『間宮林蔵』 吉村昭 講談社文庫を読んだ。
昔、見たアニメの偉人伝や教科書の中では、「ユーラシア大陸と樺太の間にある海峡を発見した人」ということで、何がすごいのかわからなかった。マゼランが発見したマゼラン海峡ほど有名ではなく、今ひとつ、ぴんと来ない偉人だった。
常陸の農家の子供、間宮林蔵は、幕府の土木工事の役人、村上島之允に見出され、彼に就いて、測量家の道を歩む。村上が蝦夷地に赴任されると、林蔵もついていく。
18世紀末、北海道は蝦夷地と呼ばれ、松前藩の支配下であったが、豊かな海産物、異国船の出没による防備、と、重要性が増したことで、幕府が直轄地とすることに決めた。
小説、『間宮林蔵』は、林蔵が海岸線測地のためクナシリ、エトロフへ渡ったときに、役所である会所を、ロシア船に襲撃されたところから始まる。
1806年、先年幕府から通商を断られ、その腹いせに襲撃した事件。弱腰の役人に混じり、林蔵も撤退を余儀なくされる。襲撃は終わるが、一戦も交えず逃げたエトロフの役人は江戸で断罪されることになる。林蔵は、あくまでも戦う意思があったことを認められ、罪は問われなかった。しかし、一度付いた不名誉を挽回すべく、その後も蝦夷地に渡り、北方探検を買って出る。
当時、西洋では測量術の急激な進歩で、ほぼ地球上の大陸の正確な海岸線がわかっていた。しかし、唯一、点線で記載される、まだ詳しくわかっていなかったのが、樺太。樺太がアムール河口付近で地続きなのか、それとも、樺太は島なのか、まだよく分かっていなかった。
フランス人ドゥ・ラ・ペルーズ、イギリス人ブロートン、ロシア人クルーゼンシュテルンと探検隊が組まれたが、海峡の最奥部に入るに従い、海が浅くなり、海藻も繁茂する中、通過は断念。海水の塩分濃度が下がるため、半島と断定し、世界で樺太は半島と言うのが通説になっていた。グーグルアースで間宮海峡を見ると、延々と緑色。衛星写真で、これだけ緑と言うことは相当浅く、船での探検は困難なはず。
林蔵はそんな世界の定説の中、また、出没するロシア船と、ロシアの極東経営がどの程度進んでいるかを調べる意味もあり、極地探検に出る。同行は、上役の松田伝十郎。アイヌの助けも借り、1808年、苦難の探検行のすえ、海峡であることを発見した。1809年、林蔵のみはさらに、大陸に渡り、中国(当時は清)の出張役所ににたどり着く。
間宮海峡の周辺に住む民族にとっては、そこが海峡であることは周知の事実だが、ヨーロッパ社会に科学的に実証されたことで、林蔵は一躍”時の人”となる。
農民出身と言う身分から、一気に出世した林蔵だが、後半生は、蝦夷地の測地と、隠密として、諸藩の探索と言う人生を歩む。
晩年の伊能忠敬と知り合い、林蔵の北海道測地がなければ、伊能が日本地図を完成しえなかったこと。
幕閣、大久保忠実の対ロシア政策ブレーンとしての活躍。
蝦夷地経営をもくろむ、水戸藩徳川斉昭と藤田東湖コンビとの関係。
近藤重蔵、最上徳内、名奉行遠山の金さんと矢部定謙、そのライバル鳥居耀蔵と、いろんな登場人物が出てくる。
そして、浜田藩の抜け荷事件、自分の作った日本地図が国外に流出すると言うシーボルト事件にも関わる。
その他、蘭学者たちとの確執も描かれ、幕末前夜の日本の有名人のオンパレード。
日本史の授業では、名前と業績を覚えるだけでおしまいの間宮林蔵が、生きた人間として、眼前に現れてくるのは吉村さんの筆力あればこそ。学校の授業は俳優の名前を覚えるだけ。しかし歴史小説だとその映画作品を見るようなもの、他の名優(偉人)との絡みもあり、異国船が日本を脅かす時代の雰囲気が良く分かる。
また、功名心と、不断の努力で、出世した林蔵だが、旅から旅の人生で、故郷に残した両親を常に気遣うあたり、小説なので、フィクションかもしれないが、吉村さんの物語を作る根底にある何かを見るようで清しい気持ちになる。
かつて、内村鑑三は、「代表的日本人」と題して、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人を採り上げたが、この5人以上に、多くの偉大な先輩が日本にはいた。間宮林蔵もまた、こうありたい日本人の要件を満たした一人だと思う。昔の人はえらいなあ。
