた。
江戸から明治に変わり、欧米列強が弱肉強食を演じる世界にあって日本は極東という地理の中、清、ロシアとどうしても対峙せざるを得ない。鎖国を棄て、列強の策謀の渦に飛び込んだ以上、避けて通れない戦争のため、この無茶な行軍実験も避けることは出来なかったのかもしれない。
愚かな行為と断罪するのはあまりにもかわいそう。行軍に成功した弘前の連隊も成功を素直には喜べず、同行した原住民には遭難の秘密の口外は身の破滅と脅迫したり、関係者は数年後に満州の大地に散らせたりと、事件そのものはあっという間に人工的に風化させてしまった。
しかし避け得ない日本人が通ってきた道の一つにこの八甲田山遭難事件がある。歴史のかなたに忘却するにはあまりにも失礼な話である。新田さんの調査と筆力によりこの事件は再び日本人の前に現れる。そして高倉健、北大路欣也といった豪華俳優陣で映画も作られた。日本人として忘れてはいけない記憶の一つになった。
PS
TSUTAYAに映画のDVDを借りに行ったが無かった。店員に聞くと店には無く、TSUTAYA自体取り扱っていないとのこと。残念。TSUTAYAさん、こういう映画こそ、置いとくといいと思いますがどうでしょうか?
