週末の朝のウォーキングは、まあ何とか続けている。この季節、多くの人は花粉症のため外出を嫌がるそうだが(現に家内がそう)、幸いにも自分にはそうした症状がないので、無防備で屋外にいることができる。先週末歩いたときはウォーキングの途中で何度も立ち止まり、桜の枝を見上げていたので、運動効果はイマイチだったのではないだろうか。実はこの日、前日に発表された開花宣言の検証?を兼ねたウォーキングだったのだが、運動強度が下がった分、距離で稼いだ。約10kmは、まずまずだろう。
ところでその桜の開花具合だが、木によっては一分咲き二分咲きも見られたし、なぜか満開の木もあったが、曇天で早朝だったこともあってか、全体的には一分も咲いていないどころか、五厘も咲いていない感じ。ただ、2日後に再び行ってみると、2分咲きくらいまで一気に開花が進んでいた。桜の花は一度咲き始めると、日々、いや刻々と咲いていくし、その後、同じような時間軸で花は散っていく。まさに桜の花は無常感を表したものとして、代表格的な存在なのだと誰しも感じていることだろう。
例えば、以下に挙げた今から1100年以上も前の「古今和歌集」にも桜と無常感に関する詩が詠われているように、おそらく仏教伝来(6世紀中頃と言われている)以降、日本人と桜は無常感を通してより身近なものになっていったのだと思う。こうして桜の花を見ながら時間の移ろいを考えていると、時間は大事に使わなければいけないと思う反面、時間の流れには抗えないとの考えも必要なのだとつくづく感じる。もうじき還暦。これまでも、これからも、同じ時間が過ぎていくだけ。そう思って安寧な日々を過ごしていきたい。
「空蝉(うつせみ)の世にも似たるか花ざくら
咲くと見し間にかつ散りにけり」
(桜の花は、儚いこの世に似ていて、咲き始めたと思っていたら、あっという間に散ってしまうものだ)


